地上に生まれた天使達



―エピローグ―



 目が覚めると、古びた小屋の天井が見えた。

 額の上に乗せられているのは、濡れタオルだ。



「起きたかい?」


 黒髪の中に白い髪が一房流れる女性が、顔を覗き込んでくる。


「君がこんなに積極的だなんて知らなかったよ。」

「何を勘違いしてるのか知らないけど、あんた昨日熱を出して倒れたんだよ。」

「覚えてないな……。」


 軽口を叩いてみたが、頭がぼんやりとして重い。

 雨に濡れて風邪をひいたのだろうか。


「ったく、倒れたいのはこっちだってのに、とんだ目にあったよ。」

「……ソランジュ。君の夢を見てた。」


 ソランジュは口を閉じた。


「夢の中で君は小さくて、俺はなぜか今の俺で。花畑で君は顔を赤くして、『お兄ちゃんとケッコンしたい』って。」


 花の香りに似た小屋の匂いが見せた夢だろうか。


「うわごとを言ってるのかい?」


 不機嫌そうなその声音に、ふふ、と笑うと、ソランジュはもっと機嫌を損ねたように息をついた。


「うわごとついでに聞き流してくれ。俺は君が好きだ。」


 ずっと好きだった。


「あんた、熱のせいでおかしくなってるよ。」

「聞き流せ、と言ったろ。」

「ならもっと聞き流せるうわごとを言いな。」


 病人相手に手厳しい。

 天井を見上げて、頭の隅にある事を口に出した。


「君が望めば、西の院の復興や復権もできる。」


 彼女は、ミトラ文明の技術を使って、この国を、世界すら救ってしまったのだから。


「あたしは教授みたいにはなれないし、そうした所で教授も帰ってこない。」

「全く君は……いつまで教授教授と言い続けるんだか。」


 そこで、思い出したのだ。


「ところでソランジュ。君、熱を下げる魔法くらい使えるんじゃないのか?」

「使えるけど、使ってやんないよ。」

「どうして?」

「あんた疲れた顔してるよ。熱を出してる間くらいゆっくり休みな。」

「……ディオール教授みたいにはなれないって言う割に、君ってディオール教授に似てるね。」

「いきなりなんだい。」

「仮定や理由を言わずに結論だけ与えるっていうのかな。教授には、そういう不親切な部分があった。」


 いけすかない部分と言うべきか。


「そうか?」

「それすらどこか作為的な雰囲気だったけど。察すのを待つっていうか。」


 考えるのが好きな人間ならともかく、考えるのが苦手な人間にあの教授の相手はたまったものじゃなかっただろう。


「あたしがそんな事をしてると?」

「無意識かもしれないけど、似たようなことをね。それに、ティアン。」


 ソランジュの傍によくいる少女。


「君とあの子の姿が、昔のディオール教授と君の姿に重なるときがある。」


 額のタオルが取られ、ひんやりとした新しいタオルが置かれる。 

 小屋の中に散乱する本や紙を見やって、ミシェルは尋ねた。


「どうして君は、テオノア語の勉強を始めたんだっけ?」


 答えが分からないのがいい、とソランジュは言っていた。


「あたしにしかできない事を見つけたかった。あたしがこの世界に生きていてもいい理由が欲しかった。答えがまだ見つかってないものは、あたしが答えを見つけるためにある気がしたんだ。」 


 周囲の人間からは娼婦の娘と蔑まれ、家族にも厭われ。

 けれど、誰も彼女を必要としなかった訳じゃないのに。 


 ソランジュはタオルを持って、小屋の出入り口へ向かう。


「そんな事しなくても、君には十分な存在理由があったよ。」


 ミシェルは、ソランジュの背中を見て言った。


「君は俺の妻になるんだろ。」


 子供の口約束だと、またあしらわれるだろうか。

 だが彼女は振り返ると、緩やかに笑んで言った。


「あんたが教授よりいい男になったら、考えてやるさ。」


 そして小屋の出入り口の布を揺らして、彼女は出て行った。 







 忘れようとしていた。忘れてしまいたかった。

 ミシェルもきっと忘れていると思っていたから。



 あんな約束、何の意味も無かったと。



 道端で、ソランジュは泣き崩れた。


 ずっと心細かった。

 教授に拾われて、守られて過ごした数年間。

 でも優しかった教授も居なくなった。


 自分が生きている意味を失ったような気がして、すがるように研究に没頭した。

 食べていくために働き始めた工場で、人間関係が上手く行かなくて。

「役立たず」と言われているような扱いに、追い詰められて。

 価値の無い人間だと言われているような気がして。



 何度も死んでしまいたいと思った。



「君が居てくれてよかった」「さすがだね」「頑張ったね」「よくやった」

 教授の言葉は、あたしに自信と生きる力をくれていた。

 それでも年月と共に記憶の中の教授の声は遠く、おぼろげになっていく。



 現実に呑み込まれていく。



 研究も進まなくなった。



 そんな時にティアンと出会い、ティアンに勉強を教えることで、また自分の生きる意味を見出した気がした。

 ミシェルとも再会できた。




 自分がこの世に必要な人間だと信じて生きていくのは難しいよ。

 自分を理解してくれる人が必ず居ると信じて生きていくのは辛いよ。

 でも、ティアンとミシェルは、あたしが出会える場所に居てくれた。


 働きかけをやめるなって教授は言ったけど、あたしはその言葉を本当の意味では理解してなかった。

 教授は沢山の人が正しい知識を手に入れて、差別や偏見をなくして、皆が気持ちよく暮らせる世界を作ろうとしてるんだって思ってた。

 勿論それは最終目標としてあったんだろうけど。



 教授は理解者が欲しかったんだ。

 笑ってる顔の裏で、あたしみたいに泣いてたのかな。


 この孤独を知る人間を、あたしは求めていた。



 教授。

 あたしもう少し、この街で暮らしてみようと思うんだ。

 卑屈になって、見下して、諦めて、沢山のものが見えなくなっていた。



 昨日、ティアンが言ってたよ。


『もうキョージュが苦しむ必要は無いんだ』って。


 母親を、祖父母を、クラスメイトを、教授を殺した人達を許せないのは、許してはいけないとあたしが思ってるからなんだって。

 人は不思議なもので、他人に対して抱く感情は自分に対しても抱くようにできてるらしい。その逆もまた然り。

 だから他人を憎むことは、そのまま自分を憎むことにも繋がるし、他人を許せないのは、自分を許せてないってことなんだとさ。


 ティアンに言われてやっと、教授の最後の言葉の意味が分かったよ。

 誰よりあたしが辛くなる、って言ったよね。

 あたしは確かに、許せていなかった。


 娼婦の娘に生まれた自分も、他人に理解されない自分も、教授を身を挺して守れなかった自分も。


 教授はあの時、許してくれてたんだね。

 あの人達だけじゃない。あたしのことも。


 分かるのに時間かかっちゃったね。ごめんなさい。

 こういうの、苦手分野なんだ。



 ミトラ文明の研究は一段落したから、教授が言った『他人を許せる強さ』の意味を、これからは考えていこうと思う。

 教授のヒントは無いけど、ティアンも居るし、きっと大丈夫。


 ミシェルの方はどうするのかって?

 そうだね……この国の腐った仕組みを一つか二つ綺麗なものに変えてくれたら、惚れちゃうかもね。



 心配しないで。今はまだ、教授があたしの好きな人だから。




第七章へ戻る 資料館へ戻る


Copyright©2009-2012 藤咲紫亜 All rights Reserved.