ノスタルジア〜その名を継ぐ者〜



終章



 朝日がグリーシュ別邸、オパールを照らし出した頃、金の髪が腰のあたりまである少女が、肩に白いカバンをかけ、オパールの回廊にある一枚の肖像画の前に立っていた。







(…よし!)


 気合いを入れて、ニリウスは部屋を出た。

 殴られた頬は案の定青アザになっていたが、放っておいてもじき治るだろう。

 今はそれよりも、クィーゼルに同行を許可されなくてはならない。


(って言っても、どうするかな〜、下手な事言ったらまた…。)


 いや、今度はアッパーが来るかもしれない。


(いっそ、何も言わねぇ方が良いのかも…。)


 と考えながら歩いていたニリウスは、角を曲がろうとした時、誰かとぶつかってしまった。


「んあっ! す、すまねぇ……って。」


 体格の差から後ろに倒れそうになった相手を、とっさに腕を掴んで支えたニリウスだったが、そのぶつかった相手に気付くや否や、パッと手を放した。


(ク、クィーゼル…。)


 あからさまに嫌そうな顔をして、彼女はニリウスを見上げた。


(いけねぇ、怒ってる…。)


 向けられた視線の意味を、“何? 一緒に行くつもりな訳? お前。”と解釈したニリウスは、焦って言葉を続けた。


「俺っ、ついてったら駄目か…!?」


 瞬時に、クィーゼルの目元が更に厳しくなる。

 バシッッ!!


「……っ!!」


 昨日殴られた頬を再び引っぱたかれ、ニリウスはその激痛に唸る。


(…ん?)


「下らないこと聞いてる暇があんなら急ぎな。」


 スタスタスタ、と通り過ぎていくクィーゼルを、ニリウスは呆然としながら見送った。


 湿布だったのだ。


 今、クィーゼルに貼られたのは。



 ニリウスは勘違いをしていた。

 クィーゼルが苛立ったのは、彼が頬に何の処置もしていなかったからなのである。


(……?)


 しかしこの時ばかりは、幼なじみの彼にも、彼女の気持ちを理解する事ができなかったようである。



☆     ☆




「遅いわっ。一体何をしていたの!?」

「仕方ないだろ、食料詰めてたんだからよ!」


 恐れおおくも帝国の皇族に対して、こんな言葉を返せる使用人はクィーゼルくらいである。

 続いて、ニリウスが走ってくる。

 先に門の傍で待っていたシャルローナ・スウィング・クィーゼルの三人は、ニリウスの後方に現れた人物を見て一様に驚く。


「お嬢!!」


 長い金の髪を高い位置で一つにまとめて、シンプルなデザインの紺色の服を着て。


「一人、増えても?」


 その言葉に、シャルローナは答えた。


「今ここで、気が変わった理由を言ってもらえるなら、いいわ。」

「私は無力だ。でも、もし自分の努力次第でそれが変えられるのなら、私は…私は貴方達と一緒に居たい。」


(強くあろう。)


 強くあろう、彼らと共に。

 シャルローナは三人に向き直る。


「だそうよ? 異論は?」

「あるかよ。」

「僕も。」

「俺も。やっぱ嬢さんが居てくれた方が安心だぜ。」

「じゃあ、いきましょうか、ドルチェの森へ!」

「そうだ、スウィング。」


 エルレアが、思い出したようにスウィングに声をかけた。


「言い忘れていた…ミヅキと言う男が、“港町シタールで黒髪ーズの再結成を待ってる”と。」

「え、ああ…シタールか…また会えたらいいな。」


 この第一皇子探しの旅が終われば、自由に皇宮の外に出るのは難しくなってしまう。

 ただの剣士として彼と会う事は、恐らくできなくなるだろう。


「そこでスウィング…ウィッグは?」

「……。あれっ、つけたつもりだった。ごめん、邸の中に忘れてるみたい。取ってくる!」


 走っていくスウィングの後姿を少し見て、エルレアはクィーゼルにこっそり尋ねた。


「気になっていたのだが…私ともう一人の“エルレア・ド・グリーシュ”は似ているのか?」

「似てるって…顔が? うーん。小さい頃は結構似てたと思うぜ。でも今は、どちらかっていうとセレン坊の方があいつに似てるかな。ま、いいんじゃねぇの? あいつはあいつ、お嬢はお嬢、だろ?」


「…そうだな。だが、何故私が“エルレア・ド・グリーシュ”に選ばれたのか、分かった気がする。」


 似ていたから、か。


 ピチ、ピチ、ピチ。


 鮮やかな赤い羽根の小鳥が、金髪の少女の手に止まり、小首を傾げる仕草をした。


「エルレア、だ。シャルル。」


 その声に、赤い髪の少女が振り返る。


「呼んだかしら?…あら? 貴方は私の事シャルローナと呼ぶわよね…。」

「いや、何でもない。」


 恐らく、怒りを買うのはニリウスだ。


「そう。でも面倒だから、これからはシャルルでいいわ。私もその呼び名の方が好きだし。貴方は他に好きな呼び名はなくて? エリィ、とか。」

「いや、私は“エルレア”が一番だ。」

「……!!」


 シャルローナとクィーゼルが、目をぱちくりさせてエルレアを見る。


「どうしたんだ? 二人して。」


 別の方向を見ていたニリウスがそう尋ねると、クィーゼルはまだ焦った顔でニリウスに囁いた。


「お嬢が…さっき笑ったんだよ。びっくりした…冗談なしで、あいつそっくり…。」


 赤い鳥が飛び立ち、スウィングが帰ってくる。

 その時。


 ガラガラガラガラガラガラ。


 二台の馬車が、オパールの門前に到着した。


「あれは…!」


 先頭の馬車にグリーシュの家紋が刻まれている事に気付き、ニリウスとクィーゼルは慌てて召し使いの礼を取った。

 御者が馬車の扉を開き、降りてくる人物の手を恭しく取る。レースをあしらった貴婦人のドレスが、静かに地上に降り立つ。うなじの金の巻き毛が、その動作に従って揺れた。

 続いて、紫色の服を着た十代前半と思われる少年が、馬車から降りる。

 驚きを隠せず、エルレアは呟いた。


「お養母様、セレン…。」


 ハーモニアはニコリと笑うと、セレンと共に五人の方へ足を進めた。


 ニリウスとクィーゼルに「楽になさい」と言い、皇族であるスウィングとシャルローナに一礼する。


「お二人が別邸にいらっしゃった事を知らされておきながら、ご挨拶の一つも申し上げに参りませんでした事を、深くお詫びいたします。」


 本来なら、従姉弟・従姉妹(いとこ)同士、対等な会話が許されるべきであるこの三人だが、ハーモニアは事実上貴族の身分であるため、それは許されない。


「主人はちょうど家を出ていましたので、私がせめてお見送りをと思い、ここまで参りました。」


 笑みを浮かべてはいるが、ハーモニアの顔色は悪い。無理を押してきたのだろう。


「馬車をお使いになるのでしたら、どうぞ、後ろに控えている馬車をお使いくださいませ。小さな型ですので、目立ちませんから。」

「シャルル。」


 スウィングが判断を求める。


「ここからドルチェの森へは、街も何もない長い道のりだと聞きます。お心遣い、真(まこと)に感謝いたします。馬車は喜んで使わせていただきますわ。ニリウス、クィーゼル、荷物を積んで準備を。」

「「はい!」」


 二人の声が重なる。


「姉様、これ…。」


 セレンが遠慮がちに差し出したのは、エルレアが本邸に置いてきたはずの鈴のブレスレットと銀の髪飾りだった。


「どうして、これを?」

「姉様は信じてくれないかもしれないけど、姉様が居なくなってから、この鈴の音が鳴り止まなくて…それで。」


 鈴が一人でに鳴る?


「鳴っていないが?」

「今やっと止まったんだよ! 何でかは知らないけど、姉様の部屋からずっと聞こえてて…姉様が持ってなきゃいけない気がしたんだ。この髪飾りも、その傍にあったから。」

「そうか…。」


 エルレアはブレスレットを右腕に通し、髪飾りを高く結んだ髪に挿した。


「姉様! あの…僕も連れていってほしいって言ったら、怒る?」

「…お養母様。」

「行くと言って聞かないの。だから、貴方が決めて頂戴。その方がこの子も諦めると思うし、連れて行くなら、私たちが諦めるわ。」


 私たち、と言うと、やはりコーゼスも反対しているようだ。


(あの父に反抗するようになるとは、セレン…強くなったな。)


 エルレアはセレンを見つめて言う。


「旅は危険と隣り合わせだ。自分を守れるか?」


 するとセレンは馬車の方へ走り、何かを取り出して背負うとまた走って戻ってきた。


「弓と矢…。」


(そういえば、弓術を習っていると聞いた事がある…。)


「うん、見てて。」


 そう言うとセレンは、弓に矢をつがえて遠くにある木を狙う。

 風に散った落ち葉が宙を舞う。


 タンッ!


 小気味良い音がして、セレンの放った矢は落ち葉を木の幹に縫いとめた。


 タンッ!


 更にもう一枚。


 視覚で捕らえるのも難しい距離で、である。


「実力があるのは認める。だが、それを実戦で使った事は?」

「狩りに行った時に。」

「では、人を射た事は?」

「無い、です…。」


 それは当たり前だろう。

 あったら怖い、とスウィングとシャルローナは思ったが、エルレアの言いたい事は何となく分かった。

 人を射る覚悟はあるのか、と。

 この先、敵が動物である可能性は高い。しかし、森の中に居るのは動物だけとは限らないのだ。


「できるか。」

「怪我をさせるくらいなら…でも、どんなに悪い人でも、命だけは奪いたくないよ…。」


(姉弟揃って頑固なのは父親譲りか? “エルレア”。)


 からかうように、そんな考えがエルレアの頭に浮かぶ。


「スウィング、シャルル、決めてほしい。」

「そうね…私は構わないわ。自分の事を自分でできるのなら。」

「僕も構わないよ。ちょうど、僕たちの中に遠距離戦が得意な人は居ないし。」


 ちなみにニリウスとクィーゼルの武器は拳とケリ。間違えようの無い近距離型の戦士だ。


「決まりね。ついてくるなら勝手になさい。ただし、少しでも足手まといになれば、即帰ってもらうわよ。」


 馬車の方から、準備ができたと合図を送るニリウス。


「行きましょ。グリーシュ夫人、では、これで。」

「お気をつけて、シャルローナ様、スウィング様。セレン、お二人に失礼の無いように。エルレア。」


 セレンを先に行かせ、ハーモニアはエルレアだけに聞こえる声で言った。


「謎は解けたかしら?」


 家系図の秘密、ハーモニアの兄皇子であったフーガを殺した人物、“エルレア”の婚約の継続。

 内二つは分かった。フーガ皇子は“贄”であり、“狩人”になりえる人物は一人しか居ない。


「皇帝陛下に関わる事…それだけが、分かりません。」

「皇帝陛下…あのかたは、聡いかただわ。ソリスト皇子の失踪の原因を、一番確実な方法で突き止めようとなさった。私たちは、一族の秘密を守ろうとした。…これで分かるわね?」


 ソリスト皇子の失踪。それはグリーシュ家の秘密に関係している?


(ソリスト皇子は、“狩人”を庇おうとした…?)


 “儀式”が行われる場所が、グリーシュの内部ならまだしも。


(皇宮では、その罪を隠す事ができないから…!)


 娘の罪を、彼は甘んじて被ったのだ。

 そして、姿を消した。

 兄の後に即位した今の皇帝は、兄の妃、カトレア・ド・グリーシュとその娘に焦点を置いた。


(だが、外部からの働きかけでは、グリーシュの秘密を解き明かすのは不可能だった。)


 やがて、帝国に二人の皇子が誕生し、皇帝はハーモニアに二人目の皇子と同じ年頃の娘が居る事を知った。そして、半ば強制的に仮婚約を結ぶ…。


(外からが無理なら、いっそ中に入ってしまえ、と言う事か。)


 そして、ソリストとカトレアの二の舞にならぬよう、今度は厳しく監視するつもりだったのだろう。

 だからグリーシュは、皇帝からの直々の申し込みを喜べなかった。

 グリーシュにその仮婚約の問題がのしかかっていた最中に、“エルレア・ド・グリーシュ”が逝去。


 間もなく自分が養女となり、その婚約を引き継いだ。

 それは。


(グリーシュの血を継がない、つまり、何の秘密も無い私であれば、皇帝の目を欺けると思ったから―――。)


 皇帝側とグリーシュ側で、激しい水面下の駆け引きが行われていたのだ。

 今になって、その婚約を皇帝自らが破棄しようとしているのは、グリーシュの娘が養女であると勘付いたからか、何か別の方法を思いついたからか、であろう。


(なるほど。確かに皇帝陛下は油断できない。)


 事実、スウィングはその秘密を知ってしまっている。

 それすら、皇帝の計画の内かもしれないのだ。

 しかしスウィングは、皇帝にグリーシュの秘密を告げたりはしないだろう。

 少なくとも彼の中に“エルレア・ド・グリーシュ”が生きている限りは、そんな事はありえない。

 そこまで考えを導いたエルレアは、何の動揺も見せずにハーモニアに尋ねた。


「何故、私にその事を教えて下さるのですか? お養母様。」


 ハーモニアの水色の瞳が、神秘的な光を宿していた。


「貴方に、救いを求めているのかもしれない。私だけではなく、私の血の中に息づく数え切れない程のグリーシュの魂達が。」

「誰も、自分でしきたりを変えようとはしなかったのですか?」

「いいえ。おじい様は戦われた。セレンから言えば、曽祖父にあたる人よ。」


 カトレア・ド・グリーシュの父。


「おじい様がお母様を皇太子妃になさったのは、一つの賭けだった。家名が変われば、あわよくば、娘をこの忌まわしい家から解き放てるのかもしれない。世界の安定と引き換えに…。でも、天はそれを許さなかった。お母様はこの家に引き戻され、短い生涯を終えられたわ…おじい様はお亡くなりになるまで、罰から逃れる術を探しておられたのに、結局、何も…。けれど貴方には、おじい様にも私たちにも無い力がある。何でかしらね。そんな気がするの。」

「姉様ー! 早くー!」


 馬車の方からセレンが呼ぶ。


「貴方には話さなければいけない事も、謝らなければいけない事も沢山あるの。だから約束よ。どこに行っても、グリーシュの名に恥じぬ行いをして、そして、無事に帰っていらっしゃい。セレンの事も、頼むわね。」

「お養母様も、どうぞお元気で。」


 最後にハーモニアは、エルレアをそっと抱きしめた。


「帰ってきなさい、必ず…私の可愛い子。」


 エルレアが馬車に乗り、それが走り出してからも、ハーモニアは馬車の影が見えなくなるまでオパールの門の前に立っていた。



☆     ☆     ☆




 ゴトゴトと揺れる馬車の中で、エルレアは正面に座っているスウィングに頼みごとをした。


「スウィング。私に何か、武術を教えてくれないか?」

「え…武術…って、エルレアが!?」

「私も、自分の身を守る術がほしい。」

「護身術程度でいいなら、扇術はどう?」

「扇術?」


 クス、とスウィングは少しだけ笑った。


「皇宮で君がしようとした事だよ。文字通り、扇を武器に見立てて戦う術。」


 未来とは、既に決まっていて、変えられないものなのだろうか。

 いいや、そうではないのかもしれない、とエルレアは思う。

 動き出すのも立ち止まるのも、全て自分の心一つなのだから。







 青空の下に、白い十字架があった。


 朝まで無かった花束が、昼には十字架の前で風に吹かれていた。

 美しい瑠璃色の蝶が、羽を光らせながら飛び交う。

 黄金の花々に囲まれ、花束を胸に抱き、空を仰いで。

 彼女は終わらない眠りの中で、彼らの夢を見ていた。



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