地上に生まれた天使達



―第三章 キョージュと教授―



 教授に会ったその日、ミシェルに相談してみると、ミシェルは教授の講演を聴きに行くことに反対した。


「下心があるに違いないよ。やめたほうがいい。」

「でも……」

「ソランジュ。僕は心配なんだ。君は頭は良いけど、世間知らずだから騙されやすい。」

「じゃあ、ミシェルも一緒に…。」


 ミシェルは、小さく溜息をついた。


「僕は明日バスケの試合があるから、無理だよ。」

「そう…。」

「とにかく、明日は家で大人しくしてること。いいね?」

「……うん。」


 ミシェルは心配性。悪意があって言ってる訳ではない事はよく分かった。


 でも、抑えられなかった。




 もう一度会いたかった。あの人に。


 会って、もっと話を聞きたかった。

 話を聞いてほしかった。




 講演会は、少し大きめな公共ホールで行われた。

 念のため早めに行って、一番前の席に座った。


 目の前にある立派な講演台。綺麗な花を活けた花瓶が横に置かれていた。

 開演時間が迫ると、後ろの方がガヤガヤとうるさくなってきた。



 振り返ってみると、椅子はほとんど人で埋まっていた。

 どうやら、今回の講演に興味を持つ人間は多いらしい。


 前説のおじさんが出てきて、緊張した様子でモゴモゴと何か今回の講演に関係する話をしていたが、ほとんど頭に入らなかった。


「では、ディオール教授にお話していただきたいと思います。教授。」


 その声で、舞台の袖から青年が出てくる。


 彼だ。


 拍手に包まれ、舞台の中心に置かれた講演台へ向かう。

 そして、講演台に両手を置いて、観客を見回して…―――あたしの所で、彼の視線は止まった。

 彼は少し目を見開いた後、ほのかに笑った。



 気のせいだと必死で自分に言い聞かせた。

 彼は観客全体に笑顔を向けたんだと。


「ご紹介にあずかりました。レミ・ディオールです。私の専門は考古学で、中でも未だ謎の多いミトラ文明の……」


 講演は本当に面白くて、あっという間に終わってしまった。

 ディオール教授は、新進気鋭の研究者で、失われた文明の謎を解明する重大な発見を学会で発表して話題になったらしい。

 後ろの席の人が話していたことだが。


 教授が再び拍手に包まれ舞台から姿を消した後、あたしは興奮冷めやらぬまま、一人ホールを出た。

 とにかく早く家に帰って、テオノア語の勉強がしたかった。

 今なら、テオノア語についてのことなら何でも理解できそうな気がした。




「君!」


 会場を出て歩いていると、くぐもった男の人の声が聞こえた。

 振り向くと、全身黒ずくめで黒メガネ・マスク着用の男性がこちらに走ってきていた。


「!?」


 変質者だと思って思わず逃げ出した。

 しかし程なくして腕をつかまれ、「離してください!」と叫ぶと、


「ごめんごめん、僕だよ!」


 と男の人はメガネとマスクを取って見せた。


「教授…!」

「いやー、普段走ったりしないと体力が落ちてダメだね。少し走っただけで息があがっちゃったよ……ふー。」


 人のよさそうな笑顔を向けてくるのは、さっきまで講演台で話をしていた教授その人だ。


「どうしてそんな格好を…。」

「さすがにホールの近くでは変装しないと、君にも迷惑かけちゃうかも知れないからね。」

「逆に通報される気がします。」

「アハハ。そうかもー。」

「……何か、ご用ですか?」

「ああ、うん。……実は僕、今日が初めての講演でね。緊張しちゃってたんだ。」


 えへへ、と照れたように教授は笑った。


「でも君が居たから、君にお話をしてると思えば講演も楽しめた。来てくれてありがとう。」

「いえ、あたしこそ。興味深いお話が聞けました。」


 教授は、そこでふと真面目な顔をした。


「ねぇ。君は大学に進む気はある?」

「大学? まだそこまでは考えてないです。」


 行く高校すらまだ決めてない。


「そう。ご家族は、君の進学に協力的?」


 そう聞かれて、思い出した事がある。


 昔の考え方を持つ祖父母は、あたしが勉強ばかりする事を良く思っていない。

 本を読む暇があるなら家事を手伝え、と言うし、女の子に勉強など必要ない、しても意味が無いと言う。

 子供の頃は父親に従い、結婚をすれば夫に従い、子供を産み育て、家庭を守る。


 昔から女はずっと男に従順で、男を影で支えてきたんだから、その生き方が正しい。

 それができない、それが嫌だと思う女は生きる価値が無いのだと。


 今は男女平等だからそんな事は無いと反論したら、育てて貰っている分際で口ごたえするなと殴られた。 


「女の子は家庭に入るのが一番らしいです。あたしが勉強しても、全部無駄なんだって……。」


 言ってて、涙がこみ上げてくるのが分かった。


 悔しかった。


 どうして女だというだけで責められなければいけないんだろう。

 どうして好きなことも否定されるんだろう。


 男に生まれてたら、認められてたの?

 好きで女に生まれたわけじゃないのに。


「……辛かったね。」


 労わるように、穏やかな声が落ちてきた。

 教授の手が頭を撫でた。昨日とは違って、壊れ物に触るように優しい手だった。

「何が理想的か、なんて、その人の立場で変わるものさ。君のご家族にとっては慣れ親しんだそういう考え方が最善でも、それが君にとっても最善とは限らない。君が喜んで受け入れるのなら別だけど、嫌だと思うなら君が最善だと思う事を選べばいいんだよ。」

「でも、大人の言うことを聞かないのはいけない事じゃないの?」

「大人も色々いるからねぇ。君のご家族みたいに女の子は将来家庭に入れーって主義の人も居るし、子供の将来は子供の物だから、自由に生きてほしい、って主義の人も居るよ。」

「そうなの? 本当?」

「そうなんですよ。ね、僕の考えも、聞いてくれる? 女性が家庭に入るのは、確かに昔は効率も良かったし時代に合っていたかもしれないけど、今の時代にはそぐわない。 昔は今と比べて物騒だったし、この国をとりまく他国の状態も、他国との関係も今と全く違ったからね。 その状態が長く続いていたから、女性は家に居たほうが色々と都合が良かった。 法律ができて警察ができて、世界的に民主化と女性の地位向上が進み、他国との文化的・経済的交流をしなければ国が成り立たない今、女性は家庭に入れ、という考え方だけ残るほうが不自然です。」


 ざわざわと心が騒ぐのは、きっと教授が難しい言葉を優しい声で話すからだ。

 こんな人を見た事がない。


「『前からやっていたから』『皆やっているから』は正しさの証明にはならないのに、自分で理由を考えずにその二つの言葉でごまかす人は多いね。  理由がそのどちらかなら、その主張は根拠なしと判断して無視をしてもいい。僕が許します。」

「いいの?」

「いいんです。物事をしっかり考えてない人が悪いんだから。僕は、そういう手抜き理論は大嫌いだっ」


 両手を腰に手を当てて不機嫌そうな顔をする教授を見て、笑いを堪えられなくなった。


「……どうかした?」

「だって教授なのに……何だか子供っぽい。ふふ。」

「いいじゃないですか子供って、善悪に対して正直で。そうだ。子供ついでに正直に言いますけど、僕はね、君の才能が世の中のために使われないのは、悪だと思うなぁ。」

「あたしの才能……?」

「あれ、自覚ない? んー。分からないならいいか。そのままの君でいてほしいってこと。」

「ふうん。」

「それにしても……そうかぁ、ご家族の理解が無いのは厳しいね。」


 教授は顎に指を当てて、うーん、と考えこんだ。そして聞いた。


「ねぇ。君は、勉強が好き?」

「うん。」

「もっともっと勉強したいと思う?」

「勉強したいって言うか……もっと色んな事を知りたい。テオノア語とか、今日、教授が話してたこととか。」

「うーん。そっかそっか。分かった。今夜一晩、時間をくれる?」

「え?」

「君は明日も休みだよね。明日の正午、またここで会おう。」

「は、はぁ。」


 何で?


「じゃ。僕は考え事をするためにここで失礼するよ。」


 しゅび!っと右手を上げると、教授は足早にその場を去った。

 そして、あたしは昨日と同じようにポツンと取り残されてしまった。


 一体何を考えるために時間が必要なのだ。

 教授はとにかく、先が読めない人だった。





「という訳で、僕が説得する。」

「は?」


 だから、どういう訳で何を説得するんだろう。


「あの、目的語をしっかり言ってもらえませんか?」

「僕が、君のご家族を、説得するんだよ。」


 その言葉に、思わず息を止めてしまう。

 それは、嬉しいけど……。


「さぁ、君の家に案内してくれる?」

「ちょ、ちょっと待ってくださいっ!」

「あ、そうだ。君の名前は何ていうの?」


 名前も知らない人間の家に何をしに行くつもりだったのだ。


「ソ、ソランジュ。」

「へえ、『太陽』と『天使』を組み合わせた名前だよね。可愛い。」


 笑顔で可愛いと言われると、急に照れてしまう。


「だ、だから! 可愛いとか……いいですから!」

「そうだよね。君の家に行かないと。」

「何でそうなってるんですか!」

「あはは。元気だね、ソランジュって。お家はこっちかな?」


 と言って、教授は勝手に歩き始めてしまう。


「ち、違います!」


 結局、案内させられた。

 一見優しげに見える教授には不思議な強引さがあって、いつもあたしは振り回されていたのだ。





「お孫さんを僕にください。」


 家で丁度休んでいた祖父母の前で、教授が真顔で口にした言葉が、よりにもよってコレだった。

 祖父母とあたしは三人揃って、硬直した。

 しばらくして祖父は激怒し始め、祖母はオロオロ。


「ふ、ふざけるな!!」


 同感です。


「ふざけてなんか居ません。おじい様。お孫さんほど将来有望な子供はそうそう居ませんよ。是非、私の元に置いて育てたいんです。」

「教授! どういう事!?」


 こんなこと一言も聞いてない。


「言ったとおりです。僕は貴方を助手として採用したい。」


 嫁にしたいという意味じゃなかった事にホッとしたが、大事なのはそこじゃなかった。


「あたし、まだ小学生で……。」

「こいつの母親は娼婦だったんだぞ。そんな母親に瓜二つの娘なんか、どうせ母親と同じでろくでもない子供に決まってるんだ。」


 祖父が言い出した言葉に、背筋が凍った。

 こんな言葉は日常的に言われるが、母親が娼婦であることを教授には話していない。


 どう思われてしまうのだろう。


「父親も誰か分からないような子供を引き取って育てるってか!?」

「できます。」


 教授の声は、祖父の怒鳴り声を受けても一切乱れず穏やかだった。


「あんたら学者は口ばっかりだ! そうやって偉そうなことを言うがいつも何もできやしない。俺にもあのバカ女とこいつが一緒だって事ぐらい分かるさ! 親の俺が言うんだ、間違いない!」

「おじい様、それは違う。お嬢様とお孫さんは親子とは言え、離れて暮らしていて別個体です。」


 ……せめて別人と言ってください。

 教授はあたしや祖父を気にせず続けた。


「お嬢様と、お孫さんが影響したり、影響されたりする事はほとんど無い。懸念すべき事があるとしたら、今現在、お孫さんがかつてのお嬢様と同じ家で、同じように育てられている事です。」

「何が言いたい?」


 祖父がうなるように言った。


「失礼ながら、お嬢様が娼婦になったのは、ご両親――つまりおじい様とおばあ様の教育の仕方が原因の可能性があります。見たところ、お二人はそれを自覚している様子も反省している様子もない。これでは、お孫さんがお嬢様のようになっても不思議じゃないですね。」

「俺達が悪いと言うのか!」

「この子、最近特に訳が分からないんですよ!」祖母はヒステリックな声で教授に言った。

「どこで覚えたのか、変な言葉を言ったり、書いたり……悪魔に取り付かれてるみたいで気味が悪い。」


 教授はその祖母の言葉に、「それは…―――」と何か言いかけたが、そのまま口を閉じて祖母の話を聞いていた。



 気味が悪い。


 と言われるのも、初めてでは無かった。


 あたしはどうも、人と違う発想をしてしまうらしい。

 中学や高校の勉強をしているのも、テオノア語を勉強するのも、家族からもクラスメイトからも、何度も奇妙がられ、陰口を言われた。


 理解を示して、認めてくれる人なんていなかった。

 ミシェル以外は。


 いつしかあたしもミシェルと一緒に、周りの人々を見下すようになっていた。


「貴方のせいじゃないんですか? この子がおかしくなったのは!」と祖母が言った。

「おばあ様にとっては、自分に理解できない物事は全て『気味の悪い』『おかしな』事なんですね? おばあ様の理解力によっておかしいかおかしくないかを決められていては、世の中溜まったものじゃありません。」

「まぁどういう意味ですか!」


 祖母が怒鳴る。

 こんな感じで何度も口論になったが、最後には祖父母すら教授の強引さに負けて、あたしは教授の下で勉強をする事になった。




「教授、軽蔑してない……?」


 教授が祖父母の説得に成功した後、勇気を出して家の前で聞いてみた。


「ん、何を?」

「母親が娼婦だって事……。」

「ああ、それ。どうして君を軽蔑しなきゃいけないの?」

「おじいちゃんが、あんな母親から生まれたあたしは汚れた娘だって言うから。あたしの母親なんか生まれなければよかったって言うの。そしたらあたしも生まれなかったのに、って。」 


 教授は、初めて会ったときのようにしゃがんであたしと目線を合わせた。


「ね。ソランジュ。間違えないでほしい。君のお母さんは必要だったよ。君がこの世界に生まれるためにね。君にしかできないことは必ずある。君を必要とする人達が居るんだ。それは誰が何と言おうと揺るがない。」


 いつになく真剣な教授の声音だった。




 西の院に戻る教授に連れられ、あたしは育った街を去ることになった。

 ミシェルには事の次第を話したが、街を出ることになった、と言うと傷ついた顔をして、何も言わずに走り去ってしまった。

 ちゃんとお別れが言いたかったが、ミシェルに会えないまま、あたしは街を去った。



 教授は仕事の合間に、あたしに色んな分野の知識を惜しみなく与えてくれた。

 ちょっと頭を使う問題が解けた時、


「賢い子だ。頑張ったね。」


 と嬉しそうに笑って、頭を撫でてくれた。

 じんわりと胸の辺りが暖かくなっていくのを感じた。

 どんなテストで満点を取っても、どんな勉強をしても、そんな風に褒められた事なんて一度も無かった。

 ずっとずっとほしかった言葉を教授がくれた。 

 だからもっと、頑張ろうと思った。





「教授って、昔っから強引だよね。」

「何の何の、この国の将来のためなら。」

「褒めてない!」


 あたしは何年か飛び級をして、17の時に大学を卒業し、院に入学した。

 そこにも、教授のゴリ押しが働いたことを言っておかなければならない。

 当初、院側はあたしが17歳で院の入学試験を受けることに難色を示していた。

 それを、「実力があればいいじゃないですか。」と説得したのだ。


 あたしは院の入試に合格し、無事院生となって、教授の研究の手伝いを始めた。


 教授の専門は考古学で、何千年も前に滅亡したミトラ文明の謎を解明する研究をしていた。

 ミトラ文明で使われていた言語が古代テオノア語。

 あたしの仕事は、古代テオノア語で書かれた資料の翻訳だった。



 レミ・ディオールが教授になったきっかけ……それはミトラの遺跡での、魔術と予言に関する膨大な資料の発見だった。


 資料は発見されたが、それらの文献は他の文献よりも内容が複雑で、高度な数学や物理、化学の知識を必要とした。

 テオノア語と違って、古代テオノア語は元々完全に解読されている言語でも無かったため、翻訳作業は難航していた。



 あたしが翻訳した文章を元に、教授が魔術の概要や仕組みを解明する。 

 翻訳作業を始めて、3度目の春。遺跡から発見された魔術の文献の翻訳作業が全て終わり、あたしは院を卒業した。


 院を卒業してからも研究員として、教授の傍で研究の手伝いをしていた。


 けれど、教授の研究が完成しないまま……その年の夏、『文化喪失の日』が来てしまった。





「知識の無い人間は判断力が無いから扇動されやすい。」


 昔、そんな事を言っていたのはミシェルだ。


「難しい言葉を使ってちょっと煽ればパニックになるし、不満や恐怖が高まった時、メディアから適当なターゲットを与えられれば、群れてそれを攻撃する。」

「情報や法則をちゃんと理解できない人間は、自分の判断に自信が無い。だから、とにかくストレスをぶつける対象を欲しがるんだ。」

「本当の所、彼らにとっては何が間違っているかなんてどうでもいいんだよ。攻撃を正当化できる理由がありさえすれば。」


 前時代の情報化社会においてはメディアが、あらゆる面で大衆の指揮を執っていた。

 支配していると言ってもいいくらいに。


「重要なのは、誰が『魔女』にしたてあげられるかだ。」


 『文化喪失の日』、メディアが『魔女』に選んだのは、この国の未来を見据えていた学者や研究者達だった。

 『文化喪失の日』を防げなかった責任を、彼らに押し付けたのだ。




 西の院にはパニックを起こした民衆が押しかけ、沢山の教授が、院生が、役立たず、税金泥棒と罵られて殺された。

 教授も、そのパニックの犠牲になってしまった。 



 院の廊下が騒がしくなった時、教授は無言であたしを部屋の一番奥、本棚の裏に押し込んだ。


「教授!?」

「いいから、ここに居なさい。」


 そう言って机に戻った教授は、扉を壊して部屋に入ってきた大きな男に襟元を乱暴に掴まれ、壁に飛ばされた。

 それを皮切りに、次々と……男が、女が入ってくる。

 本棚の隙間から、何が起きているのか見えていた。

 研究室に乱入してきた者達は、教授を殴っているのに、蹴っているのに、誰も教授なんか見てなかった。

 聞いた事も無い教授のうめき声が、痛みを堪える声が、苦しそうな息の音が、何度も聞こえてきた。

 教授は気を失う寸前まで首を絞められた後、男達に押さえ込まれ腕を片方ずつ折られた。


 教授の悲鳴に似た絶叫がこだますたび、彼らは愉悦を感じているようだった。


 もうやめて。もうやめて。と本棚の裏で何度呟いたか知れない。


 最初に教授を突き飛ばした男が教授の髪を掴むと、壁や机に教授の頭をぶつけ始めた。何度も何度も、強く。

 教授の髪から、身体から血が舞う。それを見て、周りの人間達は手を叩いて笑っていた。


 やがて教授が完全に動かなくなると、彼らは勝ち誇ったような声をあげて、床に落ちた大切な資料や研究成果が書かれた紙を、ぐちゃぐちゃに踏んで出ていった。


 高尚な思想や目的なんて感じられなかった。彼らからは身勝手な殺意しか感じなかった。

 彼らが部屋から出て行った後、血だらけで倒れている教授にかけよった。


「教授! 教授……! どうして……!?」


 何故教授がこんな目に遭わなければいけないのか。


 だが、教授が虫の息で自分に告げた言葉は信じられないものだった。


「ソランジュ……人を、恨んじゃダメだよ……誰より君が辛くなるからね……。」

「教授……!?」


 何を言っているのだ。

 どこまでボケているんだこの人は。

 その教授の態度に憤りすら覚えた。

 顔も身体も血や泥にまみれ、ボロボロになった教授は、それでも瞳の力だけは失っていなかった。


「君が、周りと少し違うというだけで……今まで、嫌な思いを沢山したことも……傷ついたことも……僕はよく知ってる……よく分かる。それでも、人を……許せる強さを、持ちなさい。」


 そうして最後まで言い終わると、少しだけいつものように緩く笑って、瞳を閉じた。





 院の全ての研究室に火が放たれ、ミトラ文明の資料も思い出も教授も全部、灰になってしまった。 


 焼け落ちる研究室から必死で一人逃げ出した後は、そのまま各地を放浪した。


 幸い、助手の給料として毎月貰っていたお金を貯めていたから、飢え死にをする事はなかった。




 暴動は各地で起きていた。


 殺し合い、奪い合い、自分のために、家族のために、悪事を働く人間も沢山居た。

 譲り合いなんかあるはずもない。

 油断すれば、目を血走らせたハゲタカ達に次に狙われるのは自分だった。



 教授はいつだって、世の中のために、国のために、社会のために、と言っていた。

 なのに、目の前の人間達は誰も自分の事ばかり考え、自分の利益しか考えていなかった。



 あんなに優しい人を。

 あんなに皆のことを考えていた人を。

 自分の事しか考えられない低脳な連中が殺したのだ。


 学も無く努力もしてこなかった連中が群れて、あんなに頑張ってきた人を。

 偉そうなこと言って正義面して、簡単に殺した。


 この不条理がどうにも可笑しくて、バカらしくて、笑いがこぼれた。



 周りなんてもうどうでもよかった。

 狂ったように色んな物を殴って蹴って、ぶつけて壊して、声が枯れるまで大笑いして……それでも。



「……許せないよ…………教授………」




 涙は止まってくれなかった。




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