いつものように作業をしていたのに、その日はいつもと違う雰囲気だった。
突然聞こえてきた人の声と沢山の人の足音にふと目をやると、
白い服を着た男性達が工場長の案内で作業場に入って来ていた。
あの白い生地に紺色の線が入った制服は、政府の役人の制服だ。
その紺色の線が多いほど、地位が高い。
工場長と話をしている長身の男性の服には、二本線が入っていた。
自分と変わらないくらいの年齢で二本線というのは出世頭の証だ。
工場長が化粧を念入りにしていたのも、髪にシャレた飾りをつけていたのも、役人に会うからだったのだろう。
普段使わないような猫なで声。可愛らしい仕草を意識しているのか、不自然なポーズを何度もしている。
(年柄も無く、みっともない……)
年増の工場長が、その青年に色目を使っているのは明らかだった。
その光景に吐き気がしたので、手元の作業に没頭する事にした。
休憩時、いつものように倉庫裏に行くと、そこに見知らぬ人物が居た。
さっき工場長と話をしていた青年だという事に気付いたとき、彼は感じの良い笑顔で「やぁ。」と柔らかく切り出した。
「ごめんね。君とちょっと話をしたくて。」
「……用件は?」
彼は笑顔を絶やさずに答えた。
「ソランジュ。君はどうしてこんな所に居る?」
心臓を素手で握られたような衝撃。
「……あんた、誰だい。」
「冷たいな。俺は君のこと、ずっと忘れられずに居たのに。」
ちょっと困ったように笑む形の良い顔。
しかしその声は、ぞっとするほど冷たかった。
そんな怒り方をする人物を知っていた。
「……ミシェル……?」
顔立ちが大人になったミシェルに、少年時代の面影はほとんど無かった。
女に好かれそうな顔をしているのは変わらなかったが。
「やっと気付いてくれた? 西の院、大変だったね。」
指先が震えているのを感じた。
怖い。なんて。
「思い出させちゃったかな……?」
「近寄るな!」
伸ばされた腕を振り払おうとしたが、逆にその手を掴まれる。
「君は変わらないな。」
「あんたは変わったね。煙草のにおいがするよ。」
ふ、っとミシェルは嗜虐的に笑んだ。
「がっかりした?」
「そういう笑い方を、昔のあんたはしなかったさ。」
「そう。ところで最初の質問にそろそろ答えてくれるかな。俺も忙しい。」
「なら初めからあたしに構うな。」
掴まれた手が少しずつ引き寄せられていく。
「君は周りに理解されなかった。君の考えを理解できる人間はごく少数だから。可哀想なソランジュ。君は呆れるくらい不器用な人間だ。矛盾や不条理、不平等を許せず、長い物に巻かれることを良しとしないそのちゃちな正義感が、君自身を苦しめる。今も昔もね。」
「……。」
「凡人と天才の違いは、努力をするかしないかだ。生まれた時に持っている能力なんて皆ほとんど変わらない。それを努力して伸ばせるのが賢い天才で、怠けて伸ばそうとしないのが馬鹿な凡人だ。努力をしてきた人間が努力をしてこなかった人間を見下すのは普通だろ? だが、努力をしてきた君が、努力をしてこなかった人間達に見下される謂れは無いんだ。」
ミシェルははっきりと、だがどこか優しい声でそう言うと、ソランジュの耳元に囁いた。
「俺なら君を救えるよ。」
「……っ!」
「工場長が気に入らないんだろ?」
ミシェルが何を言わんとしているのか、その先を聞かなくても分かった。
「それは、あんたがお役人だからかい? それとも、旧友としての哀れみかい?」
「……素直じゃないな。」
「キョージュっ!?」
そこに割り込んだのは、少女のおびえたような声だった。
ティアンだ。
ミシェルはパッとソランジュの手を放し、ティアンの方を見た。
「だ、誰ですか……? あ、さっきの……!!」
工場の視察をしていたミシェルを、ティアンも見ていたらしい。
ティアンを見て、ミシェルは人懐っこそうな笑顔を浮かべた。
「キョージュ、って、この人のこと?」
「う、……は、はい。」
「そう。僕、この人の知り合いなんだ。久しぶりに会ったから、お話してたんだよ。」
「キョージュの知り合い!?」
ティアンの前で見せるミシェルの笑顔は、わざとらしかった。
この笑顔で、彼は今の地位を手に入れてきたのだろう。
「うん。でも、もう行かないと。じゃあキョージュ、『また』ね。」
ミシェルは軽く手を振ってそう言うと、足早にその場を離れた。
「キョージュ? 怒ってる?」
知らずにしかめっ面になってしまっていたらしい。
「怒ってないよ。ちょっと複雑な知り合いでね……。」
ミシェルは国の官僚になっていた。
最後に会ってから20年ほど経っているのだから、別人のようになっていても仕方がない。
だが、あの自暴自棄にも似たすれた雰囲気は何なのだ。
世渡り上手なミシェルのことだから、きっと何不自由ない生活をし、欲しい物は全て手に入れていると思っていた。
エリート官僚として順調にキャリアを積んでいるようなのに、何故あんなに飢えたような目をしていたのか。
それが酷く気になった。
「教授、あたし、ああいう人嫌い。」
「ん?」
ディオール教授の研究は世間で注目されてはいたけど、心ない批判をされることも多かった。
およそ勉強という勉強もしたことが無さそうな、ミシェルが言う所の凡人の男が、教授のやっていることが無意味でつまらない事だと言い、そんな事を四六時中考えている教授も頭のおかしい奴だと罵った。
教授は男の言葉を聞いても、寂しそうに少し笑うだけだった。
教授の隣で聞いていてムカムカして、男に噛み付いてやろうかと思った。
言葉でではなくこの口とこの歯で。
「どうして教授、言い返さないの? あんたが物知らずだから分かんないんだって。勉強してないあんたが悪いって。教授の研究はちゃんと意味があるし、教授ぐらい頑張ってる人、あたしの知り合いには居ないよ。」
「そうかい?」
「そうだよ。教授は徹夜で研究をよくするけど、あの人徹夜で遊んだことはあっても徹夜で勉強なんてした事ないんだわ。」
教授は苦笑まじりに言った。
「それはただの偏見だよ。そんな風に人を決め付けてかかるのはやめなさい。」
「でも、勉強のできない人ほど知識や勉強をバカにするのは本当のことだよ?」
教授は、少し真剣な顔になった。
「本当のことは、時々とても残酷なんだ。それを他人に言うことが『攻撃』と見なされる事もあるんだよ。」
「本当のことを受け入れない人がいけないと思う。」
「じゃあソランジュ。事故で足を失った人に、『あなたには足が無いですね』とあえて言うかい? 触れないほうがいいこともあるだろう?」
「でも、勉強は努力すれば誰にだってできるのに…努力しない人が悪いんじゃないの?」
ミシェルもそう言っていた。辛い事から逃げ出す人間は軽蔑されて当然だと。
「僕はそうじゃないと思うなぁ。あくまで僕の考えなんだけど、人にはそれぞれ適性ってものがあると思う。それが先天的なものか後天的なものかは置いといて、物心つく頃には僕らには適性が存在していて、どう頑張っても勉強ができない人も居れば、頑張らなくてもそこそこできちゃう人も居る。そんなものだと思うよ。」
「でもあたしは……。」
「うん、ソランジュは頑張ってここまでやってきた。難しい問題とも逃げずに戦ってきたから、今のソランジュが居る。知ってるよ。でもね、ソランジュと同じだけ頑張れば全ての人がソランジュのようになれると思っちゃいけない。」
「どうして? 怠け者の言い訳みたいよ。」
「んー。僕は野菜が好きだけど、ソランジュは野菜が嫌いだよね。」
いきなり何の話をするのかと思ったものだ。
「ソランジュは、野菜の名前を覚えるのも一苦労だし、レタスとキャベツの見分けもつかない。そんなソランジュと、野菜を使う料理が得意な僕が、同じだけ時間を貰って野菜の栄養価の記憶勝負をしたとしよう。僕に勝てる自信があるかい? あるならやってみてもいいけど。」
全く無かった。
「好き嫌いも興味関心も人それぞれ。だから学校の勉強が苦手な人が居ても仕方ないんだ。それに世の中、学問だけが全てじゃない。適性に合った社会への貢献の仕方があるからね。」
教授はにっこりと笑った。
「僕はソランジュが大の野菜嫌いでも、ネギとニラを間違えて買ってきても、責めないし怒らないよ?」
「う……。」
「一人一人、物事を理解するスピードは違う。だから『分かっている僕ら』は『分からない人達』への働きかけをやめちゃいけないんだ。あの人が僕の研究を理解できなかったのは、僕の説明に問題があったからだよ。或いは、時間がもっと必要なのかな。」
「そんな事ない! 教授、小学生でも分かるように話してたよ!」
「君の理解力は、一般的な小学生のものと言うには高すぎるけどね。でも、ありがとう。君の存在は僕の救いだ。」
ディオール教授は、そこで何かを思い出したようにプッと小さく吹き出した。
「何……?」
「いや、勉強と言えば……君はレディになるお勉強もしたほうがいいね。さっき、僕の隣で凄い顔になってたから。」
どうやら、噛み付いてやる!という気持ちが顔に出ていたらしい。
「従順で寛容な女性になるのがレディになることなら、あたしはレディになんかなりたくない。」
「違うよ、ソランジュ。」
ディオール教授は、そっとソランジュの頭を撫でた。
「レディになるっていうのはね、皆に愛される女性になるって意味だ。」
どうして今更あの日のことを夢に見るのか。
気付けば、机に広げた資料の上に突っ伏していた。
ランプの光がユラユラと揺れている。
どうやら作業している途中で眠り込んでしまっていたらしい。
伸びをして、手元の紙に目をやる。
時間が無い。
作業を再開してしばらく。空が白んできた朝がた、冷えた空気の中で物音がした。
ティアンが来たのだろうかと、ふと小屋の入り口に目をやると、そこに居たのは。
「ミシェル……!?」
彼は、昨日より不機嫌そうな顔をしていた。
「工場で住所を聞いてまさかと思ったが、本当にこんな場所に住んでいたなんてな。」
「あんたには関係ないことだね。」
ミシェルは断りもなく小屋の中に入ると、床に散らばった紙を何枚か拾い、それに視線を落とした。
「リュミエールの円定理……?」
「勝手に見るな!」
紙を奪い返そうとする手をひょいとかわすと、ミシェルは目を細めてソランジュを見た。
「この小屋、テオノア語と図形と数式だらけだな。ここで何をしている。」
まるで尋問をするような厳しい声だった。
「何度言えば分かるんだ。あんたには関係ない。」
「ソランジュ。これはディオール教授の研究だな?」
何も言えなかった。
その通りだったから。
あの日……教授が死んだ日。
怒りのままに暴れて、身体中に痣と切り傷を作った。
全てを奪われたと思った。
家族より大切な教授も、完成間近だった教授の研究も、ミトラ文明の遺した貴重な文献も、親切だった西の院の仲間達も全て。
でも奪われていない物に気付いた時、ざまあみろと思った。
西の院を襲った連中は、暴力で西の院の全てを蹂躙し、破壊してやったと思っている。
でも自分は生きて、ここに居て、そして。
「あたしの頭の中に資料は全部残ってる。」
ミトラ文明の古代テオノア語の資料の翻訳は自分の仕事だった。
翻訳した資料は一文も残らず覚えていた。
翻訳後の研究は教授がしていたが、教授は毎日、研究の進み具合を教えてくれていた。
教授の言葉を手がかりに、教授の研究を完成させようと思った。
ミトラ文明は、予言と魔術の文化が進んでいた。
ミトラの予言書には、『文化喪失の日』らしき事件のことも書かれている。
世界の仕組みが変わり、混迷の時代が訪れると。
そして、その年から約10年後、隕石が降ってくるとも書かれていた。
半信半疑だった。
だが資料の研究を進める内、ミトラ文明が誇った高度な科学技術を知った。
ミトラの予言や魔術、とは詰まるところ科学だ。
自然界に存在する法則や力、この星の重力や、他の星の引力、光、水、大地、空気の元素と音の融合。
大気中の音素と元素の状態から、未来に起きることを推測する。
また、それらに手を加えて意図的に現象を起こす。
「ミトラは、あたし達を超える科学を持った文明だった。」
「それを証明するものは?」
「たとえばここに」
ミシェルの手を握る。
「小さな電撃を作り出そうか。ラーダ・メフィス。」
「っ!!」
バチ!っと何かが弾けるような音がして、ミシェルの身体が一瞬痙攣した。
「今のは……君の仕業か?」
「何だい。もう一度同じことをされたいのかい?」
「……待て、君も痛そうなんだが?」
「当たり前だろ。人の身体は導電体だ。」
この手の痺れはしばらく取れないだろう。
「なら触らなければいいだろ。」
「触らなきゃ電気の発生が上手くいかないんだよ。」
ミシェルは呆れるような顔をした。
「つまり自爆と同じか。なんて使えない『魔術』だ。」
「だから『科学』なんだ。」
ミシェルは、しばらく手のひらを握ったり開いたりして見つめていたが、ふ、と口元を笑みの形にした。
「科学的メソッドを持った古代魔術ね。面白い。」
ミシェルの声が、どこか楽しそうな雰囲気を帯びる。
昔、難しい問題に二人で挑むとき、ミシェルが同じトーンで「面白い」と言っていたことを思い出した。
「その10年後の隕石は、この星に何をもたらすって?」
「氷河期さ。太陽の光は何十年…何百年と地上に届かなくなり、地上の植物の多くが枯れる。」
人間も、生き残るのは数百人。
「ふうん。現時点では、氷河期をもたらすほど大きな隕石の情報は政府にも入ってきてないけどね。」
「そう、異空間から現れるんだ。突然。」
宇宙空間にできた裂け目から、巨大な隕石が現れる。
世界の国々も、あまりに急な出来事に対処できず、ただその隕石を待つ事しかできない。
ミトラの予言書にはそう書かれていた。
しかし、この星の危機を救うため、ミトラの人々が未来に残してくれたものがあった。
いつそのような事態になってもいいようにと、ミトラの人々が準備をしていたものが現代に残っている、という方が正しいかもしれない。
「それは?」
「まだ……肝心な部分の確認が出来てなくてね。」
「翻訳自体は済んでるんだろ?」
「ミトラの予言書は複雑にできてる。素直に読んでも訳が分からないんだよ。」
「なるほど。」
「だが……この街の下に、鍵の一つがある事は分かっている。」
「鍵の一つ?」
ミシェルが横目でこちらを見る。
「ああ、世界に散らばる鍵の一つ。」
「だから、この街に居たのか。」
「笑わないな。」
作り話だと言って笑うと思っていたが。
「笑うと思ったか? 残念だったな。」
皮肉っぽく言って、ミシェルは身を翻した。
「……理解した。」
「は?」
「君が何故こんな所に身を落としているのか理解できなかったが……納得できたから、俺は帰る。」
そういうと、ミシェルはさっさと小屋を出て行く。
慌てて、その背中を追ってしまった。
「ミシェル!」
白い制服の背中が、立ち止まった。
「訂正する。あんたは変わってないよ。相変わらず心配性だ。」
ミシェルが、穏やかに笑った気がした。
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