地上に生まれた天使達



―第四章 ミシェル―



 『文化喪失の日』から、かれこれもう10年以上経つが、それでも夜のネオンは戻ってこない。

 この国にはもう、十分なエネルギー資源が無いからだ。


 この国だけではない。世界の多くの国が、資源不足に悩んでいる。

 かつて機械化が進んだ工場も、『文化喪失の日』以降発足した新政府からエネルギーの削減を義務づけられ、そのほとんどが人間の手作業に戻った。

 ここから見える夜景が素晴らしいと言われたのは、もう還らぬ過去の話だ。



 どこからが街の建物で、どこからが空なのか……それすらも判別しにくい新月の夜の闇。

 その闇を照らし出すように、このタワーの高層階だけは無駄に輝いている。

 富裕層のためだけに造られた、特別な領域。



 そう。特別な人間達は、この状況下においてもエネルギーを好きなだけ使えるのだ。

 少ない物こそ贅沢に使う。これが富裕層の至上の幸福だった。



 いくつもの豪華なシャンデリアの下に、真っ白なクロスがかけられた丸いテーブルが並んでいる。

 客は二人だけ。貸切だった。


 美しく着飾った赤いドレスの女性は、緊張した面持ちでナプキンを取り、口元を拭う。


「どうかお気を楽に。緊張していては、最高級の料理も不味くなってしまうでしょう。」

「は、はい。ありがとうございます。」


 所作も作法も完璧な美女だった。

 自分の方をジロジロ見ず、話しかけられてちらっと目線をよこすあたりも、慎ましくて好感が持てる。



 ……最近は男に積極的な女性が増えているのか、過度な露出としつこいアプローチで攻めてくる女性にばかり出会ってうんざりしていた。

 彼女達の中には、男に付きまとったり男を挑発する事を『恋』だと勘違いしている残念な女性までいる。

 そういう女性たちが、有名な資産家の娘だったりするものだから、驚きを通り越して呆れてしまう。

 下町の高級娼婦達の方がよほど上品だ。



 目の前に居る副総理の娘は、なるほど今時珍しいお嬢様らしいお嬢様のようだ。

 ワインを少し喉に流し入れ、外向きの笑顔を貼り付けて定例どおりの質問をした。


「ミス・ベルジュ。ご趣味はなんですか?」


 ベルジュ家令嬢はナイフとフォークの動きを止め、少しうつむいて頬を染めると小さな声で答えた。


「テオノア語の勉強です。」


 そうですか、女性らしい素敵なご趣味ですね。

 いつもなら、どんな答えが返って来ても口に出す言葉はそれだった。


 しかし、この時自分はベルジュ家令嬢の答えを受け、思わず息を呑んで彼女を見つめてしまった。


「や、やっぱり変でしょうか……テオノア語なんて。」

「あぁ、いえ。変ではありませんよ。ただ、珍しいなって……どうして、テオノア語を?」


 外国語の中では、テオノア語はマイナーな言語だ。

 だが、特別な言語ではある。


「私が高校に通っていた頃のことなんですが……学校で、ある教授の講演を聴いたんです。私、もう彼の話に夢中になってしまって。絶対彼にまた会うんだと、彼が講演中に話していたテオノア語の勉強を始めたんです。でも、テオノア語は凄く難しいんですね。文字の形を覚えるのにもかなり時間がかかってしまって……」

「レミ・ディオール教授……ですか?」


 そう聞くと彼女はますます頬を赤く染めて、ナイフとフォークを握る手に力をこめた。


「……はい……ディオール教授は、私の初恋の人でした。」


 彼女の声が、だんだん遠ざかっていくようだった。


「でも、初恋は実らないって本当ですね。西の院が、あんな事になるなんて……。」


 ガタッ、と椅子を鳴らして立ち上がってしまった。


「デュナンさん……?」


 令嬢が戸惑ったような顔をする。


 とっさに軽く額に手をあてて、力なく笑ってみせる。

 そしてこう言えば問題ない。


「すいません、少し気分が悪くて。」

「まぁ。私ったら……お食事中にするお話ではありませんでしたわ。申し訳ありません。」

「いえ……最近、よく粗相をしてしまうんです。繁忙期ですし、疲れがたまっているんでしょう」


 嘘だ。そんなに簡単に動揺を表に出してたまるものか。


「ミス・ベルジュ。貴女にご迷惑をおかけしたくありません。今夜はここで失礼してもよろしいでしょうか。」

「……はい、構いませんわ。どうか、お大事に。」


 ベルジュ家令嬢は、心から心配そうな顔をしていた。

 彼女を一人、店に置いていくのは紳士として気が引けたが、嘘ではなく吐き気のようなものが段々とこみ上げてくるのを感じ、歩みを速めた。





 テオノア語。レミ・ディオール。



 それらの単語が蘇らせるのは、子供時代の嫌な記憶だ。

 嫌、という表現だけでは足りないトラウマに似たその黒い感情は、大昔に封じたつもりだった。

 都で有数の高層ビル。その最上階にある自室の洗面台の前で、彼は鏡を睨んでいた。


「ソランジュ……。」


 忘れない。



 艶のあるまっすぐな黒い髪。

 その中に流れる白い髪の一房。


 勝ち気な性格で、どんなものが相手でも物怖じしない少女。


『あたしもミシェルのこと大好きだよ。けっこんしようか。』


 花冠と花の指輪を交換した頃、彼女は自分だけのものだった。



 成長するにつれて彼女は、周りの人間との間に壁を作るようになった。

 非凡な彼女がそういう態度を取ると、どうやら周りは彼女に対する劣等感から、彼女が『すましている』『周りを見下している』と受け取るらしい。


 中途半端に知恵や自尊心がついてきた同級生達が、口さがなく彼女の生まれや言動をけなす言葉を聞きながら、彼女の不幸を哀れんでいた。


 違う。


 彼女は優越感から壁を作っているのではない。

 彼女こそ誰より劣等感に縛られ、自分を守るための壁を作ってしまったのだ。


 それが理解できないのは彼らが凡人だからだし、凡人ながらの被害妄想で彼女を攻撃するのも凡人にしかできない。



 生い立ちや家庭環境だけではない。根っからの努力家で、そのせいで賢くなってしまったことも彼女の不幸だ。

 せめて彼女が凡人であれば、理解せずに済んだ苦しみもあっただろうし、周りが彼女を僻んだり妬んだりする事も無かった。

 少なくとも実際よりは、彼女は平穏な生活を送れていたはずだ。



 けれど、彼女がクラスで浮いていけばいくほど、自分はどこか幸福を感じていた。


 本当の彼女は自分だけが知っていればいいのだ。 

 彼女の賢さは彼女と唯一成績で争えた自分にしか理解できないことだし、

 彼女の柔らかな笑顔も、澄んで凛とした声も、おどける仕草も、誰も知らなくていい事だ。


 俺だけが知っていればいい。



 ある時彼女は、テオノア語の勉強を始めた。

 知識欲が旺盛な彼女は、色んな事を勉強していたが、何故テオノア語を選んだのかと聞くと、こう答えた。


「古代テオノア語、って知ってる? 今のテオノア語の元になった言語なんだけど……古代テオノア語は、まだ解読しきれてない言語なの。」

「古代テオノア語のためにテオノア語を?」

「うん。あたし、答えが無いのが好きだから。答えが見つかってないのは、落ち着くんだ。」


 この言葉の真意は、未だによく分からない。

 既にある『答え』を覚えるという作業に、疲れてしまっていたんだろうか。



 腑に落ちない部分はあったが、これだけは確かだった。

 テオノア語が、自分から彼女を奪ったのだ。



 レミ・ディオール………何故彼女の前に現れた……!! 



 彼女のことなど何も知らなかったくせに。

 気まぐれな風のようにふらっと現れ、その身勝手な強さのままに彼女を攫っていった。



 最後の彼女の顔をよく覚えている。

 自分との約束を破ってディオール教授に会った事を申し訳ないと言っていたが、彼女は喜びを隠しきれていなかった。


 あれほどはしゃぐ彼女を久しぶりに見た。


 ディオール教授を殺してやりたいと思った。

 もう彼女は、自分だけのものでは無くなってしまったのだ。


 許せなかった。

 大切に大切に隠してきた宝物を、横取りされた気分だった。



 その後、自分は中学、そして当然のように有名な進学校の高校へと進んだ。

 彼女の祖父母が、彼女が17で西の院の院生になった事を自慢して回っていた。

 あれだけ孫娘のことを気味悪がって娼婦の娘と馬鹿にしていた癖に、彼女の出世だけは自分達の事のように自慢をするのかと、驚いて褒める振りをしながら内心蔑んでやったものだ。


 凡庸な人間は品性も欠けているらしい。


 大学も迷いはしなかった。院を戴く東西南北の大学のうち、南や北の大学は、西の大学ほどの規模でも無く、知名度も低かった。

 西の大学と競い合うほどの大学は、国で一番の大学と称される東の大学しかなかった。

 だから、東の大学に進学した。



 飛び級をして東の院へ進んだ年、『文化喪失の日』が来た。


 東の院もこの時期、全く攻撃を食らわなかった訳ではなかった。

 だが西の院の惨劇に比べれば、ほとんど無傷に近い。



 暴動の中、西の院は国宝レベルの主要な教授達と優秀な院生達を亡くし、世界的に貴重な研究資料の多くも焼失した。



 レミ・ディオール教授、生死不明。



 その知らせを受けた時、心が震えた。


 それが歓喜によるものなのか、ディオール教授の傍に居るはずの幼馴染の身を案じてのものなのか、よく分からなかった。

 だが……そう、ぼんやりと、焼けてボロボロになった服を着た彼女が、頼りなげに街中を歩く姿が脳裏に浮かんで。


 気になって、時期を見計らって西の院に行った。

 西の院の校舎は、窓ガラスは全て割られ、黒く焼けただれた姿になっていた。


 そこらから薬品か何かの異臭が漂っている。

 所々突き出ている黒く焼け焦げている枝のようなものは、本当に枝なのか、それとも人間の腕なのか。

 東の院も同じ事になっていたかもしれないと思うと、全身に鳥肌が立った。 



 院の敷地内に生きている者の気配は無く、周辺を探してみても、彼女らしい人物とすれ違うことは無かった。

 故郷の街に戻っていないかと懐かしい街に足を伸ばしたが、彼女もまた、ディオール教授とともに生死不明。


 それが突きつけられた現実だった。




「もしもし、デュナン君かい? 娘とは、楽しく話ができたかな? 娘はかなり君の事が気に入ったみたいでね。機会があればまた、相手をしてやってくれ。頼むよ。それじゃあ、明日の視察も頑張ってくれたまえ。」


 取らなかった電話にメッセージが録音される。


 もう何度、同じ事を繰り返しただろう。

 上司の機嫌を取ったら気に入られて、娘や親戚の女性を紹介される。

 無碍(むげ)にあしらう事もできないので、適当に夕食を一緒に食べ、無難な会話をする。


 その繰り返しだ。


 何度か、実験的にしばらく「お付き合い」とやらをしたことがある。


 だが結局の所、物足りないのだ。彼女達はばらつきはあるが、大体が無知で平穏と協調を愛する平凡な女性だ。

 それがホッとするという男性も居るのかもしれないが、自分はそんなお人形の女性などに興味は無い。 


 わざと彼女達を退屈させ、嫌われるために法律や政治の話ばかり振ってやった事もある。

 こちらが政治に携わる人間なのだから、予備知識くらい詰めてくるのが礼儀じゃないのか。


 テレビで何度も取り上げられてるような時事問題なら知ってるだろうと思ったが、そのレベルでも知らない女性は多い。

 その点、今日のベルジュ家令嬢は惜しかった。淑やかで、教養もそれなりにある女性。

 テオノア語とディオール教授の話が無ければ、あと2,3回くらい夕食に誘ってやってもいいかと思ったのに。




 ミシェルはベッドの上に仰向けに倒れ、腕で顔を覆っていた。 




 誰に対しても良い顔をするのには慣れている。

 学の無い相手に振る話題も常に用意している。



 相手を持ち上げ気に入られるのは、もはやどんな人間相手でも、無意識にでもできる事だった。

 人間はたやすい生き物だ。プライドを上手に刺激してやればすぐに調子に乗る。

 そうでなければ、自分はここまで出世できなかったのだが。


 今まで周りに対してそうやってきたように、女性にも妥協をするのが楽なのだろう。



 そうできないのは、彼女のせいだった―――ソランジュ。

 咲き続ける桜の花のように、記憶の中の彼女から舞い落ちる花びら。


 昔のまま鮮やかで、別れの時で時間を止めている彼女の幻影。腕を伸ばし、その首に手をかけた。

 君のせいだと、細い首を握る手に力を込めて彼女を消してしまいたかった。自分の記憶の中から。

 だがトラウマに似たそれは優しい希望にも似て、自分は彼女の幻影すらも殺すことはできなかった。






 町工場の視察など、本来は自分の仕事では無かった。


 だが『文化喪失の日』以降の富裕層でない人々の生活を把握する、という目的があって、その観光街に足を踏み入れた。

 自分達は、富裕層で無い人々を労働者階級、その更に下を貧民層と分けている。


 労働者階級と貧民層の間に、はっきりとした違いは無い。

 住んでいる場所で決められるのだ。

 貧民街は総じて地価が安く、そこに住んでいる人間が貧民層と見なされる。それだけだ。

 貧民層でも、工場で働けるし学校にも通える。


 それでもどうして貧民層という区分けがあるのかと言えば、大したことでは無い。

 この国を支えてくれる労働者階級の人々が、富裕層に対して不満を抱かないようにだ。




 スケープゴート。生贄。




 人間の「幸せ」や「不満」を感じるシステムは、酷く単純なものだ。

 自分より不幸な人間が居れば、まず不満は抱かない。

 幸せもまた同じ。不幸な他人が居て初めて自分が幸せだと感じるのだ。


 貧民層は、「平等」や「自由」と言う言葉が紙くずと消えた世界では必要不可欠な被差別的集団だった。


 ちょうど、学校で子供達のいじめが消えない理由と同じだ。

 沢山の人間がストレスの多い生活を耐え抜くためには、どうしようもなく不幸な人間が必要なのだ。




 東の院のある街からそう離れていないこのレニーベルの街には、いくつかの工場が建てられている。 

 その工場を巡っていた時だったのだ。




 黙々と針仕事をこなす女工達。こちらに気付いてソワソワとする女工も居たが、その女工達から隔離されるように、工場の隅で作業をするみすぼらしい女工が居た。


 生贄はどこにでも居るものだと、見ない振りをした。

 だが何かが胸に引っかかり、その女工に再び目を向けた。

 そして、黒髪の中に流れる白い髪の筋から目を離せなくなった。


「デュナン事務官?」


 太った工場長が当惑しているのが分かった。だが、構わなかった。


「あの女工と、この後、二人きりで話をさせてもらえますか?」


 工場長の顔から一気に血の気が引くのが分かった。


 なるほど、報告されては困ることをあれこれ彼女にしているらしい。 

 と、その一瞬で察したが、気付いてない振りをしてニッコリと微笑む。


「時間は取らせません。確認したい事が二、三、あるだけですから。」


 工場長がこちらの要求を拒否することはできなかった。




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