あたしが生まれたのは、『文化喪失の日』の年の20年くらい前。
それまでの生活が、社会が、世界が、終わりを迎えるなんて知りもせず、誰も予想しなかった時代。
この街の名前は「レニーベル」なんてシャレたものじゃなくて、国の名前も違っていた。
封じられた70年。
『文化喪失の日』を境に歴史の教科書から消えたというその時間、何が起きたかをまず話そう。
この国は、大きな戦争に負けた。
異国の文化が急速にこの国に入り、浸透していった。
街は情報に溢れ、人々はあらゆるジャンルの映像、音楽などの娯楽を楽しんだ。
エネルギーは今よりはずっとあり、街は夜でも明るかった。
『男は外で仕事をし、女は家庭を守り男を支える』という考えかたも、「自由」や「平等」の名の下に否定された。
都会と田舎で、浸透具合に差はあれ。
階級もほとんど意味をなさなくなった。
「自由」や「平等」は、人々にあらゆるチャンスを与えた。
スポーツ選手になりたい者、ピアニストになりたい者、作家になりたい者、俳優になりたい者、研究者になりたい者。
誰もが、自由に「将来つきたい職業」を選択できるようになった。
教育は大人の義務、子供の権利とされ、高校までは国が援助する事になった。
大学や院に行く人間も沢山居た。
福祉サービスが充実し、人々は安定した生活を送れるようになった。
他国の文化だけでなく技術をも飲み込み目まぐるしく成長し、この国は世界有数の栄華を極めた。
はずだったのだ。
実際は、染まりきれてはいなかった。
異国の価値観がこの国に何百年も続いた価値観を完全に破壊して、本来の形で定着するには、もっと時間が必要だった。
せめて百年。戦争後に生まれた子供達だけで社会が構成されるまでの年月。
それがあれば。
いや、あった所で変わらなかっただろうか。
いつだって過去の人間達が、現在生きている人間の進む道を照らしているのだ。
この国は、表面は確かに、世界の基準に合わせていた。
だが、それを受け入れられない深層の部分との歪みが、時間が経つほどに大きくなっていった。
この国の人達は、元々、本音と建前で意見が違う民族だと言われていた。
だからこそ、その歪みを見逃してしまったのだろう。
建前は受容と変化、本音は拒絶と維持。
それは決して自然な形では無いのに。
受け入れるのであれば、完全な形で受け入れるべきだったのだ。
ゆっくりでも、少しずつ完全な形へ近づいていけばいいとあたしも思っていた。
その状態が続き、結果として訪れたのが少子高齢化と、それに連なる諸問題。
古い人間ほど顔を醜くして言った。
変化を受け入れたのが原因なのだと。時代を元に戻すべきなのだと。
若い世代は貧しくなっていき、国に集まる税金も少なくなり、国は借金をするようになった。
その頃はまだ民主主義で、選挙で国の代表を選んでいた。
政治家は皆、票欲しさにパフォーマンスに駆け回り、何人…何十人の人間が、できもしない約束をしては、国民を裏切った。
そんな国を若者は信用できなくなり、さらに税収は落ち込んだ。
飢え死ぬ者や自殺者が増える一方で、富を築き上げた富裕層も居た。
経済的事情で大学進学を諦める人間も居れば、金の力だけで大学に行くような人間も居た。
人は学歴ではないと…そんな言葉が流行った時期もあったが、それは良い学歴を手に入れられない人間達への慰めの言葉に過ぎず、結局雇う側は学歴を重視し続けた。
そうして貧富の差は世代を経てもリセットできないものになり、「自由」も「平等」も、見せかけだけのものになった。
社会から何らかの事情でこぼれてしまった人間達は社会復帰が難しく、仕事をせず放浪したり、親に頼って引きこもるようになった。
不況による人件費の削減で、労働者達は過度な労働を押し付けられ、次々と心を病み、過労死の増加も止まらなかった。
状態がそこまで悪化しても、国の要人たちは選挙のためのパフォーマンスと税収を増やすことしか頭に無かった。
思いがけないタイムリミットはすぐ傍まで来ていた。
数々の問題を抱えた前時代にトドメを刺したのは、世界で起きた大規模なエネルギー不足と資源の大幅な値上げ、そして食糧不足だった。
世界の経済を支える大きな国々は、元々苦しい財政を何とかごまかしてやりくりしている国が多かった。
そんな国々は、まず福祉に手が回らなくなった。
世界の街の衛生環境が悪くなっていく中、ある国で恐ろしい感染症が発生した。
ゆるやかに、だが逃れられない威力で、その波はこの国を襲った。
混乱と紛争。不満と恐怖。
老人と貧しい人間達から、病にかかるか飢えるかで落命していった。
『文化喪失の日』は一日では無い。
何週間と続いた地獄絵図のような日々の勝者は、ごく一部の富裕層だった。
これが、『文化喪失の日』までの歴史。
あたしが生まれたのは、前時代が壊れかけていた時期だった。
貧しい家に生まれた母は、何の取り柄も無かったが見かけだけは美しかったらしく、容姿を武器に政府の役人達の付き添いをしていた。
付き添いと言えば聞こえはいいが、仕事内容は役人達の夜の相手。つまりただの娼婦だ。
仕事をしてる内に子供ができ、父親が分からないままあたしを産んだ。
そして母は自分の両親に赤ん坊のあたしを押し付け、姿を消した。
母の顔は覚えていない。写真も残っていなかったから。
でも祖父母は、あたしの顔が成長するにつれ母に似てくると忌々しげに呟いていた。
親戚や近所の人は、あたしを母の生き写しとまで言う。
祖父母は冷たかったが、近所にとても仲の良い友達ができた。
色素が薄くふわふわした髪で、雪のように白い肌。
柔らかい笑顔が天使のように愛らしいミシェル。
気が強く愛想の無いあたしと違って、誰に対しても優しいミシェルは皆から愛された。
ミシェルの存在を抜きにして、あたしの幼少時代は語れない。
物心ついた頃には傍に居て、姉妹のように育った。
ある日いつものように花を摘んで遊んでいたら、ミシェルが頬を赤らめて言った。
「ねぇソランジュ、ぼくとけっこんしてくれる?」
そう言われてもまだ、あたしは勘違いをしていた。
「でもミシェル……女の子どうしはけっこんできないんだよ?」
ミシェルは泣きそうな顔をした。
「ぼく……女の子じゃないよ? ダメなの?」
「え…」
「ダメなの? ぼく、ソランジュのこと好きだよ。」
潤んだ大きな瞳で言われて、こう、なんと言えばいいか、きゅうっと胸が締め付けられたような気がした。
「あたしもミシェルのこと大好きだよ。けっこんしようか。」
「うん!」
手作りの花冠と指輪を交換して、誓いのキスをお互いの頬にした。
あの頃は『けっこん』の意味もよく知らなかったけど。
特別な人と『ずっと一緒』って約束する事なんだと思ってた。
恥ずかしさと嬉しさで、二人して顔を赤くして笑いあった。
小学校に上がっても、ミシェルとは仲良く過ごしていた。
利発で愛嬌のあるミシェルは、たちまちクラスの人気者になった。
あたしはミシェル以外の友人を作ろうとせず、いつも教室の隅でひっそり過ごしていた。
小さな街だ。
あたしの母親が娼婦だということを誰もが知っていた。
男子達からは口汚く罵られからかわれ、女子達からは距離を置かれた。
仕方がないと思えるほど大人ではなかった。
あたしはミシェル以外の人間を疎むようになった。
放課後は二人で、秘密の場所で会っていた。
そこで他愛ない話をしたり、テストを見せ合ったりした。
あたし達にとっては、勉強もテストも二人で楽しむゲームだった。
勝率はあたしの方が少し上だったが、大差で負けたこともある。
ミシェルは意外と負けず嫌いで、低学年の頃はあたしに負けるたびに泣いていた。
小学校も高学年になると、愛らしかっただけのミシェルも雰囲気や言動が大人び始めた。
すっと伸びた四肢。顔立ちには凛々しさも見え始め、快活で人懐っこい性格はそのままに、噂を聞きつけた他の学校の女子達がわざわざ会いに来るほど評判の少年になった。
あたしはと言えば相変わらず地味で、休み時間には窓からぼんやり外を眺める日々を送っていた。
それでも、放課後の密会は続いていた。
ミシェルは他の人との付き合いに忙しくなってしまったから、頻度は低くなっていたけど。
相変わらず試験で勝負をしては、一喜一憂して。
どんな試験でも満点を取らなければ勝てないし、逆に一問でもケアレスミスをしてしまうと負けてしまった。
その頃には、祖父母との折り合いはいよいよ悪くなっていて、あたしは学校でも家でも独りだった。
ミシェルはあたしの唯一の話し相手で、相談相手だった。
何を見られてしまったのか、誰かが聞きつけたのか、ある時、噂は流れてしまった。
『ミシェルが、地味女と付き合っている』と。
抱き合っていたとか、キスをしていたとか尾ひれまで付いて。
真実かと誰かに聞かれるたび、ミシェルは軽く受け流していたけれど、あたしは……あたしの方には、嫉妬や憎しみが向けられた。
それが形を持った攻撃になるまで、時間はかからなかった。
「嫌?」
ミシェルはただ、そう聞いた。
「何が……?」
と聞き返したら、珍しく目を合わせないでミシェルは言った。
「僕と付き合ってるって言われるの。」
嫌なのはそっちじゃないのかと思ったが、「別に」と返した。
するとミシェルは、ホッとするように「そう。」と言って、言葉を続けた。
「騒いでる奴らは放っておくといい。僕らと彼らは住む世界が違う。凡人達は程度が低いから、ああいう話でしか盛り上がれないんだ。」
それは、初めて見るミシェルの別の顔だった。
見下すような声音と全身で他人を軽蔑するような雰囲気。
こんな表情を、こんな姿を、ミシェルは他の人間の前では決して見せない。
「何を言われたり、されたりしても気にしないで。ソランジュの価値は僕が一番よく知ってる。」
そうして、ぎゅっと抱きしめられた。
これでは噂が本当のことになってしまうじゃないかと思って身じろぎしたら、ミシェルは身体を離して照れ笑いした。
「そっか。もう、こんなことを気軽にしていい歳じゃないね。お互い。」
突然のことに鼓動が一気に速くなってしまった。らしくない。
嫌がらせは、ずっと続いた。あの手この手と手段を変え、エスカレートしていった。
教科書が無くなることはしょっちゅうで、筆箱の中身が男子トイレにばらまかれていたこともあった。
よく飽きずにやるものだ、やる方も疲れないかと思うのだが、きっと嫉妬というものは人を狂わせるものなのだろう。
ミシェルは、できるだけ攻撃者を刺激しないように過ごしていた。
ミシェルが動いても解決はしないだろうとあたしも思っていた。
ただ時が解決してくれるのを待っていた。
ある日の放課後、いつものように一人で下校していると、その人に会った。
地面に散らばった白い紙を慌てた様子でかき集めていたから、何となく拾うのを手伝ったのだ。
そして、その書類に書いてあることが目に飛び込んだ。
「ああ、ありがとう! 助かったよ。」
「それ……テオノア語ですか?」
その人は、目を思いっきり見開いて驚いた。
「分かるのかい?」
「自分で……興味があって、勉強してるんです。」
「へえ……凄いな、その歳でテオノア語が分かるなんて!」
「いえ、単語が少し分かるくらいで、まだ文法の方は……。」
「いやいや、素晴らしいよ! まず文字を覚えるのにどれだけ苦労することか。」
「あと……すいません。それ。」
「へ?」
「ここにある数式の解、違うと思います。」
「……ここかい?」
その人は書類を食い入るようにじいーーっと見つめた。
顔に書類がくっついてしまうんじゃないかと思った。
普通、そこまで近いと焦点が合わないと思うんだけど。
「ああ、本当だ! 何てことだ! 僕の専門は数学じゃないから…なんて言い訳してる場合じゃないな。とにかくありがとう!!」
両手をつかまれ、がくがくと揺さぶられた。
そして一拍置いて、その人は私の両手を掴んだまま、「ん?」と首をひねった。
「君、失礼だけど今いくつだい?」
「11。」
「……何で三次方程式が解けるの?」
「学校の勉強、簡単すぎてつまらないから、家にあった中学と高校の教科書を読んでる。」
「まさか自学って事かい……? 塾とかに通ってるんじゃなくて?」
頷くと、その人は息を呑んだような顔をしてしばらく固まってしまった。
「……あの。」
「はっ。いかん、あんまり衝撃が大きすぎて。」
背が高いその人は、しゃがんで目線を合わせると、胸ポケットから白い小さな紙を取り出して差し出した。
「僕、西の院で教授をやってるんだ。レミ・ディオールって言うんだけど。明日、この街で講演をする事になっていてね。よかったら君も来てくれないか。テオノア語についても触れる予定だから。」
講演。行きたい。
でも、そういうものにはお金がかかるはずだ。
次の瞬間、その人はクスっと笑った。
「大丈夫。タダで聴けるよ。」
そして、大きな手でグシャグシャっとあたしの頭を撫でた。
「それじゃっ。」
書類を詰めたカバンを持ち直すと、その人は笑顔でぶんぶんと手を振って、去っていった。
つられて振り返してしまった手を、我に返って見つめた。
今、自分は白昼夢でも見ていたんじゃないかと思った。
院? 聞いた事も無い。何だそれ。
教授って言ってた。大学の先生?
凄く若い人だったけど。
渡された名刺が、これは夢じゃないと告げていた。
|