最後の女神〜アストライア〜(下)



 ルイは、再び外に目を向けた。
 女子生徒達の姿はない。
 きっと帰ったのだろう。

 澄んだルイの声だけが、教室に響く。
「……とはいえ、全く分からない訳でも無いんだ。人が麻薬に走りたくなるのも。この社会は、不条理な事が多すぎる。この日、この教室でさえも。」

「ここで?」

「教育、というものは不平等の塊のようなものだからな。裕福な家庭は、子供がどんなに無能でも、その金で子供の能力を多少は伸ばす事ができる。貧しい家庭は、子供にどんなに天才的な才能があったとしても、そして本人がどんなに望んでいても、相応しい教育を施すのは難しい事が多い。これをどう思う?」

「もったいない……とは思うよ。伸ばせる能力は伸ばさなきゃいけないと思う。本人が望むなら尚更。でも、才能の有無は判断が難しいんじゃないの? もしあると分かったからって、上手く開花するかなんて誰にも分からないし。」

「だが、これは恐ろしい問題を孕んでいる。家が金持ちと言うだけで、無能な人材がさも有能であるかのような肩書きで世に出て行くんだぞ。そして、この国の実権を握る事さえある。そんな無能者がこの国を動かす事になったら、国は滅びる。」

「ルイは考えすぎだって。だって、中学までは義務教育で皆勉強できる仕組みになってるじゃない。」

「中卒で国や都道府県を動かしていけるか? お前ならどうだ。やはり高校や大学で何かしら知識を身につけた人間に任せたいと思うだろう。」

「そりゃ…まぁ。中学程度の政治の知識しかないのはちょっと…怖いかも。」

「良い高校へ進んで、良い大学へ進んだ者は、この国の中枢を任される事が多い。学歴社会ではなくなったと言われていても、それが現状だ。選挙で国民の代表を選ぶときの基準として『人柄』を挙げる者は沢山居るが、それは二の次。まずは学歴で最初のザルにかけられる。だってそうだろう? 候補者一人一人の人柄を理解するには、コミュニティが大きくなりすぎている。だが、一番大きな問題点はここではない。『良い高校を出て良い大学へ進む』多くのものが裕福な家庭の者であるのが問題なのだ。」

「裕福な家庭の人達が、権力を独占するから?」

「そう。裕福な家庭は、言わば強者だ。貧しい家庭は弱者。強者が権力を独占するのを…鬼に金棒とでも言うのかな。言ってみれば、やりたい放題だ。」

「この国は国民主権だよ。いくらやりたい放題だからって、そんな悪い事できないと思うけど…。」

「だが、国の仕組みは自分達の良いように変えていける。例えば、自分達が権力を独占した状態を保ちたければ、弱者が自分達の中に入って来るのは防ぎたいものだ。だから、弱者が高学歴を持つことをできるだけ避けたいが為に、高等教育を受けるには高額な資金が必要なようにする、とか。」

「でも、高校にも大学にも授業料免除制度はあるじゃん。」

「それには審査が必要になる。もし審査に通らなければ授業料を払うか、除籍になるかのどちらかしかない。そういう理由で進学に尻込みする人間は多いぞ。それを考えれば、今の政府がどれだけ有能な人材を潰してきたか、分かるだろう。」

「…お金持ちの政治家が皆悪い人だとも限らないと思うけど…。」

「お前は経験が大事だとさっき言っていただろう。貧しい暮らしを経験した事が無い人間達は知識で補うしかない。しかし、今この国を動かしている人間達は、本当に貧しい者の暮らしを想い、気遣っているか? 違うだろう。彼らは自分達がどう動けば、国民の目を欺きながら金を手に入れられるかしか考えていないのさ。消費税引き上げにしたってそうだ。あれは強者に甘く弱者に厳しい税なのだから。むしろ、消費税を引き上げたいと国民の前で言えるその厚かましさが羨ましいよ。」

「それは…年金の保険料を払ってない人が悪いんじゃないの? 皆ちゃんと払ってるなら、引き上げなくても済んだんじゃないのかな。」

「そもそも国民の、特に若者の信用をなくした政府に問題があると思うが? 景気に合わせて保険料を善意的に上げ下げすれば、失くさずに済んだ信用があるかも知れないだろう。実際の所は上がる一方。『こっちじゃ取れなくなっちゃったから、確実に取れる消費税の方で埋めちゃえ』などと、笑い話も良い所だ。年金のシステムを壊した責任を取って、国を動かしていた自分達が払えばいいだろう。」

「そりゃそうだけど…高齢化社会だから、一人当たりの負担が大きくなるのは仕方がないんじゃないかなぁ。」

「裕福な家庭が必要以上の賃金を稼いでいるのは仕方が無いのか? クリスマスの時、イルミネーションで家を飾る費用があるなら国に寄付でもしろと言いたいがな。」

「所得税だって結構高いと思うんだけどなぁ…誰だって、働いた分の給料は欲しいでしょ? 消費税だって、ヨーロッパとかに比べれば随分低いと思うよ。どこだっけ? 消費税が25%とかでしょ?」

「北欧か? 食品は12%で、所得税も高いし、福祉や教育に対する援助は日本の何十倍も充実しているがな。」

「そうなの? 高齢化が進んでないだけじゃ…」

「いや、現時点では日本のほうが軽症だよ。近い内に追い抜いてしまうらしいが。ま、当然と言えば当然だろう。政府は金を取る事ばかり考えて、福祉と治安は悪くなるばかり。そんな国で沢山子供を産もうと考える方が馬鹿だよ。だから結局高齢化に歯止めもかからない。金を巻き上げる手口だけ真似て、国民に還元するシステムの検討などはしていないだろう、今のこの国のトップ達は。何の詐欺集団だ国会は。」

「さ、詐欺って…。」

「北欧の状態を知って尚、この国のトップ達が民の為に全力を尽くしていると思うか?」

「…多分、北欧の人たちはたまたま自分達に合うシステムで上手く行っただけで、この国には馴染まないシステムなんじゃないの? 地域性ってあるじゃない。」

「なるほど。金融危機で、すわ大恐慌かという状況で、与党だ野党だと内輪もめを続ける事が地域性か。今の時期に解散なんかしたら、外国からだって呆れられるぞ。」

「……まぁ、ね。そんな事やってる場合じゃないよね。」

「そんな無駄が多すぎるんだよ。しかし、不況に陥っていく中、逆進課税の消費税を上げて累進課税の法人税や所得税にノータッチなのは…大を取って小を捨てると言うか。リストラを進める会社のようだな。個人より企業が大事か。最悪、貧困層が死に絶えても大企業と富裕層さえ守れればいいと公言しているようなものだな。」

「そんな事ない…と思うけど。」

「表立っては言わないさ。それに強者にとって弱者は、不要であって必要な存在なんだ。自分達の自尊心と優越感を満たし、また自分達が優遇されるには、必ず冷遇される人間が必要になる。常に選ばれる立場にいたいから、選ばれない人間達が必要なんだよ。まぁ、貧困層が全滅すれば、残った富裕層の間で再び虐げる者と虐げられる者が出てくるだけだ。ユダヤ人差別も、こんな人間の心理から生まれたとサルトルは分析していたが。」

「だって…格差が広がるのを防ぐとか、よく言ってるし…」

「議員達は票に影響するから、国民のご機嫌取りの政策だってたまに打つだろう。だが騙されてはいけない。手なづけられてはいけないんだよ、私達は評価する立場の人間なんだから。舞台の役者を評価するのが観客なら、政治家を評価するのは国民であるべきだ。しかし、何も知らない素人に正しい劇の評価ができるのか? できないだろう。だから、観客にも知識が必要だ。国民から高度な教育の場を奪うと言う事は、国民の口を塞ぐ事と同義だ。支払った額分の価値があるのか、常に考え評価していかねば、何も変わらない。つまらない劇に大金を支払い続ける必要は無いだろう。それに気付けるかどうかだよ。」


 ふっ、とルイは軽いため息をつく。


「国会と言う舞台は閉じられた空間だから、昔の古い空気が抜け切らずよどんでいる。そりゃ、学歴で見ればエリート達だろうが、民の事を真剣に考えているのはどのくらい居るんだろうな? 私から見れば、議員の多くが結局は自分可愛さに動いているように見えるんだ。民より我が身が可愛い人間に、執政はできないよ。国が乱れるだけだ。」

「我が身って言ったって、あの人達にだって家族は居るし、民の事を一番に考えなきゃいけないっていうのは…そうだけど、自分の給料とか下がると家族が困るだろうし…家族も大事にしたいと思うのは悪い事なのかな?」

「『家庭の幸福は諸悪のもと』、か。」

「え?」

「いや。昔の人はよく言ったものだと思っただけだよ。私はな、朔夜。厳しいことかもしれないが、家族を蔑ろにするくらいの覚悟が無ければ、億の人間の命を預かる国の中枢に居る資格は無いと思うんだ。議員に渡される給料や年金は、自分や家族の時間を犠牲にしても民の為に働く者に対する民からの賃金だ。犠牲にするものが大きいから、その分給料も高い。しかし、今の状態はどうだろうな。民から簡単に解雇されないのを良い事に、汚職はするわ癒着はするわ予算関係ではごまかすわ、今まで国民にバレたものは氷山の一角に過ぎないんじゃないか?」

「…僕もそう思う。でも、だからどうすればいいかなんて僕には分からないし、もし国の政策に不満を持っても、どこに伝えればいいのか分からない。伝えたってきっと、何も変わらない。それがきっとルイが『閉じられている』と表現する所なんだろうけど。民主主義の限界を感じるよ。」


 ルイは考え込むように、視線を空にさ迷わせた。

「人間はエゴイズムに陥りやすい貪欲な生き物だ。だから悪に染まりやすい。この性質は、どうやったら治るんだろうな。」

「でも、与党の政策には野党がよく反論してるよね…他の政党が与党になったら何か変わるかな。」

「与党のやり方に口を出す政党が次の選挙で勝てば、上手く国を回していけるかと言えば、そうとは限らないよ。」

「そうなの?」

「言うは易し、行うは難<かた>しだよ。さっき、私は政治家を役者、国民を観客に例えただろう。舞台に精通している人間ならば、演技ができずに役者になれずとも役者に的確なダメ出しを与える演出にはなれる。役者自身もまた、舞台をよく知る人間だから他の役者に良いダメ出しを与える事ができるだろう。しかしダメ出しを与えるのは、実はそこまで難しい事ではないんだ。ある程度の知識と経験があれば、センスの優劣はあるにせよ誰にでもひねり出せる。難しいのは演技の方さ。演出…ひいては、観客の希望に応える演技ができなきゃいけない。役者になりたければ、批評ができてもダメなんだ。」


 勿論、批評できるレベルは越えてくれていなきゃ論外だけどね、とルイは付け足した。


「あれ? でも…演出って、国で言えばどんな人達の事を言うの?」

「居ないな。だから、役者達が身勝手な演技をしているんだろう。首相が主演兼演出をしているにしても、ダメ出しが端役まで行き届いているか怪しいものだ。それに、首相が自己満足に浸っていたら笑い物さ。政党を劇団とすれば…今の劇団の劇はいつになったら終わるのかな? 次の劇団にはもっと良い演技を見せていただきたいものだ。観劇料を支払い続ける、私達観客の為に。」

「……楽しみ?」

「私は別の劇団の演技を見てみたい気がするが、私以外の人はどうかな? なにぶん、この国の人達は新しいものを恐れる傾向があるからね。この国民性が、劇場に巣食う古狸の存在をいつまでも許しているのさ。」

「古いものが悪いものだと決め付けるのは…どうかなぁと思うけど。」

「時代は新しい風を求めている。この国だけ時間を止めていても、時の流れに取り残されて事態に対応できなくなるだけだ。今でさえ、国はその場しのぎの対応しかできなくなっているだろう。」

「新しいものが上手く立ち回れるとも限らないよ。今より悪くなるかもしれない。」

「なら、また首をすげかえれば良い。その為の民主主義だろう?」

「それは…何だか、酷い気がする…使えないなら捨てる、みたいな。」

「そもそも、政党にはそういう危機感が必要なんだと思うが? 本来国民主権とは、言葉を悪くして言えば国民が議員達に脅しをかける為の唯一の剣でありシステムなんだ。存分に利用して問題ないだろう。」

「ルイは何でそんな乱暴な事しか言えないの!? 脅しだとか利用だとか…。」

「悪を討つには言葉では足りない。確かな力を持つ剣が要るんだ。」

「でも、誰が悪かなんて……どこが汚れているかなんて、僕には分からない。他の皆だって分からない。剣を持っていても上手く使えない……。」

「だから、知識をつけて目を養わなければいけないんだ。私達は観客。批評家だ。劇場の天秤の役を任されている以上、適当な判断も、私利私欲の為の判断も許されない。ただありのままを見つめて、良心で裁けばいいんだ。」

「ルイなら……。」

「ん?」


 見つめたものを射抜きそうなほど真っ直ぐなルイの視線を見て、その先を口にするのをやめた。


「ううん、何でもない。多分、僕が僕だけで考えなくちゃ意味が無いんだ。」


 『答え』を、ルイは既に持っているのだろうか。

 つい、聞いてしまいそうになるけれど。
 聞いちゃダメなんだ。

 ルイの事だから、きっと答えてもそれを僕に押し付けたりはしないだろう。
 それが中立者―正義の在り方だと思っている。

 でも僕にとっては、ルイの言葉の響きは他の人とはちょっと違う。
 反発していても、どこか惹かれる。
 そんな不思議な響きを感じる。




「帰るか。もう外が真っ暗だ。」
 


 そうして、ルイは帰り道、手のひらを夜空に掲げた。



「朔夜、見つけたぞ。てんびん座。」


 思わず笑ってしまった。
 ルイのはしゃぐ姿は、滅多に見られないからだ。



 見つけるのが難しいと言われるてんびん座の下で、少女は魅入ったように星を見ていた。

 この少女なら、女神アストライアに認められただろうか?

 アストライアの化身のような凛とした空気を放つ、ルイなら。




 君は知っているかな。

 公平と正義と裁きを司るアストライアは厳しくて、ついには堕落した人間達を見限った女神だけど、神様の中で一番人間を愛していたんだよ。


 だから他の神達が次々に地上を去っていく中、最後の一人になっても、ずっと人間に対して望みを捨て切れなかったんだ。



 ルイも、そうなんじゃないの?




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