ノスタルジア〜その名を継ぐ者〜
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第十章 大好きだよ |
それぞれの思いが交錯(こうさく)する夜、それぞれが同じ夢を見た。
上を見上げると、もう空しか見えない山の頂上で。
あるはずの十字架はそこにはなく、かわりに一人の少女が、微笑みを浮かべて立っていた。
淡い金の髪は、昔と変わらず真っ直ぐで長い。横の髪を少し取って緩(ゆる)く編まれた三つあみは、後ろでまとめられていた。
肢体(したい)は細くしなやかで肌も白く、相変わらず白い清楚(せいそ)な服がよく似合う。
水色の瞳には、大人びた雰囲気があった。
それは『彼女』が望んだ姿だったのか、それとも『彼ら』が望んだ姿だったのか。
彼女は“もしも”の姿で、彼らの前に現れた。
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☆ |
ハーモニアだろうか。
だがそれにしては幼く見える。
「初めまして。…って所でもないかな。」
金の髪は腰の辺りまであり、自分と同じくらい淡い色をしている。背も同じくらいの高さ。
鏡に映った自分の姿ではない。
決定的な違いは、瞳の色と表情。
少女はセレンや養母と同じ水色の瞳であり、自分は濃い緑色の瞳。
少女は微笑んでいるが、自分は笑っていない。
「“エルレア・ド・グリーシュ”…?」
「そう。覚えてる?僕の事。」
「え…?」
「やっぱり覚えてないみたいだね。あの屋敷の薄暗い部屋の中で、君は何を願った?」
あの屋敷。薄暗い部屋?
『力が…欲しい…っ。』
水色の光の残像(ざんぞう)が、目の奥に蘇る。
「まさか…。」
「うん。多分君の考えてる事は合ってるよ。少しだけ君の体を貸してもらったんだ、スウィングを助けるために。」
「スウィングを?」
「危なかったんだよ、あの時。君の魂(こころ)と同調できたから、僕も手を貸せたんだ。さすが、同じ“エルレア”同士だよね。」
「…。」
「どうしたの?」
「私は…貴方の名を語る資格があるのだろうか。」
“エルレア”は、一瞬キョトンとした後、にっこりと笑った。
「面白い事言うね。君にとって名前ってそんなに価値のあるもの?君が例えば“クィーゼル”って名前だったとしても、君は君で変わらないのに。」
「“エルレア”は違う。誰でも名乗って良い名ではない。貴方が“エルレア”だから気付かないだけだ。」
どれだけ愛され、大切にされてきた名であるのか。
「じゃあ君が、僕を越えればいい。」
いとも簡単に、目の前の少女は言ってのけた。
「君のやり方で新しい“エルレア”を生きる事ができるのなら、そんなに難しい事じゃないよ。違っていていいんだ。君と僕が同じ名でも、君が僕である必要はないんだから。」
違っていていい、という言葉に、心が軽くなるのを感じた。
(だからか。)と思った。
だからこの少女は、亡くなってからもずっと慕われてきたのか。
このままで良いのだと。
彼女はありのままを受け入れて、一番欲しい言葉に気付いてくれるから。
「さて、じゃあ今度は僕が訊くけど、旅は続けたくないの?」
「それは…続けたい。けれど私には」
「『資格がない』?確かに君は力で相手をねじ伏せる事はできないけど、それだけが強さとは限らないんじゃない?いくら剣術ができても、それを使う時と場所を冷静に判断できなければ、愚者の剣にしかなりえない。不思議な事にね、剣とか身体の力を極めるより、その判断力を高める方が難しいんだ。目に見えないからかもしれないけど。君にはその力がある。」
「私の判断の誤りが、スウィングの身の危険を招いたものだったとしても?」
「じゃあ、どうすれば良かったと思う?」
「…分からない。」
「それ以外に取れる行動が無かった。でしょう?それは判断の誤りには入らないよ。少なくとも僕はそう思う。だって、僕も同じような事、したからね。君はもっと、自信を持っていい。どうしても足りないと思うものがあるなら、これから手に入れれば良い。君の人生は、君次第だよ。」
保証を欲しがる程弱くも無いでしょ?と、水色の瞳を意味ありげに輝かせ、彼女は言った。
緑の瞳の少女は、観念したように目を伏せる。
「どうやら…私はひどく甘えた事を、言っていたようだな…。」
「…迷いは消えたね?」
「おかげで。すっきりした、色んな事が。“エルレア”。」
「何?」
「強くなってみせる。貴方を不安にさせないように。」
私を受け入れてくれる人達を守るために。
貴方が思いがけず私に残してくれた、大切な幾(いく)つもの命を、失(うしな)う事がないように。
“エルレア”は、それは嬉しそうに笑った。
「うん。なら、早く起きて準備しなくちゃね!」
水色の瞳のエルレアが、緑の瞳のエルレアの肩に手を置いて、回れ右をさせた。
肩をトン、と軽く押される。
「頑張って…エルレア。」
その声が、目が覚めた時まだ耳に残っていた。
| ☆ ☆ |
「ありがとう、ニリウス。」
向けられた笑顔は、彼女の母や弟のそれに似ていた。
「ここ、凄く良い場所だよ。風が気持ちいいし、僕の大好きな花がいっぱい咲くし。何より」
ふ、と下に広がる世界を見て。
「僕の大切な人達が、いつでも見える。」
「礼ならクィーゼルに言えよ。お前の墓はここが良いって旦那さんに言ったのはあいつだ。」
「でも、ニリも一緒だったでしょ。それに…それ以外の事も。」
風が吹く。
「…後悔、してねえか。」
「ニリは?」
奇妙な会話だった。
二人だけに分かる会話。
「俺は…分からねえ。お前を殺した事は、多分一生後悔する。けど、セレン坊っちゃんと嬢さんがいないのも嫌だ。」
「それで良いんだよ、ニリ。人を秤(はかり)にかける事なんてできない。もしかしたら、してはいけない事なのかもしれない。僕が僕の命とセレンの命を比べようとして、答が出なかったように。命自体に何かと比べる為の価値なんて、無いと思うんだ。生きるか、死ぬか。それは価値で決まるんじゃない。心で決めるんだ。」
少女の言葉は、いつか聞いた黒髪の少女の言葉に似ている。
「セレンに生きて欲しい僕の意志。それが、セレンを殺してでも生きたいっていう僕の意志を越えた。それだけの事だよ。君が自分を責める事じゃない。むしろ感謝してるよ、僕を見送ってくれた君に。」
「感謝?」
「うん。今になってやっと、伝えられた。君に“ありがとう”って。」
「…あいつには…クィーゼルには?」
「“ごめん”。僕にはこれしか言えないよ。」
少女は苦笑しながら言った。
「ね、そういえばニリはどうして、オパールに来たの?僕のお父様かお母様の命令?」
「いいや。俺が居たかったんだ。一人は嫌だろ?」
少女はそれを聞き、照れたように笑う。
「…セレン坊っちゃんは元気だぞ。」
「うん、それは知ってる。それに意外な事もあったね。あの子…緑の瞳の女の子。」
「嬢さんか。」
「強い意志の力がある。でも、近い将来あの子はもっと凄い力を手に入れるよ。」
「勘か?」
少女は笑って「ううん」と首を横に振る。
「いずれ来る未来。揺るがない事象。」
「?」
ふふ、と少女が花のように笑う。金の髪がサラサラと揺れた。
「行きなよニリ。君の仲間の所に。ついて行くんでしょ?」
“ついて行きたいんでしょ?”
許してくれるだろうか、あの幼なじみの少女は。
“いつだって…自分の意志で”。
「ああ。…じゃな。」
ニカ、と笑い返すと、ニリは坂道へと走り出した。
| ☆ ☆ ☆ |
長い長い夢を。
見ていたのかな、あたし。
約束を守らなかったのは、もしかして自分かもしれない。
寝過ごしたのかな、あの朝。
いや…今?
違う、と、青空を背に自分をのぞき込んだ彼女は、かすかに笑って言った。
言われてみればここは山の頂上だし、目の前の少女はどう見ても十代後半だ。
ただこの世界が、彼女のいる世界があんまり綺麗なものだから、もう少しこのままでいたかった。
「ごめんね、クィーゼル。」
「ああ?絶対許さない。」
身を起こして、クィーゼルは不機嫌に言った。
「何を、と訊かないあたりがクィーゼルらしいね。」
「許さないに決まってるだろ。ニリと二人でコソコソしやがって。いーよ、どーせあたしは仲間外れだよ。」
「何だ、その事。」
「何だじゃないよ!あたしはそういうのが一番嫌いなんだ。反省してんのかよ、お前は。」
「してるよ。でもクィーゼルが居たら止めてたでしょ?」
「ったり前だ。」
「だから。クィーゼルにだって譲れないものはあるでしょ?」
「…知るかよ。」
そっぽを向いたクィーゼルの背中に、少女は問いかけた。
「ニリの事…怒ってる?」
「別に…もうどうでもいいよ。今はそれより、あたしってそんなに頼りなかったのかって、自分に腹が立ってる。」
「どうして?」
クィーゼルはうつむいたまま、言葉を探すようにしばらく黙っていた。
「ニリ、はさ…お前が死んでから十年近く、お前との事を誰にも言わなかったんだよな。奥方や旦那は知ってるだろうけど、誰にも話さず、相談もしないで…それってさ、ニリにとっては多分、誰かに話してそれを知られる事より辛い事なんだよな。そう考えると、あたしってニリの一番近くにいたつもりだったのに、全然信頼されてなかったんだなぁ…ってさ。」
「そんな事ないよ。ニリはクィーゼルにすごく助けられてる。」
クィーゼルの横に座って、少女は言った。
「ニリに“クィーゼルに話しちゃダメ”って言ったの、僕だしね。」
「え……。」
「それがニリの為だと思ったんだ。責任感からクィーゼルに話さないように。でも違ったみたいだ。僕の言葉は、ニリを苦しめただけだった。」
「ちょ、ちょっと待て。じゃああたしは、こんなに悩まなくていいんじゃないか?」
「だね。」
「“だね”じゃねぇぇぇぇっ!!」
山びこで、クィーゼルの声が何度か返ってくる。だぁもう何やってんだあたし、とかわめいているクィーゼルの傍らで、少女はこらえきれずに吹き出した。
「昼はニリを殴るし、ここに来てから元気ないみたいだったから気になってたけど、もう大丈夫そうだね。」
「言っとくが、ニリには謝んないからな。」
「意地っぱり。手当てくらいしてあげなよ?」
「さぁね。気が向いたらしてやるよ。」
「クィーゼルがそう言う時は、大抵してくれるんだよね。」
「なっ…勝手な事言うな!あたしは…」
「はいはい、分かってるよ。さ、立ってクィーゼル。朝が近い。もっと話したいけど、そろそろ帰らなきゃ。」
上には青空が広がっている。
「朝って…ああ、ここは夢だったな…。」
「よし、オパールまでダッシュで行こー!!」
「走って帰るのか!? って言うかそれで帰れるのか!?」
「冗談だよ。坂道に入れば目が覚める。」
パンパン、とスカートについた土を払って、クィーゼルは立ち上がる。
「なぁ、エルレア。」
「ん?」
「また会えるか?」
少女は一瞬だけ目を見開いたが、
「さぁ、どうだろ?」と言った。
「実は僕にも、何で今になってクィーゼルに会う事ができたのか分からないんだ。多分、僕に凄く気がかりな事があったからだと思うけど。」
「気がかりな事って?」
キョトンとしたクィーゼルに、少女は意地悪そうに笑んで答えた。
「君。」
クィーゼルはヘッと言うと、不敵な笑みを浮かべた。
「心配しなくても、あたしはちゃんと生きてくよ。今までしてきたように。」
じゃあな、とクィーゼルは背中で親友に別れを告げた。
そういう別れ方が自分と彼女にはふさわしいと思った。
これからは、自分の後姿を見ていてほしい。
どれほど弱気になっても、無様に泣き顔をさらしても、凛と背筋だけは伸ばして、生き抜いていくから。
| ☆ ☆ ☆ ☆ |
「あの時、何も考えられなかったから気付かなかったけど…僕を助けに来てくれたのは君?」
スウィングの濃い金髪が、風に揺れては光を帯びる。
「どうして分かったの?」
“大丈夫…僕が居るから、安心してゆっくり眠っていいよ、スウィング。”
「分かるよ。」
探していたから。
ずっと、長い間。
「…嬉しい。君にもう一度会いたかったんだ、スウィング。」
少なからず驚いた。
「ニリともクィーゼルとも違う。何でかな…たった一回会っただけなのに、君の事、忘れられなかった。」
その感情に気付くには、お互い幼すぎた。
巡りあった事が必然であったと信じられる特別な存在。
「僕も、ずっと会いたかった。エルレア。」
少女は悲しげな顔をする。
「スウィングの事を思い出すと、いつも後悔しそうになってた。」
死を選んだ事を。
「君が死んだって聞かされた今でも…僕は」
「その先は、言っちゃいけない。」
少女はスウィングの唇に人差し指をそっと当てて、柔らかく遮った。
「僕じゃない誰かの為に…取っておいて。」
きっと、彼女が一番辛いはずなのに。
あるはずだった未来を手放して。
唇から離れた少女の指を右手で掴んで、スウィングは泣きそうな顔をした。
「ごめん…エルレア。」
何もしてあげられなかった。
少女は静かに首を横に振る。
「スウィングは、幸せになるよ。」
まるで、聖女が民を言祝(ことほ)ぐように。
幾千の花びらが舞い上がり、金色の粒子に変わった。
そしてその粒子は、引き寄せられるように少女の元へ集まると、渦を巻くように空へ駆けていく。
光の螺旋。
やがて少女も、輝く粒子を身に纏う。
「覚えていて。君を助けたのは僕だけの力じゃない。緑の瞳の子がいてくれたからだよ。僕は、あの子に力を貸してあげただけ。君を守りたいって心が、僕と同調したんだ。あの子の心が、君を守ったんだよ。だから―――。」
少女の足が、地面から離れる。
「スウィングも、あの子を守ってあげてね…。」
繋いだ手が離れ、次第に遠ざかる。
スウィングが最後に見たものは、空に溶けるように消えていく少女の微笑みだった。
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