ノスタルジア〜紫の刻印〜
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第十九章 グリーシュの罪 |
「放さねえなぁ……。」
ベッドまで運ばれてもまだセレンの服を握ったままのシャルローナを見て、クィーゼルがどうしたものかと言うように呟いた。
シャルローナの額には濡れた布が置かれている。
「セレン坊、何か要るものあるかい?」
「ううん、大丈夫。」
ベッドの傍らの椅子に座って、セレンはシャルローナを見た。
眠る彼女の姿は、もはや美しいのを通り越して神々しくて冒しがたい雰囲気に包まれている。
さらさらとした鮮やかな紅い髪。透き通るように白く瑞々しい肌。精巧に作られた人形のような、否の打ちようがない完成された顔立ち。
それでもセレンには今までで一番、彼女が身近に感じられた。
凛とした姿でハキハキと話すから、気丈で大人っぽい人だと思ったが、こうやっていると、幼さや弱い部分も抱えた人なのだと分かる。
そういうのを抱えていても、外には見せないようにしているのだ。
「お嬢の本当の名前……セレン坊、どう思った?」
「うん……ちょっと驚いたけど、姉様は姉様だよ。きっとそう言ってくれる。」
「でもなぁ……ソリスト皇子は、グリーシュの奥方の父親でもあるんだぜ。セレン坊にとっちゃ、祖父(じい)様だ。」
エルレアと養母であるハーモニアは、実際の所は腹違いの姉妹という関係になる。
「セレン坊は、お嬢の甥って事になるぜ?」
「そうだね。」
「それだけじゃない。ソリスト皇子は今の皇帝の兄貴だ。お嬢は皇子さんがたや姫と従姉妹の関係になる。」
「うん……でもね。多分姉様は、そんなの気にしないよ。」
「……ま、そりゃそうだろうな。それでも、お嬢はこの先、平和に生きてくのは難しいかもしれないぞ。引いてるのはソルフェージュの血だけじゃない。いくら古代帝国の皇族だからって、今はオルヴェルの一貴族でしかないグリーシュがどこまでお嬢を守れるんだ?」
「守るよ。」
セレンは、クィーゼルの目を見て言った。
「姉様は僕の家族だから、一人で戦わせたりしない。姉様がグリーシュの為に動いてくれるように、僕も姉様の為に動く。父様や母様が動かなくても、僕だけは。」
クィーゼルは、腕組みをしてニッと笑った。
「意気込みや良し。そのためにもしっかり勉強しろよ、セレン坊。あたしとニリも、お嬢に何かあったら相手が何であろうと戦う覚悟を決めた。」
クィーゼルは腕組みを解くと、マリアの昼食の準備を手伝うと言って扉の向こうに消えた。
クィーゼルが階段を下っていく音を聞きながら、セレンは目を覚まさないシャルローナを見つめた。
自分の服を握っている細い手に、恐る恐る手を触れる。
たとえ相手が、ソルフェージュ家であったとしても。
できるなら、そうならなければいいと思った。
「……貴方とは、戦いたくないです。」
シャルローナの閉じた瞳から、光る雫が落ちる。
「ルクレティウス……。」
囁きと共に、彼女はうっすらと瞳を開いた。
やがて、傍らのセレンと目が合うと、バッとセレンの服から手を放した。
「あ、シャルローナさん。気分悪くないですか? 僕、何か……。」
セレンはホッとしたような笑顔を向けたが、次の瞬間、天を切り裂くような悲鳴が小屋中に響いた。
「いやああああああああっっ!!!!」
その声に真っ先に駆けつけたのは、下で昼食の準備をしていたマリアだった。
「どうかなさったんですか!?」
「わ、分からないです……目が覚めた瞬間、何かにびっくりしたみたいで……。」
セレンはとっさにシャルローナから距離を置いたらしく、ベッドの傍から扉の近くまで移動していた。
「ここは、どこなの。ルクレティウスは?」
「ルクレティウス……。」
マリアが眉をひそめる。
「貴方、ルクレティウスを知ってるわね。彼はどこに居るの!?」
ヒステリックな声に、まるで記憶をなくしたかのような言葉の数々。
シャルローナの身に何が起きてしまったのだろうか。
その時、いつの間にかマリアの後ろに居たシンフォニーが、マリアの横をすり抜けてシャルローナに近づいた。
「シンフォニー様!」
マリアが焦ったような声でシンフォニーを呼ぶ。
「近寄らないで! 殺すわよ!」
シャルローナが警戒心を露わにする。
シンフォニーは金切り声を上げて暴れるシャルローナを薄い毛布で包むと、毛布ごと強く抱きしめた。
「シャルル、落ち着きなさい。あまり暴れると貴方が怪我をしますよ。」
シンフォニーが低めの声で穏やかに呼びかける。
しばらくしてやっと、シャルローナは静かになった。
毛布の隙間から覗いたシャルローナの様子は、目はぼんやり開いていたが酷く疲弊しているようで、ぐったりしていた。
「……お兄様……私、何をしていたのかしら。」
「悪い夢を見ていたんです。水を飲めば落ち着くでしょう。」
シンフォニーは優しくそう言って、マリアに「すみませんが」と水を頼んだ。
彼女に何が起こったのか、セレンには分からなかった。
シャルローナの前世だという、自分の遠い遠い先祖が原因なのだろうか。
彼女が何度も「ルクレティウス」という名前を呟いた所から考えて、そうとしか思えないのに、だとしたら全く関係が無い訳ではないのに、何もできない自分が歯がゆかった。
表情を曇らせたセレンの肩に手を添えて、そっと寄り添うように横に立ったのはエルレアだった。
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☆ |
小屋の外のテーブルで、シンフォニーは静かに言った。
「さっきのは、アナスタシアではありません。」
「じゃあ、あれは……シャルルだって事?」
スウィングが疑問を返す。
「そうです。急に蘇ったアナスタシアの記憶が、シャルルの精神になんらかの影響を与えてしまったんでしょう。さっきは何とか止められましたが……また発作のように、ああいう状態になってしまうことは考えられます。」
「けど、どうして兄さんには、あれがアナスタシアではないと分かるの?」
「それは……アナスタシアの魂はオルヴェルには無いからです。」
その言葉に、聞いていた者達は不可解そうな顔をする。
「兄さんは、シャルルをアナスタシアの生まれ変わりだと言ったよね? それなのにアナスタシアの魂が無いって、どういう事?」
シンフォニーは一息ついて、話し始める。
「ルクレティウスが犯した大罪。グリーシュの罪の事ですが……アナスタシアが死の床に伏した時、彼の元にある一つの希望が届けられました。セインティア帝国とリグネイ帝国の間にある、小島の伝説です。」
グリーシュ家には、呪われた儀式が存在する。
その原因になったのは、三千年前のリグネイ皇帝のルクレティウスだという。
そんなものだからエルレアは一際真剣に、シンフォニーの話に耳を澄ませていた。
「生命力に溢れ、不治の病も癒すという奇跡の島。アナスタシアの命がもう長くない事を察していたルクレティウスは、彼女を連れてその島に向かいました。」
シンフォニーの顔が暗くなる。
「けれど、その島には奇跡も何もなかった。悪魔が居ただけでした。」
「悪魔?」とクィーゼル。
「アナスタシアを捕らえ、ルクレティウスに罪人の印を与え、リグネイ帝国を呪った人ならざる存在。どうやら、その存在にとって島は聖域で、侵入者のルクレティウスは敵とみなされたようです。」
「アナスタシアはどうなったの?」とスウィング。
「さあ……彼女の最後の姿だけはよく覚えているんですが、そのあとルクレティウスの精神は崩壊し始めたようで、記憶もほとんど残っていないんです。けれど、彼女がもし生きてリグネイに帰還していたなら、ルクレティウスの狂気も治まっていたと思いますよ。だから、彼女は帰ってこなかった可能性が高い。」
シンフォニーは、「これは私の推測なんですが」と前置きをして、話を続けた。
「人間は、肉体と、魂と、記憶でできているのだと思います。肉体はそのまま身体のことです。魂とは、精神、心と呼ばれるような物で、記憶は、後天的に得る情報です。私は、一つの肉体に、魂と記憶が二つずつ入っているような状態です。」
シンフォニーという魂とシンフォニーとしての記憶。ルクレティウスの魂と、ルクレティウスの記憶。
「『生まれ変わり』とはあくまでイレギュラーな、生命が始まる際の突然変異のような物だと思うんです。本来、役目を終えて消滅すべきだった魂と記憶が、なんらかの原因で別の人間の身体に追加で入ってしまったと考えたほうが自然です。」
シンフォニーは、瞳を閉じる。
整った顔立ちが、まるで完璧な芸術品のような美しさを宿す。
「ルクレティウスのアナスタシアに関する最後の記憶は、島で動かなくなった彼女の身体から紫色の光と白い光が出てくる光景です。紫色の光の方は、何者か……恐らく島を守っている者に囚われました。白い光の方は、空に消えて行った。ルクレティウスは、紫色の光をアナスタシアの『魂』だと思いました。それが誤りでなければ、今ここに彼女の魂が存在する訳が無い。あるとすれば、空に消えた白い光の方です。私も先ほどまで確信は持てなかったんですが、シャルルの中にあるのは……『記憶』です。」
「『魂』や『記憶』の概念は、ルクレティウスが持っていたものなんですか?」
エルレアの問いに、シンフォニーは瞳を開いて頷く。
「シャルルを見て、その推測はあながち外れていないと思いました。さきほどの『彼女』がアナスタシアだとしたら、きっと私の中にルクレティウスの魂がある事に気付いたと思いますよ。ルクレティウスが、随分昔にシャルルの中にアナスタシアの香りを感じたように。」
「兄さんはいつから、リグネイ皇帝の存在に気付いてたの?」
「物心つく頃には、変な声が頭の中に響いてきていましたよ。それでも最初のうちは悪い妖精の声だと思っていたんですが、どうも違うという事に気付きました。彼の意識はいつも私と共にありました。シャルルと会うと、まるで恋する少年のようでしたね。抱きしめたい衝動に駆られたりするのなんかしょっちゅうで、いつも彼を抑えるのに苦労しました。」
シンフォニーがあえて少し茶化したように言うのは、きっと周りが重い空気になっているからなのだろう。
「それから夢で、彼の記憶を見ました。」
「シャルルみたいにならなかった?」
「全然。……と言えば嘘ですが、彼の意識も私が幼い頃はどうやら深い眠りから覚めたばかりだったようで、夢うつつのぼんやりとした物でしたし、彼の記憶も少しずつ知っていったので、衝撃は少ない方だったと思います。彼が私の手に余るようになってきたのは最近です。シャルルが立派な『女性』に近づいてきたせいか……彼の意識が急にはっきりしてきたんです。このままでは危険だと思いました。だから、彼女……マリアと湖の精霊の助けを借りて、この身体からルクレティウスの魂と記憶を解放しようと思ったんです。精霊さんが、その手がかりを思い出してくれるまで時間がかかりましたが、さっきやっと分かりました。」
シンフォニーは、そこで言葉を一度切ると、はっきりとした声音で告げた。
「私はこれから、ルクレティウスが呪いを受けた島へ行こうと思います。」
「兄さん……。」
「私も、行きます。」
それは、エルレアにとって当然すぎる選択だった。
エルレアの言葉に、クィーゼルが大きな溜息をつく。
「そう来ると思ったよ。あたしとニリも行くからなー。」
まるで畑の手伝いでもしに行くような物言いに、ニリウスが苦笑している。
「兄さん。僕も行きたい。」
「スウィング。……できれば貴方には、シャルルの傍に居てあげてほしいんです。」
「私も、行きますわ。」
いつの間にか二階から下りてきたシャルローナが、力を振り絞るように言った。
「シャルル。ダメです。」
シンフォニーは、きっぱりと言い切る。
「シンフォニー様が反対なさっても、私はついていきますわ。」
「許しません。貴女はしばらく、ここで休養させて頂きなさい。」
いつになく強い口調で、シンフォニーは言った。
「嫌です!」
「聞き分けの悪い子は嫌いですよ。」
「何故ですか!!」
泣きそうな声でシャルローナは激しく尋ねた。
「どうして、私ばかり蚊帳の外に!? 私が足手まといだからですの!?」
「シャルル、違います。これから行く場所は、誰より貴女にとって危険だからです。」
トーンを落として、シンフォニーは言葉を紡いだ。
「私は、貴女を失いたくない。」
もう二度と。
付け加えられたその呟きは、シンフォニーのすぐ傍に居たマリアにだけ聞こえた。
「だからお願いです。理解してください。」
シャルローナは、まだ納得できないような表情を浮かべていたが、視線をさまよわせた後、身を翻して二階へ上っていった。
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