ノスタルジア〜その名を継ぐ者〜



第十章 大好きだよ



 それぞれの思いが交錯(こうさく)する夜、それぞれが同じ夢を見た。


 上を見上げると、もう空しか見えない山の頂上で。

 あるはずの十字架はそこにはなく、かわりに一人の少女が、微笑みを浮かべて立っていた。

 淡い金の髪は、昔と変わらず真っ直ぐで長い。横の髪を少し取って緩(ゆる)く編まれた三つあみは、後ろでまとめられていた。

 肢体(したい)は細くしなやかで肌も白く、相変わらず白い清楚(せいそ)な服がよく似合う。

 水色の瞳には、大人びた雰囲気があった。



 それは『彼女』が望んだ姿だったのか、それとも『彼ら』が望んだ姿だったのか。

 彼女は“もしも”の姿で、彼らの前に現れた。







 ハーモニアだろうか。

 だがそれにしては幼く見える。


「初めまして。…って所でもないかな。」


 金の髪は腰の辺りまであり、自分と同じくらい淡い色をしている。背も同じくらいの高さ。

 鏡に映った自分の姿ではない。

 決定的な違いは、瞳の色と表情。

 少女はセレンや養母と同じ水色の瞳であり、自分は濃い緑色の瞳。

 少女は微笑んでいるが、自分は笑っていない。


「“エルレア・ド・グリーシュ”…?」

「そう。覚えてる?僕の事。」

「え…?」

「やっぱり覚えてないみたいだね。あの屋敷の薄暗い部屋の中で、君は何を願った?」


 あの屋敷。薄暗い部屋?




『力が…欲しい…っ。』




 水色の光の残像(ざんぞう)が、目の奥に蘇る。


「まさか…。」

「うん。多分君の考えてる事は合ってるよ。少しだけ君の体を貸してもらったんだ、スウィングを助けるために。」

「スウィングを?」

「危なかったんだよ、あの時。君の魂(こころ)と同調できたから、僕も手を貸せたんだ。さすが、同じ“エルレア”同士だよね。」

「…。」

「どうしたの?」

「私は…貴方の名を語る資格があるのだろうか。」


“エルレア”は、一瞬キョトンとした後、にっこりと笑った。


「面白い事言うね。君にとって名前ってそんなに価値のあるもの?君が例えば“クィーゼル”って名前だったとしても、君は君で変わらないのに。」

「“エルレア”は違う。誰でも名乗って良い名ではない。貴方が“エルレア”だから気付かないだけだ。」


 どれだけ愛され、大切にされてきた名であるのか。


「じゃあ君が、僕を越えればいい。」


 いとも簡単に、目の前の少女は言ってのけた。


「君のやり方で新しい“エルレア”を生きる事ができるのなら、そんなに難しい事じゃないよ。違っていていいんだ。君と僕が同じ名でも、君が僕である必要はないんだから。」


 違っていていい、という言葉に、心が軽くなるのを感じた。


(だからか。)と思った。


 だからこの少女は、亡くなってからもずっと慕われてきたのか。


 このままで良いのだと。

 彼女はありのままを受け入れて、一番欲しい言葉に気付いてくれるから。


「さて、じゃあ今度は僕が訊くけど、旅は続けたくないの?」

「それは…続けたい。けれど私には」

「『資格がない』?確かに君は力で相手をねじ伏せる事はできないけど、それだけが強さとは限らないんじゃない?いくら剣術ができても、それを使う時と場所を冷静に判断できなければ、愚者の剣にしかなりえない。不思議な事にね、剣とか身体の力を極めるより、その判断力を高める方が難しいんだ。目に見えないからかもしれないけど。君にはその力がある。」

「私の判断の誤りが、スウィングの身の危険を招いたものだったとしても?」

「じゃあ、どうすれば良かったと思う?」

「…分からない。」

「それ以外に取れる行動が無かった。でしょう?それは判断の誤りには入らないよ。少なくとも僕はそう思う。だって、僕も同じような事、したからね。君はもっと、自信を持っていい。どうしても足りないと思うものがあるなら、これから手に入れれば良い。君の人生は、君次第だよ。」


 保証を欲しがる程弱くも無いでしょ?と、水色の瞳を意味ありげに輝かせ、彼女は言った。


 緑の瞳の少女は、観念したように目を伏せる。


「どうやら…私はひどく甘えた事を、言っていたようだな…。」

「…迷いは消えたね?」

「おかげで。すっきりした、色んな事が。“エルレア”。」

「何?」


「強くなってみせる。貴方を不安にさせないように。」


 私を受け入れてくれる人達を守るために。

 貴方が思いがけず私に残してくれた、大切な幾(いく)つもの命を、失(うしな)う事がないように。


“エルレア”は、それは嬉しそうに笑った。


「うん。なら、早く起きて準備しなくちゃね!」


 水色の瞳のエルレアが、緑の瞳のエルレアの肩に手を置いて、回れ右をさせた。

 肩をトン、と軽く押される。


「頑張って…エルレア。」



 その声が、目が覚めた時まだ耳に残っていた。



☆     ☆




「ありがとう、ニリウス。」


 向けられた笑顔は、彼女の母や弟のそれに似ていた。


「ここ、凄く良い場所だよ。風が気持ちいいし、僕の大好きな花がいっぱい咲くし。何より」


 ふ、と下に広がる世界を見て。


「僕の大切な人達が、いつでも見える。」

「礼ならクィーゼルに言えよ。お前の墓はここが良いって旦那さんに言ったのはあいつだ。」

「でも、ニリも一緒だったでしょ。それに…それ以外の事も。」


 風が吹く。


「…後悔、してねえか。」

「ニリは?」


 奇妙な会話だった。

 二人だけに分かる会話。


「俺は…分からねえ。お前を殺した事は、多分一生後悔する。けど、セレン坊っちゃんと嬢さんがいないのも嫌だ。」

「それで良いんだよ、ニリ。人を秤(はかり)にかける事なんてできない。もしかしたら、してはいけない事なのかもしれない。僕が僕の命とセレンの命を比べようとして、答が出なかったように。命自体に何かと比べる為の価値なんて、無いと思うんだ。生きるか、死ぬか。それは価値で決まるんじゃない。心で決めるんだ。」


 少女の言葉は、いつか聞いた黒髪の少女の言葉に似ている。


「セレンに生きて欲しい僕の意志。それが、セレンを殺してでも生きたいっていう僕の意志を越えた。それだけの事だよ。君が自分を責める事じゃない。むしろ感謝してるよ、僕を見送ってくれた君に。」

「感謝?」

「うん。今になってやっと、伝えられた。君に“ありがとう”って。」

「…あいつには…クィーゼルには?」

「“ごめん”。僕にはこれしか言えないよ。」


 少女は苦笑しながら言った。


「ね、そういえばニリはどうして、オパールに来たの?僕のお父様かお母様の命令?」

「いいや。俺が居たかったんだ。一人は嫌だろ?」


 少女はそれを聞き、照れたように笑う。


「…セレン坊っちゃんは元気だぞ。」

「うん、それは知ってる。それに意外な事もあったね。あの子…緑の瞳の女の子。」

「嬢さんか。」

「強い意志の力がある。でも、近い将来あの子はもっと凄い力を手に入れるよ。」

「勘か?」


 少女は笑って「ううん」と首を横に振る。


「いずれ来る未来。揺るがない事象。」

「?」


 ふふ、と少女が花のように笑う。金の髪がサラサラと揺れた。


「行きなよニリ。君の仲間の所に。ついて行くんでしょ?」


“ついて行きたいんでしょ?”


 許してくれるだろうか、あの幼なじみの少女は。


“いつだって…自分の意志で”。



「ああ。…じゃな。」



 ニカ、と笑い返すと、ニリは坂道へと走り出した。



☆     ☆     ☆




 長い長い夢を。

 見ていたのかな、あたし。

 約束を守らなかったのは、もしかして自分かもしれない。

 寝過ごしたのかな、あの朝。

 いや…今?



 違う、と、青空を背に自分をのぞき込んだ彼女は、かすかに笑って言った。

 言われてみればここは山の頂上だし、目の前の少女はどう見ても十代後半だ。

 ただこの世界が、彼女のいる世界があんまり綺麗なものだから、もう少しこのままでいたかった。


「ごめんね、クィーゼル。」

「ああ?絶対許さない。」


 身を起こして、クィーゼルは不機嫌に言った。


「何を、と訊かないあたりがクィーゼルらしいね。」

「許さないに決まってるだろ。ニリと二人でコソコソしやがって。いーよ、どーせあたしは仲間外れだよ。」

「何だ、その事。」

「何だじゃないよ!あたしはそういうのが一番嫌いなんだ。反省してんのかよ、お前は。」

「してるよ。でもクィーゼルが居たら止めてたでしょ?」

「ったり前だ。」

「だから。クィーゼルにだって譲れないものはあるでしょ?」

「…知るかよ。」


 そっぽを向いたクィーゼルの背中に、少女は問いかけた。


「ニリの事…怒ってる?」

「別に…もうどうでもいいよ。今はそれより、あたしってそんなに頼りなかったのかって、自分に腹が立ってる。」

「どうして?」


 クィーゼルはうつむいたまま、言葉を探すようにしばらく黙っていた。


「ニリ、はさ…お前が死んでから十年近く、お前との事を誰にも言わなかったんだよな。奥方や旦那は知ってるだろうけど、誰にも話さず、相談もしないで…それってさ、ニリにとっては多分、誰かに話してそれを知られる事より辛い事なんだよな。そう考えると、あたしってニリの一番近くにいたつもりだったのに、全然信頼されてなかったんだなぁ…ってさ。」

「そんな事ないよ。ニリはクィーゼルにすごく助けられてる。」


 クィーゼルの横に座って、少女は言った。


「ニリに“クィーゼルに話しちゃダメ”って言ったの、僕だしね。」

「え……。」

「それがニリの為だと思ったんだ。責任感からクィーゼルに話さないように。でも違ったみたいだ。僕の言葉は、ニリを苦しめただけだった。」

「ちょ、ちょっと待て。じゃああたしは、こんなに悩まなくていいんじゃないか?」

「だね。」

「“だね”じゃねぇぇぇぇっ!!」


 山びこで、クィーゼルの声が何度か返ってくる。だぁもう何やってんだあたし、とかわめいているクィーゼルの傍らで、少女はこらえきれずに吹き出した。


「昼はニリを殴るし、ここに来てから元気ないみたいだったから気になってたけど、もう大丈夫そうだね。」

「言っとくが、ニリには謝んないからな。」

「意地っぱり。手当てくらいしてあげなよ?」

「さぁね。気が向いたらしてやるよ。」

「クィーゼルがそう言う時は、大抵してくれるんだよね。」

「なっ…勝手な事言うな!あたしは…」

「はいはい、分かってるよ。さ、立ってクィーゼル。朝が近い。もっと話したいけど、そろそろ帰らなきゃ。」


 上には青空が広がっている。


「朝って…ああ、ここは夢だったな…。」

「よし、オパールまでダッシュで行こー!!」

「走って帰るのか!? って言うかそれで帰れるのか!?」

「冗談だよ。坂道に入れば目が覚める。」


 パンパン、とスカートについた土を払って、クィーゼルは立ち上がる。


「なぁ、エルレア。」

「ん?」

「また会えるか?」


 少女は一瞬だけ目を見開いたが、


「さぁ、どうだろ?」と言った。


「実は僕にも、何で今になってクィーゼルに会う事ができたのか分からないんだ。多分、僕に凄く気がかりな事があったからだと思うけど。」

「気がかりな事って?」


 キョトンとしたクィーゼルに、少女は意地悪そうに笑んで答えた。


「君。」


 クィーゼルはヘッと言うと、不敵な笑みを浮かべた。


「心配しなくても、あたしはちゃんと生きてくよ。今までしてきたように。」


 じゃあな、とクィーゼルは背中で親友に別れを告げた。

 そういう別れ方が自分と彼女にはふさわしいと思った。

 これからは、自分の後姿を見ていてほしい。


 どれほど弱気になっても、無様に泣き顔をさらしても、凛と背筋だけは伸ばして、生き抜いていくから。



☆     ☆     ☆     ☆




「あの時、何も考えられなかったから気付かなかったけど…僕を助けに来てくれたのは君?」


 スウィングの濃い金髪が、風に揺れては光を帯びる。


「どうして分かったの?」



“大丈夫…僕が居るから、安心してゆっくり眠っていいよ、スウィング。”



「分かるよ。」


 探していたから。

 ずっと、長い間。


「…嬉しい。君にもう一度会いたかったんだ、スウィング。」


 少なからず驚いた。


「ニリともクィーゼルとも違う。何でかな…たった一回会っただけなのに、君の事、忘れられなかった。」


 その感情に気付くには、お互い幼すぎた。

 巡りあった事が必然であったと信じられる特別な存在。


「僕も、ずっと会いたかった。エルレア。」


 少女は悲しげな顔をする。


「スウィングの事を思い出すと、いつも後悔しそうになってた。」


 死を選んだ事を。


「君が死んだって聞かされた今でも…僕は」

「その先は、言っちゃいけない。」


 少女はスウィングの唇に人差し指をそっと当てて、柔らかく遮った。


「僕じゃない誰かの為に…取っておいて。」


 きっと、彼女が一番辛いはずなのに。

 あるはずだった未来を手放して。

 唇から離れた少女の指を右手で掴んで、スウィングは泣きそうな顔をした。


「ごめん…エルレア。」


 何もしてあげられなかった。

 少女は静かに首を横に振る。


「スウィングは、幸せになるよ。」


 まるで、聖女が民を言祝(ことほ)ぐように。

 幾千の花びらが舞い上がり、金色の粒子に変わった。

 そしてその粒子は、引き寄せられるように少女の元へ集まると、渦を巻くように空へ駆けていく。

 光の螺旋。

 やがて少女も、輝く粒子を身に纏う。


「覚えていて。君を助けたのは僕だけの力じゃない。緑の瞳の子がいてくれたからだよ。僕は、あの子に力を貸してあげただけ。君を守りたいって心が、僕と同調したんだ。あの子の心が、君を守ったんだよ。だから―――。」


 少女の足が、地面から離れる。


「スウィングも、あの子を守ってあげてね…。」


 繋いだ手が離れ、次第に遠ざかる。


 スウィングが最後に見たものは、空に溶けるように消えていく少女の微笑みだった。




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