ノスタルジア〜紫の刻印〜



第二十章 求めるもの




 シンフォニーは、明日の早朝にも森を出ると言った。

 昼食を食べ、思い思いに昼の時間を過ごし、夕食を取った後、明日が早いからとマリアはすぐに就寝の準備を始めた。





「セレン・ド・グリーシュ。」


 澄んだ美しい声に呼ばれてセレンが振り向くと、シャルローナがすぐ傍まで来ていた。


「今朝は、ごめんなさい。クィーゼルから聞いたわ。」


 今朝……というと、服を放そうとしなかったことなのだろうとセレンは思った。


「いえ、僕は平気です。シャルローナさんの方は大丈夫ですか?」


 シャルローナは、ふと視線を落とす。


「分からないの。今朝のことは本当に……自分が自分じゃないみたいで。今夜も、もしかすると眠って目覚めた時には違う自分になってるんじゃないかって。」

「怖い夢を見たんですか?」


 言ってしまった後に、セレンは失敗したと思った。

 余計な事を思い出させてしまうかもしれないからだ。

 けれどそれは杞憂(きゆう)で、シャルローナは至って静かな表情で「いいえ」と答えた。


「怖くもあったけれど、幸せだったわ。とても強く愛されていたから。」


 誰にとは、セレンは聞かなかった。

 シンフォニーは昼食後に、シャルローナは、きっと余りに強烈で鮮明な前世の夢を見てしまったせいで、そちらが現実だと思い込んでしまっただけだろうと言っていた。

 そして『記憶は悪さをしない』とも。

 混乱が起きているのは記憶が一気に目覚めてしまったからで、時間が経てばシャルローナの精神状態も落ち着くだろうと。

 だからこそ、シンフォニーは彼女を例の小島に連れて行きたくはないのだ。

 自然に治るものであるなら、できるだけ安全な場所に居てほしくて。


「そちらの世界の方がシャルローナさんは好きですか?」

「どうして、そんな事を聞くの?」

「いえ、何となくなんですけど。」

「……そうね。夢の中の私はとても幸せだと思うわ。愛する誰かの傍に居て、私はその状態にこれ以上ないほど満足していて。けど、どうしたって夢の世界はこの世界の代替品にはならないのよ。夢の中には、この世界の人は居ないんだもの。」


 シャルローナが誰を想って最後の言葉を口にしたのか、セレンには分かる気がした。


「私は、今が辛いからって楽な場所に逃げたくないわ。」


 この人に想われる人は、きっと凄い人だ。

 紅の髪が揺れるシャルローナの横顔を見ながら、セレンは思った。


 決して強い訳ではないのに、弱さを見せないようにする人。

 お飾りの人形のように美しいだけじゃない。

 誇り高く、頭も良い人。


 この人と釣り合う人など、そうそう居ない。

 凡人ではきっと、彼女の隣に並ぶと霞んでしまう。

 それこそ、シンフォニーやスウィングのような容姿も能力も優れた男性が彼女にはふさわしいのだろう。

 あの二人の皇子ならば、きっとこの人が隠している弱さも理解している。

 この人が将来の伴侶に選んだとしても、不幸になることは無いだろう。


「シャルローナさんがそう思っているなら、きっと大丈夫です。本当の幸せはこちらにあると、ご自分で分かっていらっしゃいます。その気持ちがある限り、もしまた夢の世界に連れ去られても、シャルローナさんは戻ってこられますよ。」


 言いながらセレンは、何かが胸にこみ上げてくるのを感じた。

 シャルローナはセレンの顔に差したわずかな翳(かげり)に気付いたのか、じっと気遣うような表情でセレンの顔を見た。

 そして、セレンの頬に自分の手のひらを添える。


(え……)


 シャルローナのひんやりとした繊細な手の感触に、セレンは戸惑った。

 一拍の後、シャルローナは目元を柔らかくして微笑むと、


「ありがとう。」と言った。


 そして彼女はドレスの裾を揺らして立ち上がり、小屋の方へ歩いていった。

 シャルローナのその優しげな笑顔の破壊力は凄まじかったらしく、彼女が去ってしまった後も、セレンはしばらくその姿勢のまま動けずに居た。



 触れられた頬が、どうしようもなく熱かった。
 





 
 皆が寝静まった頃、マリアは小屋を出た。

 小屋の裏手には、人一人歩けるくらいの幅の道がある。

 途中に坂もあるその道をしばらく進むと、少しだけ開けた場所に出た。

 大きめの石が二つ並べられたその場所は、マリアにとって特別な場所だった。

 その石の前に佇む人影に、マリアは近づいた。


「シンフォニー様。」


 シンフォニーは振り返らずに、目の前の自分の腰くらいの高さの石の前に片方の膝をつき、石を見上げる。


「ソリスト皇子は草花を愛するような心優しいかたで、臣下や他の皇族にも慕われるお方だったと、私は父上から聞きました。父上も、兄であるソリスト皇子のことを尊敬していたようです。」


 濃紺色の布を広げたような空には沢山の星が瞬いていた。

 夏とはいえ、夜になるとこの森は少し冷える。

 鈴の鳴るような虫の声しか聞こえない空間に響くシンフォニーの穏やかな声は、耳心地が良い。

 恋を歌う吟遊詩人の声のようだ。

 マリアは瞳を閉じて、シンフォニーの声を聞く。


「グリーシュのカトレア様を妃に迎えたのは先代の皇帝の命だったそうですが……ソリスト皇子とカトレア様は、それは仲の良いご夫婦だったそうです。二人の子供に恵まれてからの数年は、ソリスト皇子のご家庭の幸せぶりが、オルヴェル中に広がっていくようだったと。」


 シンフォニーはそこで、一息置いた。


「彼らの幸せを奪ったのは、グリーシュの血です。カトレア様がグリーシュの人間でなければ、いや、そもそもグリーシュに『儀式』が無ければ、ソリスト皇子は姿を消す必要もなく、カトレア様とこの国を治めていく事ができたでしょう。けれど」


 変化するシンフォニーの声音。


「もし、ソリスト皇子がこの森に逃げ込まなければ。この森でセインティアの女性と出会わなければ、私は貴女に出会えなかった。」


 囁くような甘い声が、耳元で生まれる。

 ハッとしてマリアが目を開いた時には、既に遅かった。

 マリアが身体を離そうとするより速く、シンフォニーはマリアの背中に腕を回して彼女を抱きしめた。


「逃げないで下さい。」


 吐息がかかるほどの距離で切なげに囁かれ、マリアはクラクラした。

 彼の声は、痺れ薬のよう。

 耳から入り、全身に回る。

 足に力が入らない。全身が震えていた。

 目の前のシンフォニーにしがみつくしかなくて、そうして縮まる距離に心臓が飛び跳ねる。

 シンフォニーはというと、そんなマリアの反応を楽しんでいるかのように、ふわふわしたマリアの髪に顔を寄せたままクスクスと笑った。


「怖いですか?」


 少しからかうようにシンフォニーは尋ねる。

 マリアはかろうじて、「……いいえ」とかすれた声で答えた。

 怖い。と言うよりは不安に近かった。

 これ以上自分の気持ちを進めてしまったら、彼との距離を縮めてしまったら、もう後には戻れない気がした。

 シンフォニーはマリアから少し顔を離して、震えているマリアの手を取った。


「なら、口づけをしてもいいですか? 今夜はそれで我慢しますから。」


 何を言われたのか理解できるまで時間がかかった。

 理解できても、ただ目を丸くするだけで答えることができなかった。

 シンフォニーはマリアの表情を見ていたが、やがて悲しそうな顔で溜息をつくと目を逸らした。

 その時になって、マリアは焦った。


 傷つけた。


 口づけを拒否されれば、普通誰でも傷つくだろう。


「シンフォニー様! あの……」


 マリアがとっさにシンフォニーの顔を覗き込んだ時だった。

 頬にシンフォニーの手が添えられ、彼の唇がマリアの唇に重ねられた。


 いきなりのことに動転して身をよじると、シンフォニーはマリアの背中を抱え込むようにして更に深く彼女を求める。


 心臓が、痛みを伴って激しく鳴る。


 繰り返し何度も深い口付けをされて、ようやく解放された時には、マリアは全身に力が入らずにへなへなと地面に座り込んでしまった。


 しばらくすると、そのマリアに視線を合わせるように膝をついたシンフォニーは、


「嫌でしたか?」


 と、囁くように尋ねた。

 混乱が収まらないマリアは、青ざめた顔で


「……父と母のお墓の前で……。」と呟く。


「だからですよ。」とシンフォニーは言った。


「これで公認ですね。いつでも本物の夫婦になれます。」


 冗談か本気か分からないようなシンフォニーの言葉。

 その声や顔からは、彼の真意は読み取れない。


「……お願いがあります。」


 急にシンフォニーは真剣な声音になった。


「ここでしばらく、シャルルの面倒を見ていただけませんか?」


 マリアは耳を疑った。


「シンフォニー様……それじゃあ。」

「ほら。帰る家があるほうが嬉しいじゃないですか。」

「私は、シンフォニー様について行きたいです! 私なら、まだシンフォニー様のお力になれるかもしれない。お傍に置いてください!」

「マリア。貴女は貴女が思う以上に、私にとって大切な人です。貴女が待っていてくれると思えば、私もここへ帰るために頑張れます。」


 もしかすると、シンフォニーが自分をここへ置いていこうとしているのは昼間のシャルローナのときと似た理由なのかもしれない。

 それでも、従いたくなかった。

 例の島は、オルヴェルとセインティアの間に浮かぶ島。

 どんな危険があるか分からないのだ。

 自分の能力がセインティア人の母譲りの物だとすれば、同じような能力者たちがセインティアにはゴロゴロ居るのかもしれない。

 不思議な力があるという島。その島の住人がセインティア人である可能性はある。


「ただ待ってなんていられません!」

「お願いです。聞いてもらえないのなら、口づけ以上の事をしてしまいますよ?」

「……は?」


 いきなりずれた話に、マリアはぽかんと口を開けてしまった。


「私を嫌いになってしまえば、貴女もついてこようとは思わないでしょうから。貴女に嫌われるために、何でもしちゃいます。」

「はあ。」


 『信じてませんね?』とでも言うように、ふ、と笑んで、シンフォニーはマリアを抱き寄せた。


 マリアはそのまま顎をつかまれ、強引に上を向かされる。

 深い海の色の瞳は、光が少なければ漆黒に見える。その瞳に、自分の困惑した顔が映っていた。

 彼の長い指は、何かをそそるようにマリアの唇をなぞると、頬をかすめ耳の後ろから鎖骨の辺りまでゆっくりと辿っていく。

 さっきの熱っぽい瞳とは明らかに違う、鋭さを帯びた瞳から目が離せない。

 怖いのに、逃げ出したいのに、そうしたくない自分がいた。


 まるで、いけない存在に魅入られてしまったかのようだ。


 この人は、誰?


 悪寒がした。

 だがそこで、シンフォニーはマリアからパッと手を離した。


「ね?」


 普段通りのおっとりした声で呼びかけられ、マリアは夢から醒めたように瞬きを何度かした。


「ここで待っていてください。」


 先ほどとはまた打って変わって、優しく子供に言い聞かせるように言われると、マリアはコクンと頷く事しかできなかった。





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