ノスタルジア〜紫の刻印〜



終章




 翌日の早朝、ドルチェの森は冷たい空気に包まれていた。

 肩から少しだけ大きめのバッグを提(さ)げて小屋を出たシンフォニーは、小屋の外で自分を待っていたらしい人間達を見て、ふう、と一つ肩で息をした。


「これは皆さん、お揃いで。」


 シンフォニーを見送るため、彼に続いて小屋から出てきたマリアも驚いたような顔をする。


「兄さん。やっぱり、僕も行く。」

「スウィング……昨日も言いましたが」

「兄さんのためじゃないよ。兄さんの帰りを待ってる、シャルルのためだ。」


 シンフォニーは、それ以上何も言わずにスウィングを見つめた。

 エルレアは、スウィングの後ろからシンフォニーを見ていた。



 微笑を浮かべていない今の彼は、何を考えているのか本当に分からない。

 気付かぬ内に、エルレアはシンフォニーの瞳をじっと見ていた。

 夜の訪れを告げる空の色だ、と思った。

 夕日が完全に世界から消えてしまってから完全に夜になってしまうまでのわずかな間、空を染める色だ。

 エルレアは、自分に背を向けているスウィングの瞳を思い出す。

 彼の瞳の色は、夜明けの空の色だ。

 深いけれど、光を予感させる透き通った青色。

 やがて太陽が昇りきると、空はセレンの瞳の水色になる。

 シャルローナの瞳は、泣き出すのをこらえているような雨雲の色だ。


 ふと昨日の話を思い出して、エルレアは考えた。


 自分は本当に彼らと血のつながりがあるのだろうか。

 空とは無縁の自分の瞳の色は、オルヴェル帝国の中でも異色だ。

 セインティア人の母譲りなのだから、当然なのかもしれないが。


(……セインティア人は黒い瞳だと、資料にはあったんだが。)


 そんな事を考えていたものだから、シャルローナの一言に反応するのが遅れてしまった。


「シンフォニー様。私の事は心配ありませんわ。私の傍には、グリーシュのセレンが居てくれます。」

「「………え?」」


 姉弟は同じように、虚をつかれたような顔をした。


「そうでしょ? セレン・ド・グリーシュ?」


 優雅なまでの流し目の後に向けられた有無を言わせぬ完璧な微笑みに、セレンは「はい」とも「いいえ」とも取れない声を出した。

 シャルローナはセレンの様子など意に介さない様子で話を進める。


「だから、心置きなくスウィングを連れて行ってくださって結構よ! シンフォニー様のようなひ弱なおかたじゃ、ここに戻ってくるどころか目的の場所に辿り着くことすら難しいんじゃなくて?」

「は、はい! シャルローナさんの事は任せてください! お傍に居る事くらいなら、僕にもできますから。」

「セレン?」


 弟の発言に驚いてエルレア。

 てっきり、シンフォニーと共に島へ向かう自分に付いてくるものだと思っていたのだ。旅支度をしていたし、今だって弓を背負っているものだから。

 しかし、考えてみれば弟の口からちゃんと「ついていく」という言葉を聞いた訳ではなかった。


「姉様。言い出せなかったんだけど、僕、ここに残ろうと思うんだ。シャルローナさんを苦しめているのがグリーシュのご先祖様なら……僕は、できるだけシャルローナさんの傍で力になりたいと思う。」

「……そうか。」


 見上げてきた弟の瞳は、汚れなき水のように澄んでいて、真剣だった。

 だからエルレアは、それ以上追及すまいと思った。


「皆さん必死ですね。分かりました。スウィング、一緒に来なさい。マリア、二人を頼みますよ。」

「はい。」と微笑んでマリア。

「ではエルレア嬢。行きましょうか。」

「一つお尋ねしたいんですが。」

「何ですか?」

「まず、どちらに向かわれるんですか? 島と言うからには、港に行かれるだろうとは予想していますが。」

「そうですね。とりあえずは、この森から一番近いヴェラートの港へ。」


 ヴェラートの港は、ドルチェの森から北西に進んだ場所にある比較的大きな港だ。

 スウィングは、わずかに驚いたように息を止めた後で、


「そこで、船を探すんだね?」とシンフォニーに尋ねた。

「ええ。交渉に応じてくれる人間が居るかどうかは、分からないんですけど。」


 行き先が行き先だ。

 きっと、船を探すだけで苦労するだろう。


「ま、でもなんとかなるでしょう。」

「そういうのを行き当たりばったりと言うんだよ、兄さん。」

「出たとこ勝負とも言います。人生などは所詮考え方次第なんですよ、スウィング。」


 スウィングに掴めない笑顔を向けてシンフォニー。





「姉様。気をつけて。」


 セレンはエルレアに駆け寄ると、その白い手を取ってぎゅっと握った。


「ああ、セレンも。」


 セレンは束の間、何か言いたげに瞳をさまよわせたが、息を深く吸い込むとニッコリと、だが少し張り詰めたような笑顔を浮かべた。


「帰ってきたら、いっぱい話を聞かせてね。」


 エルレアには、セレンが精一杯強がって見せたのだと分かった。

 だから、手を握り返して慣れない笑顔を作った。


「約束だ。」

「……あ、ニリとクィーゼルもね!」

「おまけで言うくらいなら、いっそ言わない方がいいんだよ。セレン坊。」


 荷物を背負ったクィーゼルは呆れ顔で言ってから付け加えた。


「お嬢の事は任せな。絶対、セレン坊の所へ連れて帰ってやるさ。」

「俺はお前が嬢さんを厄介事に巻き込まないか心配だぞ。」

「なんだってニリ?」





 赤い髪の美しい少女は、二人の皇子の元へ近づくと視線を落としたまま小さく言った。


「シンフォニー様。皇帝陛下が定められた一ヶ月の期限、ご存知ですか?」


 シンフォニーは、「ええ」とだけ答える。



 一ヶ月経ってもシンフォニーの行方が分からない場合は、スウィングを皇太子に立てるという、皇帝の考え。

 一ヶ月経った時、スウィングすら居ない場合は、どうなるのだろう。

 オルヴェルは混乱に陥るかもしれない。



「もう、半分もありませんわ。」

「そうですね。」

「期限内に帰ってこられる見込みはありますの?」


 シンフォニーは、苦笑して答える。


「実はありません。一ヶ月以内にオルヴェルを出るのが精一杯かもしれません。」

「そうですか……では私も、できるだけ帝国内が混乱しない方法を考えます。」


 シャルローナは、ようやく二人と目を合わせた。


「シンフォニー様。スウィング。必ず帰っていらして。お二人の長期間のご不在は、この国にとってあまり良いことではありませんから。」

「シャルル。素直に寂しいと言ってくれて構わないんですよ。」

「シンフォニー様っ! こんな時までおふざけにならないで!」

「おや。スウィングだってきっと、その言葉が欲しいと思いますが?」

「か、関係ありませんわ!」

「顔が赤いですよ、シャルル。」

「怒ってるからです!!」


 珍しく大声を張り上げるシャルローナに、笑うシンフォニー、事態の収拾に困るスウィング。

 万が一のことを考えれば、誰も平常心でいられるはずがなかった。

 シンフォニーはわざと、シャルローナを怒らせたのだ。


「シンフォニー殿下は、優しいかたですね。」


 エルレアがマリアにこっそり言うと、マリアは少しだけ目を見張ったが、クス、と笑った。


「ええ、とっても。……エルレア。もし、シンフォニー様が悩んだり困ったりした時は、力になって差しあげてね。」

「……分かりました。」

「それから、できればまた、ここに顔を出して頂戴。父さんと母さんも、きっと貴方を待ってるわ。」

「……………………はい。」


 返事にかかった間に苦笑した後、マリアはエルレアの頬に軽くキスをした。


「貴方に、天使のご加護がありますように。」

「天使?」

「母さんがよく言ってたのよ。」

「さ、皆さん、行きましょうか。」というシンフォニーの声に、エルレアが反応する。



 小屋の前に立つマリアの姿は、記憶の中で幼い自分を見送った姉の姿によく似ていた。



 あの時も、泣きそうな顔をしていた。



 けれど。

 エルレアはマリアの視線を受け止めながら、何も言わずに頷いた。


 そして、身を翻す。


 淡い金色の髪が風に舞い、腕に通したブレスレットの鈴が一度だけ高く鳴り響いた。


 少女は、スカートの裾を揺らして共に旅をする仲間の方へ急ぐ。

 他の誰でもない、自分を待つ人々の元へ。




 少女が一歩踏み出すたび、緑香る森に軽やかな鈴の音が奏でられる。

 それはまるで、少女自身も気づいていない胸の高鳴りを表すかのようだった。



第二十章へ戻る 資料館に戻る


Copyright©2009-2012 藤咲紫亜 All rights Reserved.