キョージュの知り合いと言う男の人が工場に現れてから、もう何ヶ月も経っていた。
あの男の人は、あの日以来見かけない。
今朝の新聞に、隕石が降ってくるというニュースが載っていた。
それをキョージュに伝えると、「間に合った」と言って、どこからか取り出したチョークの束を持って小屋から走り出していってしまった。
「ちょ、ちょっとキョージュっ!?」
あんなに行動的な彼女を見た事が無かった。
一体何が分かったんだろう。
急いで後を追うと、彼女はレニーベルの街のレンガの地面に、チョークで線を描いていた。
「キョージュ、何してるの!?」
何も知らない人間が見たら、気が狂ったと思われてしまうかもしれない。
「この街の下に、大昔のミトラの魔法陣があるんだ。」
「魔法陣?」
「半永久的に機能するように造られた、隕石を打ち返すミトラ文明のシステム。まだ使えるはず。」
隕石を打ち返す? 野球のようにだろうか。
「法陣の外周に音素と元素で刺激を与える。そうすれば、眠っているこの街の法陣が発動するんだ。ここの法陣が目覚めれば、世界各地にあるミトラの隠された法陣が連動して目覚める。この星の中心にある巨大なエネルギーを、ミトラの法陣は地上へ引き出し、隕石へ放つ。」
そう言っているうちにも、彼女は線を描き続けていた。
「分かった! 外周だよね。私、反対方向に線を描くから! キョージュの描く線を真似すればいいんだよね!?」
キョージュは一瞬じっと私を見て、小さく頷いた。そしてポケットからチョークを山ほど渡し、「頼むよ」と言った。
「円の中心はコーネル広場の白亜の塔だ。そこから半径5キロの円を描くんだよ。レニーベルはちょうど白亜の塔を中心に円状になってる街だから、この道路に沿って描けば間違いはない。ティアン、あんたを信じてるよ。」
「……うん!」
思えば、キョージュに何か大切なことを任されるのはこれが初めてかもしれない。
嬉しくて、ドキドキして、意気込んで描き始めた。
しかし描き始めると、これが意外ときつかった。
不自然な格好で歩き続けるため、腰やら足やらが痛み出す。
半径5キロ、直径10キロ。円周は30キロを超える。
教授と反対方向に描いているが、教授とぶつかるのはいつになるだろう。
「公共の道で何をしてるんだ!」とおじさんから怒鳴られた。
「また変な人間が居るよ」とおばあさんが呆れていた。
「ちょっとやめてちょうだい、警察を呼びますよ!」とおばさんが叫んでいた。
「隕石がぶつかったら、沢山の人が死ぬんです! この街には、隕石を止める力があるんです! 私はそれを信じてる!」
何度、同じようなことを言ったかしれない。後ろからがんじがらめにされて止められかけた。
それでも振り切って、消されてもまた描いて、描いて、描いて……
泣きながら、描き続けた。
ふと、目の前のレンガに落ちたのは涙かと思ったら、違っていた。
雨がポツリポツリと降り出したのだ。
「……うっ。……うう〜っ……。」
誰からも理解されず、一人でひたすら線を描かなければいけないのが辛かった。
天気すら、自分の邪魔をしようとしているようで。
皆のために頑張っているのに。どうしてこんなに独りなの。
どうして皆、分かってくれないの。
こんな気持ちを、キョージュは一体何度味わってきたのだろう。
飲み込みきれなかった嗚咽でうぐ、うぐ、と呻きながら、ただ、キョージュを目指して描いていた。
その時だった。
雨が止んだのだ。
いや、自分の周りが雨に打たれていないだけだった。
知らない男の人が傘をさしてくれていた。
「隕石からこの星を守るために線を描いてるのって、君?」
「……はい……そうですけど……?」
「おーい! 居たよ! こっちこっち!!」
突然その人は大きな声で叫んだ。
直後、複数の走ってくる足音。
あっという間に、5,6人の若い男性に取り囲まれた。
「あ、あの……。」
非常にまずい状況な気がする。身の危険を感じた。
「びっくりさせちゃってごめん。俺達、君の噂を聞いて手伝いたいって思ってさ。」
最初に傘をさしてくれた男の人が言った。
「信じて……くれるの……?」
「んー、信じるっていうか、本当なら面白いなって思ってさ。どうせ放っておいたら隕石が落ちて大変な事になるらしいし、やらないで後悔するよりは?」
「なぁなぁ、これ道路沿いに描いていけばいいの?」
「あ、はい! コーネル広場の白亜の塔を中心に、円を描かなきゃいけなくて。」
「了ー解! 皆、手分けして描こう。チョーク、貸してくれるかな?」
「はい!」
信じられなかった。
その後も、次々に手伝ってくれる人が現れた。
濡れた髪を拭きなさいと、タオルをくれた人が居た。
飲まず食わずはかわいそうだと、おにぎりをくれた人も居た。
キョージュ、優しい人達は居るよ。
難しい事が分からなくても、頑張ってる姿を見て応援してくれる人は沢山居るよ。
私、それでいいんじゃないかって思うんだ。
連立方程式が解けなくたって、酸性とアルカリ性の違いが分からなくたって、一生懸命な気持ちは伝わるんだよ。
分かってくれるんだよ。
だから諦めないで。
この世界を、そんなに寂しい目で見つめないで。
ディオール教授に酷いことをした人達だって、今はきっと後悔してる。
皆が皆、他人の痛みを知らない人達だった訳じゃないよ。
いつだって、失敗から人間は学んでいく。そうでしょ?
あの人達は学ぶために失敗した。
ディオール教授にはそれが分かったんだよ。
だからきっと、許せたんだよ。
人間は難しいね。
嫌な事をされると嫌な事をし返したくなる。
親切にされると、親切にしたくなる。
『人は無意識に、他人の鏡になる癖がある』って、前に何かの本で読んだ。
された分だけ良い事も悪い事も返そうとする。
自分を不幸にした人間は不幸にしたいと思うし、幸せにしてくれた人間は幸せにしたい。
そうならなければいけないと思う。
……そうか。
そうだったのか。
今更気付いた。
彼女が責めて憎んでいるのは、自分の母親や教授を殺した人達だけじゃない。
キョージュの心を縛る鎖の正体が、分かった気がした。
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