腰まで届くほどの黒髪を、左側で高くまとめた女性。
髪の一房が白く、その白い髪が黒髪の中を、闇の中の一筋の光のように流れている。
薄汚れた服を着て化粧は唇の紅一つ。それでも十分目立ってしまう妖艶さと、周りと少し違う雰囲気。
その女性を知ったのは、小等学校を卒業して工場で働きだしてからだった。
工場の隅で、他の女工達の輪に入らずに、ひたすら布の並み縫いをしている女性がいた。
その姿が不自然に浮いていて、工場に入った初日に工場長に聞いてしまった。
「あの人は?」
「ああ、あの汚ない奴? 何をやらしても下手くそでさぁ、その癖あたしのやり方が効率が悪いだの理屈がおかしいだのと口を出してくるから、もうそこで黙って並み縫いだけしてればいいって言ってやったんだ。あの作業は単調な上に、指定される縫い幅が細かくて神経使うんだけど、誰かはしなきゃいけない作業だし、使えない奴に押し付けるには丁度いいんだよ。お陰で、あたしらは楽しく他の仕事できるしね。」
丸々と太った工場長は、顔の周りのたるんだ肉を震わせて嗤(わら)った。
「履歴書覗いたら西の院卒業と書いてあったけど、どうだか。院なんてご大層なトコに居たようなエリートさんが、こんな工場で働かなきゃいけない訳がないじゃないか。」
「院……!?」
院。裕福な家に生まれた天才しか行けないという噂の学び舎だ。
この国の子供は、『義務教育』とやらで小等学校までなら学費免除になる。
けれどその後、中等学校、高等学校、大学校、院と進めるのは、学費にお金をかける余裕のある家庭の子供だけだ。
どこまで通ったかで、その後の人生も大きく変わる。らしい。
この前、隣のおばさんが何とか学費を工面して、子供を中等学校に進学させたと嬉しそうに話していた。
小等学校卒業は、町工場で働くことができる。 大抵の人は小等学校を卒業すると働き出す。
中等学校卒業なら、町工場の中でもカンリショクとやらに就けるそうだ。小等学校の先生にもなれる。
高等学校卒業なら、ちょっとした「会社」で働ける。市長さんや町長さんにもなれるって。
大学校卒業なら、大きな「会社」にも入れるみたい。
院卒業なら…………国のお偉いさんになれるんだって。
それは、後半になるにつれて、だんだんお伽話のように曖昧な雰囲気になる。
会社も分からなければ、市長さんたちの仕事も知らない。
とにかくそういう人達は、この街の別の工場で働くお父さんやお母さんよりも偉く、凄い人なんだと教えられた。
実際に院まで行った人も周りには一人も居ない。
どれほど凄いのかも分からない。市長さんよりも凄いの?
その院に彼女は通っていた? 本当に?
咳払いの音で気付いた。じっと食い入るように、隅の彼女を見つめてしまっていた。
工場長の方を見ると、わざとらしいくらい眉間に皺を寄せていた。
「どうせ嘘だよ。口だけは達者みたいだしね! あんたも騙されるんじゃないよ。大体、院って言ったって西の院なら大した事ないさ。この国で偉いのは東の院なんだからね!」
その声からは『院』という単語を口にした事を少し後悔しているような空気を感じた。
工場長は多分、他人が自分より彼女に興味を持つのが気に入らないのだろう。
いつも自分が中心で、誰の注意も自分に向けられていないと満足しないタイプだ。
作業中は工場長の自慢話ばかり聞かされた。
工場長は、高等学校まで通うことができたらしい。
本当は、遠方の「会社」に行く予定だったけど、親元を離れたくなくて、この町工場に就職したらしい。
お嬢様育ちだから洗濯も料理もできないししたくないのだと、太った身体を揺らして言っていた。
高等学校卒業。
小等学校卒業で就職する人間が多い中、確かに工場長は高学歴だ。
どう逆立ちしても院には勝てないが。
しばらくして、子供心に気付いた。
工場長が彼女を冷遇するのは、あんな風になりたくなければ、自分を持ち上げ、自分の命令には文句言わず従えという意味なのだと。
もしかしたら、彼女の肩書きへの嫉妬も混じっているのかもしれない。
他の女工達も工場長には逆らえないらしく、みんな不気味なくらい愛想を振りまき、ご機嫌を取り、平和な振りをして過ごしていた。
長い物に巻かれる彼女達の生き方は「上手い」と言うのだろう。正しいか、間違っているかは別として。
彼女を放っておけなかった。
多分、子供ならではの正義感か、好奇心で。
工場の昼休み時間、工場長の太い笑い声が響く部屋を抜け出して、姿を消したその人を探して工場の敷地内を歩き回った。
倉庫近くまで来た時、声が聞こえたのだ。
押し殺すように泣く声が。
「キョウジュ……!」
確かにそう言っていた。
隠れるように泣いていた彼女の前に出れなくて、影になる壁に背中を当てて立ち尽くしてしまった。
時間が流れるのが、とてつもなく遅く感じた。
やがて、しばらくの静寂。
「盗み聞きかい?」
(ばれた!)
ズキリと、胸に鋭い痛みが走った。
彼女は怒るだろうか。変に思うだろうか。軽蔑するだろうか。
影から出てみたが、彼女の方をまっすぐに見る事ができない。
「今日入ってきた新人か。あたしに関わるなって教えられなかった?」
彼女の声は思ったより穏やかで、優しげだった。
「院に……居たって、本当?」
彼女は片方の眉を器用に上げた。
「名前は?」
「え?」
「名乗らない奴に答える義理は無いね。」
「……ティアン。」
「そう。院に居たのは本当。」
「凄い! ねぇ、院ってどんなとこ!? 何を勉強するの!? 小等学校と何が違うの!? 」
「……何でそんな事を知りたいんだい?」
彼女は迷惑そうな表情を浮かべて、乱れた髪を払った。
何で知りたいかなんて、考えたことも無かった。
知りたいから知りたいのだ。そこに理由などない。
「……知らない事を知ると面白いから、かな。子供が物の名前を聞くのは当然の事でしょう? 院のことは、私の周りの人は誰も知らないし…せっかく答えを知ってる人が居るんだもの。聞かなきゃ損だわ!」
「……やれやれ。」
「ね、キョージュ、って、大学校の先生のことだよね? テレビとかで、たまに見かける人達だよね?」
「キョウジュは、院の先生でもあるよ。」
それは初耳だ。
「そうなの? 大学校の先生と院の先生は一緒なの? どうして?」
「どうしてって言われても……。昔からそうだからとしか言えないねぇ……。」
彼女は少し困ったような顔をして言った。
「ふうん……変なのぉ。小等学校と中等学校の先生は違うよ?」
「……小等学校と中等学校より大学校と院の方が、勉強する内容が近いんだよ。発展させた形っていうのかな。だから、同じキョウジュに見てもらう。」
「院では、どんなことを勉強するの?」
「そうだねぇ……この世の仕組み、色んな生物の存在する理由。物事の原因や結果。そんなものの解明。選んだ分野によってやりかたは変わるけど、勉強と言うよりは、あたしの院での生活は、それまでに付けた知識を元にした予測と確認の繰り返しだった。」
「何を勉強してた?」
「……内緒。言ったって信じないから。」
「えええええ。」
ケチだ。
この人はケチだ。
「でも楽しかったよ。とびきり。」
その時初めて、彼女の笑顔を見た気がした。
少し寂しげだったのが気になったけど。
「へえー、いいなー、私も中等学校に進んで、もっと勉強したかったなぁ。」
「行けなかったのかい?」
「うん。妹が二人居るの。私、テストではいつも学校で一番だったのよ? でも私の家、お金が無いから…あなたはお姉ちゃんだから、妹達のために我慢してね、って言われちゃった。」
「そうか……もう奨学金なんて無いんだったね……。」
「ショウガクキン?」
ちょっと噛みそうな言葉だ。
「貧しい家庭の子供が、学校に通うために必要なお金を貸してくれるシステムがあったんだ。いや、そもそも……あたしの時代は『高校』と呼んでたけど、あんた達で言う『高等学校』までなら、この国でもタダで通えてたんだ。………『文化喪失の日』までは。」
『文化喪失の日』。小等学校の社会の教科書から消されている歴史的事件。
起きたのは、今から10年くらい前。
それまで「自由」や「平等」や「基本的人権」と言う言葉に守られ、社会生活を謳歌していた人類が、先人達から受け継がれた叡智を、自らが築き上げた文化を、秩序を、平和を、ゴミくずのように捨てた日。
文化喪失の日以前に生まれ、前時代の豊かな生活を知る両親は、あの頃はよかったと口にする。
ならばどうして捨ててしまったのか。
私だって、こんな時代に生まれたかった訳ではないのだ。
気がつけば、生まれた家の豊かさによって一生が決まってしまう国に、時代に生きていた。
格差があるのなんて当たり前だし、自由だってあまり無い。
国民は一人も漏れなくデータ化され、国の管理下に置かれている。
就職するにも引越しするにも結婚するにも、国の許可が要る。
「『文化喪失の日』は、学校で習ったかい?」
「ううん。先生達は、聞いても教えてくれない。先生達の決まりで、その事件の事は教えちゃいけないんだって。その事件だけじゃなくて、学校の社会で習うのは『文化喪失の日』よりもっと前の…大きな戦争が終わった所までなの。」
「下手に前時代の話をして、レジスタンスでも組織されちゃ困るって事かねぇ…。」
「でも、やっぱり隠されると気になっちゃうじゃない? だから周りの大人達に聞いて回ったの。“そんな事話したら警察に捕まるよ”って言って話してくれない人が多かったけど、何人かは話してくれたわ。だから私は『文化喪失の日』の事も、前時代のことも知ってる。」
「……ティアン。」
彼女は、眉をひそめて低い声で言った。
「『知る事』に対して貪欲なあんたの姿勢は嫌いじゃない。だけど、気をつけな。今の時代、あんたみたいな変わり者は危険分子と判断されかねない。」
「危険……分子?」
「現在の状態を壊してしまう可能性がある、『邪魔な存在』って事さ。今だってそうだろ。工場長の中では、あたしが工場で孤立して誰とも喋らないのが、一番平和で安定している状態なんだ。それを今、あんたは壊してる。」
「これがいけない事なの?」
「さぁ…どうだろうね。それを判断する人間が歪んでいるからね。とにかく、この工場は工場長の支配する世界だ。目立つことはしないほうがいい。」
「……ねぇ。」
「ん?」
どうしてさっき泣いていたの、と聞きたかった。
いつものように聞けばいいと思ったのに、聞けなかった。
「私は貴方の事を、なんて呼べばいいかな?」
「何とでも。どうせもう誰も呼びやしない名前さ。」
「じゃあ、キョージュって呼んでいい? 私より沢山色んな事を知ってるし、これからもっともっと教えてもらいたいから。」
「……ついさっき言った事、聞いてたかい? あたしに構うと痛い目に遭うよ。」
「いいよ。だって私の知りたいことは、ここでは貴方が一番よく知ってる気がする。よろしく、キョージュ!」
そう言って、右手を勢いよく差し出した。
嬉しかった。
ここだけじゃない、知らない世界の事を教えてくれる人がそばに居るのが、嬉しかった。
工場長は、私がキョージュに付きまとうのが相当気に入らなかったらしく、私に対しても分かりやすい仲間はずれをしてきたり、人が嫌がる仕事を押し付けたりしてきた。
今ではキョージュのように、私も皆とは違う仕事を任されている。
キョージュも私も、やってるのは場所なんて関係ない作業だから、一緒に居ようと思えばできるけど、それを工場長が許すはずもなかった。
キョージュとは作業場を思いっきり離され、来る日も来る日も、一人でずっと単調作業。
でも、工場長の傍で一日中つまらない話を聞いて、ご機嫌をとって疲れるのとどっちがマシかと言うと、よく分からなかった。
単調な作業は良い。慣れれば他に考え事ができる。キョージュの話を思い出すと楽しい。
一人なら尚、集中できた。
そして、昼の休みはキョージュと一緒に過ごす。この時間がたまらない。
キョージュは、中等学校で習う勉強も教えてくれた。
宿題も出してくれた。
キョージュの教え方は小等学校の先生より上手い。
だから、もっと勉強が好きになった。
私がキョージュに勉強を習う姿を、周りの人達は不思議な目で見ていた。
陰で笑う人や、「頭の良いフリをして、目障りだ」と言う人まで居た。
親戚や家族からは、そんなものにウツツを抜かす暇があるなら、もっと仕事に集中しろと言われた。
分からなかった。
勉強は世の中の仕組みを知る作業で、それはそんなに意味の無いことで、人から責められるような悪い事なんだろうか。
「手に入れるまでは、それが無いことにも気付かない。何だってそんなものだろ。知識を持たない人間が知識の価値や意味を理解できる訳が無い。だから簡単に馬鹿にできる。」
キョージュは冷めた目でそう言った。
キョージュが『教授』について教えてくれたのは、そんな生活が一年くらい続いた頃だった。
どうしてキョージュは院を卒業してここに居るのか、今までどんな人生だったのかと、ずっと聞けなかったことを聞いてみた。
するとキョージュは、ちょっと驚いたような顔をした後に、
「言っとくけど、長い上にオチは無いしつまらないよ」
と前置きして、ポツリポツリと、静かに言葉を繋いでいった。
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