最後の女神〜アストライア〜(上)



「この世は、大人になった方がバカを見る。」

 ある日の放課後。
 その友人は、窓の外を見ながらそう呟いた。
 脈絡の無い言葉に、僕は思わず首を傾げてしまった。

「いつだって、得をするのは子供だ。」

 自嘲的に笑んで紡がれた続きの言葉は、どこか寂しげな響きを持っていた。

「ルイ、何の話?」

 夜の闇のように黒い髪と瞳が印象的な彼女―涙<ルイ>―は、ようやくこちらを見る。

「最近、子供の方が大人よりも大人っぽいとは思わないか?」

「え…何で?」

「いや…大人の幼児化に苛立ってただけだよ。外交の場では顕著だな。私達の認識では、ワガママを通すのは子供のやり方で譲るのは大人のやり方だ。だが、外交の場でもガキな国ほどワガママを通すし、大人の作法を知っている国は損をしやすい。大人は子供に勝ちを譲るのが普通だから、子供のようにダダをこねていれば勝利できるとでも思っているのかもしれないが……恥ずかしくはないのか。」

「それは……お国の違いと言うのもあるから、僕達は恥ずかしいと思ってても相手にとってはごく普通の意見の通し方かも知れないし……。」

「だが、れっきとした日本人の成人でも中身が子供の奴らは居るぞ。その予備軍もな。」

「それは問題だけど…」

「…アレを見てみろ。」

 投げやりに親指で指差されたアレは、窓の外ではしゃぐ女子生徒達だった。
 髪は茶色に染められ、派手な化粧とミニスカートが特徴的な女子生徒達。

「さっきから下らない話で盛り上がってるよ。C組の女子がA組の男子の事を好きだとか、芸能人の誰がかっこいいだとか、どこの化粧品がいいだとか。」

「それは…普通じゃないの? 女の子って、そういう話好きでしょ。」

「そうか? 私にはつまらない話題だ。…しかしのんきなものだな。色恋や外見を磨くのに費やす時間があるなら、定期考査程度で欠点を取る頭の空っぽさをどうにかした方がいいと思うんだが。」

 細められたルイの瞳。
 その瞳の奥に宿っている感情は言うまでもなく『軽蔑』だ。
 今まで自分は、何度となくこの瞳を見てきた。

「ルイとは考え方が違うんだよ、きっと…でも、それでいいんじゃないかな。」

 だって、人は十人十色だ。
 大切なものだって違うはずだ。
 ルイは色恋よりも勉強が大事だというけど、それはあくまで『ルイの基準』であって、『人類の基準』でも誰かに押し付けられるものでもない。
 きっと、彼女達には彼女達なりの想いや考えがあって色恋沙汰に身を投じているのだろうし、それで何か(例えばテストとか)に弊害が出たとしても、その責任は自分で取ることができるのだろう。

 僕は彼女達よりも、ルイの方が心配だ。

「ルイも、色恋沙汰とかに興味を持ったほうがいいと思うよ?」

「興味が無いものは仕方が無いだろう。」

 即答されたー。

「でもさ。勿体ないよ。」

「何が?」

「何がって…だって、若い時なんてあっと言う間に過ぎていっちゃうんだよ? 勉強なんていつでもできるし、歳を取ったらどうせ難しい事ばかり考えなきゃいけなくなるんだから、今はあの子達みたいにはしゃいだり、人生を思いっきり楽しんだりしなきゃいけないんじゃないかな? 損してるって思わない?」

「思わないよ。彼女達に将来与えられる損の大きさと比べれば。それにもし私が子供なら、彼女達がなりそうな知識が浅くて判断能力に欠ける大人を尊敬などできそうもないし。」

「またそんな屁理屈を!」

「知らない人間よりも知っている人間の方が強く、また真理にも近い。それは当然の理<ことわり>だ。」

「じゃあルイはあの子達が知ってる事を知ってるの? 人を好きになったりしたことあるっていうの?」

「その問いにはどれほどの意味がある? 経験は知識に先行する。今更そんな事を言い出すつもりか?」

「その通りだよ。経験に勝る知識は無い!」

「不審者には付いていくな。いざとなったら助けを呼べと教えられた生徒達と、教えられていない生徒達。どちらが犯罪に巻き込まれる可能性が高いと思う? そんな事まで『経験』で学べというのか? 死んでから学んでも遅いぞ。」

「だから、何でそんな特殊なものを持ち出すんだよ。それとは話が違うだろ! 知識にだって種類はあるんだ。学術的なものとか、実用的なものとか。学校で得る知識なんて、実用的なものは限られてる。」

「それは違うな。どんな知識がどんな形で自分の身を守るかなど、誰にも分かりはしない。実用的か否かなど誰にも分からない。だから無駄な知識などこの世には存在しないんだ。」

「無駄な経験だって存在しないよ。」

「経験は大なり小なりリスクを伴うがな。同じ経験をするにしても、予備知識が有るのと無いのとでは違うだろう。」

「そういう、何でも頭でしか物を考えられないのを頭でっかちって言うんじゃないの?」

「お前はどうなんだ?」

「何…?」

「朔夜<サクヤ>、一応言っておこうか。私は経験を軽んじている訳ではない。経験しなければ身につかない事が沢山あることも、わざわざお前に言われなくとも知っている。だが、お前はどうなんだ? 知識を軽んじてはいないか? 私は知識も経験も同じくらい大切だと思っている。だがお前の中では、知識の上に経験が据え置かれている、そうだろう?」

「…そうだよ。僕は多分、ルイが嫌うあの女の子達に近い立場に居ると思う。」

「お前を白としよう。攻撃しやすいのは、対極に位置する黒だ。何故攻撃しやすいか分かるか?」

 また例え話だ。
 ルイはしばしば例えを使う。

「…さぁ。」

「それは黒が、お前の持つ要素を何一つ持っていないからだ。例えば相手が極めてお前に近い黄色だったら?上手く攻撃する手段を思い付けるか? 人は『枠』を作りたがるのさ。複数の『枠』で自分達を分けて、優劣を決めたがる。小学生のクラスでもよく見かけるだろう。どんくさい者、そうでない者。髪の色が黒い者、それ以外の者。都会育ちと、地方出身者――そして、自分達を中心に描かれた幾つもの枠の中に最後まで入らなかった、一番少数派の攻撃しやすい者達をターゲットに選ぶ。それが一番簡単な《異端者》の決め方だからだ。」

 ルイは、つい、と視線を女子生徒達へ戻して言った。

「お前は私に黒で居てほしいんだろう? 灰色ではダメなんだ。上手く枠の外へ追い出す事ができないから。」

「何が言いたいの?」

「初めから意味など無いんだよ、私達の議論には。灰色である私が、お前には黒にしか見えていなかったんだから。」

「だって、ルイは経験が大事だなんて一言も言わなかったじゃないか!」

「経験を貶(おとし)めても居ないだろう。お前は知識をバカにしていたがな。そこで、私達の認識にズレが生じていた事に気付かなかったのか? 私はお前にボールを投げる。だがお前は、私の1メートル横に居る『お前が勝手に作り上げた黒の私』にボールを投げ返していた。“投げやすかった”からだろう?」

「違う…っ!」

「違わないさ。そうだな…違うというのなら、改めて問おうじゃないか。私は知識も経験も優劣つけずに人間にとって欠く事はできないと思っている。言わば中立者だ。お前は経験が優位だと主張する者だ。お前が知識を軽んじる理由は何だ?」

「軽んじてる訳じゃない!」

「ならば私と同じ立場か? 違うだろう。経験を優、知識を劣と見なすその理由を答えよ。」

「それは…。」

「分からないなら私が答えようか。それはな、お前が自分の知識よりも経験の方に自信を持っているからだよ。人は他人に対して、無意識に自分を大きく見せようとする。だから、自分が今現在持っているものを過大評価したがるんだ。」

「違う、違うっ…!!」

「それを考えると、経験が優位だと答える人間の多さは憂うべき状況だろう。知識が乏しい愚か者の多さをそのまま示している。だからこそ、私は経験ではなく知識が重要だと言った。私はこの世界の中立者で居たい。中立者は、言わばバランサー。天秤が右へ傾けば左へ行くし、左へ傾けば右へ行く。」

 そう言ってルイは瞳を閉じて、左手の手のひらを天秤の皿のようにしてゆっくりと持ち上げた。

「偏りは弊害を生む。平等と公平の象徴である天秤こそ、この世の真理と正義を示す。」


 アストライア――星乙女。
 布で隠した両目は偏見を持たぬ事を意味し、左手には公平と正義を象徴する天秤、右手には悪を裁く剣を持った女神。

 まるでルイは、正邪を裁く古代の正義の女神のようだ。
 神話の中では、アストライアは醜い争いや犯罪を繰り返す人間の愚かさに失望して、地上を去ったという。

「人間は愚かだよ。愚かで醜悪だ。自分の為なら、天秤に小細工をする事も躊躇わない。だからこそ、この世界は天と大地に捨てられたんだ。」



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