「ダメと言ったら、ダメだ! 一般人の立ち入りは禁止されている!」
想定外の事態だった。
ティアンと別れて数時間。
円を描いていると、道路上に立ち入り禁止の札があった。
近いうち、道路を遮るような形で屋敷が建つ予定だという。
まだ屋敷の土台もできていない状態だから、敷地内に入りさえすれば線が描けると思った。
だが、その敷地には見張りをしている人物が居て、市長の屋敷が建つらしいその敷地に部外者の立ち入りはできないと言われた。
その見張りの男と交渉するうち、雨が降り出していた。
「騒々しい。誰だね?」
現れたのはレニーベル市長だった。
「市長! この女が、敷地へ侵入をしようとしているんです!!」
「侵入?」
「違う……じゃない、違います。あたしは線を描きたいだけです。」
「線?」市長が不可解そうな顔をする。
「さっきから、おかしな事を言ってるんです。隕石から皆を守るためだとか、隕石を止めるとか。」
市長はソランジュの頭の上から靴の先まで、じろじろと見て、胡散臭そうなものを見るような目をした。
「こんな汚い女が一人で何を考えたのか知らんが、私達役人はお前たちの遊びに付き合っている暇は無いんだ。帰れ帰れ!」
「お願いします…!」
ソランジュは頭を下げた。
「お前の言う事が本当なら、東の院の奴らだってとっくに気付いてここに来ているだろう。それが来てないという事は、お前が一人でそう思い込んでいるだけという事だ。下層階級の娼婦風情が、何を賢い振りをしてるのやら。」
「あたしは娼婦じゃない!!」
『娼婦』という単語に、一瞬でハラワタが煮えくり返った。
下手に出ようとしていたのに、怒りを抑えきれずに叫んでしまった。
それを見て、市長はさらに侮蔑に満ちた迷惑そうな目でソランジュを見る。
「似たようなものだろう。昔から、お前ら下層の連中は人並みの教養も無いくせに、権利や自己だけはうるさく主張する。『文化喪失の日』には感謝すらしているよ。出来る人間と出来ない人間はちゃんと階級で分けられるべきだ。おかげで高学歴で有能な我々はとても過ごしやすい。お前のような頭の弱い女には窮屈かもしれんがね。まぁ、才能を持たずに生まれたことをせいぜい後悔したまえ。」
打つような雨の中、建物の間に市長の下品な笑い声が響く。
市長の言葉は、嫌な記憶を次々に思い出させる。
自分を理解してくれなかった家族。クラスメイト達。
―――「ね、ソランジュ。」
市長の笑い声をさえぎるように頭に響いたのは、穏やかな声だった。
―――「いつか正しい事を正しいと、皆が分かってくれる日が来るよ。」
能天気なまでに、彼は笑顔を絶やさなかった。
―――「だから僕らも信じよう。」
それは、彼の強さだった。
……教授。あたしには教授ほどの名声も地位も無い。教授ほど人に好かれもしないけど。
ソランジュは、雨が跳ねる地面に膝をついた。
「お願い、します……レミ・ディオール教授の研究なんです。」
教授を信じて。
あたしの事は信じなくていいから。
教授の研究は信じて。
泥で服や手が汚れるのも構わず、手をついて深く深く頭を下げた。
顔のすぐ下に濡れた地面があった。
雨は容赦なく身体を打ち続ける。
「レミ・ディオール? ふん、知らんな。高校を卒業した私が知らないと言うことは、おおかた地方の使えない研究者だろう。」
その市長の言葉がショックで、悔しくて、涙が伝った。
「卑しい人間にはプライドも無いらしい。おい、この女を警察に連れていけ!」
見張りの男が腕を掴んできた。
連れていかれる! と思った時だった。
「手を放してくれるかな。彼女は僕の古い知り合いでね。」
聞こえてきたのは、ここに居るはずの無い人物の声だった。
「デュナン事務官!」
市長はさっきまでと打って変わって、ひるんだような顔をして彼を見ていた。
「全く君は、どこまででもやりかたが下手だな。」
そして、持っていた傘を押し付けてくると、あたしの横に膝をついた。
「ミシェル……!?」
「こういうのは、偉い人間がやるから様になるんだ。」
彼にしては珍しく訳の分からない理屈を囁くと、さきほど自分がやったように地面に手をつく。
綺麗な白い制服が、泥で茶色く汚れた。
「彼女の望むとおりにさせてやってください。」
そういうと、頭を下げる。
プライドの高い彼が、こんな事をするなんて信じられなかった。
そして一拍おいた後、市長を見上げて微笑んだ。
「いいですよね?」
雨は相変わらず、強く地面を叩いている。
「う……デュナン事務官のお言葉なら、仕方ありませんな。」
モゴモゴと何か言っている市長に構わず、ミシェルはパッと立ち上がるとソランジュの腕を掴んで立ち上がらせた。
「らしいよ。続ければ?」
「……あ、ああ、ありが……」
礼を言おうとした時、鈍い音が響いた。
市長の太った身体が吹っ飛び、道路脇の建物にぶつかった。
「レミ・ディオールのことも知らないような人間が市長? 笑わせてくれるね。言っとくけど彼女は西の院出身だ。高卒程度の頭じゃ、西の院のこともよく知らないだろうから教えてあげるよ。西の院は東の院と並ぶ院だった。その意味は分かるよね? つまり学歴こそ全て、っていうお前の理論で行けば、使えないのはお前の方なんだよ。っていうか俺達の年代までは高卒なんて低学歴の扱いだったのに、ちょっといい扱いを受けるようになったくらいで何を威張っているんだか。」
ひらひら、と市長を殴った手を軽く振って、ミシェルは不機嫌そうに目を細めた。
「まだ殴られたい?」
「た、ただで済むと思うなよ、若造の分際で!」
市長は捨て台詞を残し、ほうほうの体で逃げていく。
「学歴じゃ勝てないと思ったら年齢を引き合いに出すんだ。そういうのがかっこ悪いと思う神経も、もう麻痺してるんだろうな。」
「ミシェル……大丈夫なのかい? あんな事して。」
「多分、大丈夫。ここの市長、元々裏金とかで上の人間からは目を付けられてたから。いいキッカケになるんじゃない?」
ミシェルは、ソランジュの方を見る。
その表情はとても静かで、久しぶりに会った時のやさぐれた雰囲気は無くなっていた。
「それより、君は君の仕事をして。俺も手伝うから。」
「……ああ。」
立ち入り禁止の敷地内まで線を入れる。
少し先の方から描いているミシェルの線に繋げる。
そして、その作業を数時間繰り返した後、思ったよりもずっと早くティアンと合流した。
その頃には雨はあがり、空に虹が架かっていた。
「キョージュ! その人……。」
ティアンが目を丸くしてミシェルを見た。
「黙っていてすまなかったね。ミシェルだよ。」
「ミシェル!? キョージュの幼馴染の!?」
「あれ、僕のこと知ってるの?」
「はい! キョージュから何度もお話を聞いた事があります! 基本的に良い奴なんだけど……って。」
「ふうん、後で詳しく教えてくれるかな?」
ミシェルが営業スマイルでティアンを懐柔しようとしている。
そして何故か、周囲には大勢のギャラリーができていた。
街の人が手伝ってくれたとティアンは言っていたが、その人達だろうか。
だがもうそんなことはどうでもよかった。
長時間線を描いていたせいで、身体中が痛い。
やるべき事をさっさと終わらせて家に帰りたかった。
「始めるよ。」
地面に描いたチョークの線に触れる。
この線が、音素を伝えてくれる。
「ユージュ・クア・オールタ」
ソランジュの声に応えるように、線が淡く光りだす。
―――「古代テオノア語は、強い音素の力を持った言語だ。」
決まった音階で発することで、周りの元素に効率よく強大な音のエネルギーを与える。
ミトラ文明は、恐らく言語や文字を手にいれる前から音素への理解があった。
「アルテ・ソーネア・ウォルン」
街全体が光りだす。次の瞬間、地中からふわりと抜け出るように、金色に輝く巨大な法陣が天高く浮かび上がった。
―――「言葉を発するだけで星の力すら操ることができるのは、ミトラの人々にとっても危険な事だった。だから、予言書も魔術書も、古代テオノア語を読めるだけじゃよく分からないように工夫してあるんだ。」
それは教授が残してくれた最後のヒントだった。
ここにミトラの遺した鍵……扉を封印した錠の鍵穴があるとしたら、言葉は扉を開けるための鍵。
「オーヴェ・ザント・ゼクリュミー」
目覚めよ。同胞よ目覚めよ。
これは、世界各地に眠る他の法陣に働きかける言葉だ。
金色の法陣はさらに空に大きく広がり、鼓動を刻むように震える。
法陣が震えるたび、金色の輪が生み出され、波紋のように空に広がっていった。
法陣の大きさがレニーベルの街をはるかに超え、空全体を覆うほどになった時、どこからか広がってきた金色の輪がレニーベル上空の法陣に接触した。
どこかの法陣が目覚め、輝く輪を飛ばしてきたのだ。
ほどなくして、様々な方角から幾つもの金色の輪が伝わってきた。
世界各地のミトラ法陣が目覚め、鼓動を伝えあっている。
突然、沢山の人の騒ぐ声が聞こえた。
「来た!!」
ティアンの指差した方角の空を見つめると、大きな黒い塊が空を割るように落ちてきていた。
風が吹き荒れる。
ソランジュの髪が舞い踊った。
「レクティ・ゾーラ」
標的を定めよ。
緊張で音階を間違えぬように、ゆっくり唱える。
教授、聞こえてる?
教授の足跡をたどって、ここまで来た。
貴方が正しかったと、今あたしが世界に証明するよ。
「ランヴィアス!」
法陣が強い光を蓄えだす。
この星の内部にあるというエネルギーだ。
あまりのまぶしさに、目を細める。
法陣はそのエネルギーを隕石に向かって放った。
世界中の法陣が放ったエネルギーの塊は、一斉に隕石に向かって駆けていった。
耳が壊れそうになるほどの轟音。
立っていられなくなるほどの強い風。
それが、いつまでも続いた。
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