ノスタルジア〜その名を継ぐ者〜
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第六章 全ての答え |
覚えてる。
抱きしめられた時の柔らかな感触も。
震える手に伝わった、鈍い抵抗も。
「君にしか頼めないんだ。」
どうしてあの日の夕焼けは、あんなに綺麗だったのか。
かえって悲しくなるくらい、その色は優しくて。
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☆ |
雲一つ無い雨上がりの朝の空を背景に、動きやすい服を着た四人はシャルローナに見送られた。
「一人だけ留守番を頼んじゃってごめんね、シャルル。」
「そんな事より、私は貴方の身体の方が心配だわ。……大丈夫なの?」
「うん、全然平気だよ。クィーゼル、その場所までどのくらいかかる?」
五人が集まっていたのは、オパール邸の裏庭だった。裏門を出るとすぐ、オパール邸の後ろにそびえる山に続く道がある。クィーゼルは山の頂(いただき)を示した。
「2,3時間もありゃ着くだろ。夕方には戻って来れるさ。」
『なぁっ、オパールの後ろの山に』
季節も、ちょうど今頃。
あたし達が、できた事。
| ☆ |
「この先に居るんだろ? あいつは。」
黒髪の幼い少女は、止める少年の手を振り払って相手を睨んだ。
ツヤのある髪は乱れ、頬はわずかに赤い。
「あたしはあいつに言わなきゃいけない事があるんだ。」
そう言って、少女は切り立った崖の上に立った。
黒いスカートが、風を孕んで膨らむ。
「おい! 聞こえてるか嘘つき女! 今からそっちに行ってやる!!」
別邸・ガーネットの裏の谷。白く濃い霧が底を隠している。
数歩先には、もう地面が無かった。
あまりの高さに足がすくんでしまいそうで、クィーゼルは息を吸って止めた。
ニリウスは少女の胴にしがみつく。
「離せよニリ!! 納得できるか、あんなの……!!」
行きながら話すと言ったクィーゼルだったが、山の中腹を過ぎても話し出す気配は無かった。
ただ、山登りに慣れていない二人の人間に、雨水を吸ってぬかるんだ土や、つまずきやすい木の根などの事を注意しながら先に進んでいった。
ニリウスはずっと無言で最後尾を歩いていた。
そして、随分と時間が経ってさすがに二人がばてて来た頃、クィーゼルは少しペースを落として話し始めた。
「“エルレア・ド・グリーシュ”は、あたしとニリの友達。剣がもの凄く強くて、あたし達は相手になるたびボロ負けしてた。頭も良くて、知恵もあって、でも威張った所なんか全然なくて、いっつもヘラヘラ笑ってた。あいつグリーシュの長女だってのに、使用人見習いのあたしやニリと一緒に毎日遊んでたんだ。」
怪訝な目を向けた金髪の少女を見て、クィーゼルは付け加えた。
「セレン坊とは血の繋がった姉弟だよ。もっとも、あたし達とエルレアが初めて会ったときには、セレン坊はまだ生まれてなかったけど。」
頂上が見える。今までぐねぐねと曲がりくねった道ばかりだったが、あとは一直線の坂を残すのみだった。
「お嬢様のくせに、“私”じゃなくて“僕”って言うんだ。変な奴だったな、あいつ。」
一歩一歩、約束の場所へ。
「人間離れした純粋さってやつ? 疑うとか、憎むとかを知らないんだよ、あたしより年上の癖に。昔はよく、あいつのそんな所にむかついてケンカして……ケンカ? いや違うか、あいつ確か、あたしが怒ってるの見てオロオロしてただけだもんな、怒るときは怒ってたけど……滅多になかったよ。でも、もうずっと昔の話だ。」
―――ニリ……?
あの朝、ニリウスが泣いていた理由。
あいつの身に何かが起きた。
そんな嫌な予感がして、全速力で本邸の大広間に駆けた。
静まり返った本邸の廊下が、不気味だった。
息を切らせたまま開いた大広間の扉。
そこにあったのは、すすり泣く声と美しい花々に囲まれた、それより美しい少女の白い顔。
薄く紅を引かれた唇。
長い睫は頬に影を落とし、肌はいつもより白く見えた。
小さな身体には、レースが沢山ついた、金糸の編みこまれた服が着せられ、真っ直ぐで細い金の髪は、いつものように高い二つ結びではなく、横たわった花の上に流されていた。
ドクン、と心臓がいやに大きく高鳴る。
クィーゼルは箱の中の少女の頬に手を触れると、その冷たさに反射的に手を引いた。
そして、何かから逃げるように大広間から走り出した。
「答えろ、バカ女! あたしを待ちぼうけさせて満足かよ!?」
ニリウスに構わず、クィーゼルは腹の底から怒鳴った。
あの世とこの世を結ぶという、白雲の谷の底へ。
脳裏に蘇る、よく通る高い声。
―――知りたいなら、登っておいでよ。
葉の間から差していた太陽の光。
時にいたずらっぽく輝いた双眸。
「“また明日”っつったのは、どこの誰なんだよ!?」
クィーゼルの瞳から、今まで堪えていた涙が堰を切ったように溢れ出す。
「オパールに来いよ、一緒に! お前が来ないと意味がないんだよ!!」
「クィーゼル……!」
そこまで無言だったニリウスが、しがみつく力を弱めずに言った。
「あいつは約束を守らなかったんじゃねぇ!! 守れなかったんだ……!!」
ニリウスの嗚咽を堪えた声が耳に届く。
ニリウスも泣いていた。
「……っ。」
胸が痛い。
あいつのせいで。
痛くて死んでしまいそう。
少しでも心を緩めれば、大きな悲しみの波にもまれて、もう二度と抜け出せないような気がした。
怖い。
ただ怒ることでしか、その感情を抑える事はできなかった。
「……戻って来い、バカ女……。」
聞こえているなら。
溢れる涙を拭いもせずに、クィーゼルは谷底へ叫んだ。
「もう一度あたしをひっぱたいて見せろ、エルレア―――!!」
歪んだ視界に、金髪の少女の困ったような笑顔が浮かんで、消えた。
谷底の白い霧が、まるで意志があるかのように一点に集まり、一気に真上の空へ駆けたのは、その時だった。
やがて、柱のような霧が周囲の空気に薄れていき、中から現れたのは二人が今まで見たことも無い形の虹だった。
一直線に空へと、果てなく続く虹の道。
古代リグネイの言葉で、“七色の(オリエン)奇跡(セーヌ)”―――年に何回か起こる、白雲の谷の不可思議な現象の事だった。
「叶えてみせろ、オリエン・セーヌ!! 願いは一つで十分だ! 三つも要らないから……っ。」
(何でも願いを、なんてデマだ。)
クィーゼルが山頂の土を踏んだ。
続いて三人が到着する。
「“エルレア・ド・グリーシュ”は」
―――あの山のてっぺんに
黄色い花びらが、五人の視界を埋めて一斉に空へと散った。
―――すっげぇ沢山の花が咲くんだって……
「死んだよ。」
花びらの向こうに、白い十字架が一本立っていた。
オパール邸は勿論、遠くにグリーシュの本邸や、さらには遠く離れた皇宮まで望める場所に。
まるで、彼らの訪れを待っていたかのように。
「ニリがオパールで働き出したのは、そのすぐ後。もともとグリーシュの墓地ってのは、第二別邸のアメジストにあるんだけど、旦那と奥方に頼み込んで、ここに作ってもらったんだ。この花、あいつ好きだったからさ。」
スウィングは何かにとりつかれたような足取りで十字架に走り寄った。
十字架の下の石に刻まれた故人の名前と歳。
「【エルレア・ド・グリーシュ 十歳 ここに眠る】……。」
これだけ確かな証拠を見せられても、スウィングには信じる事ができなかった。
「見えるかい? あいつの居る場所が。」
ここは、空に一番近い場所。
けれどどれだけ近くても、空に触れる事はできない。
「“エルレア”……っ。」
もう一度剣を交えてみたいと、そう思っていた少女はもういない。
いつしか少女はスウィングの中で、剣を交えてみたいと願う以上の存在になっていた。
従妹のシャルローナとの婚約の話を父王に話された時。
脳裏をかすめたのは、遠い日の笑顔。
誰と剣を合わせても、誰と話をしていても、彼女ほど自分を強く惹きつける人間はいなかった。
彼女はずっとここで眠っていた。
そしてもう二度と、その眠りが覚める事はない。
「“エルレア”……!」
涙より先に空虚感に襲われて、スウィングは地面に膝をついた。
| ☆ |
「“エルレア”が死んだその年の冬、お嬢が来た。奥方があいつの代わりを探したんだ。旦那は娘のかわりに養女をもらうなんて、って反対してたけど、奥方はあいつが死んでからずっと塞ぎこんでたし、何よりグリーシュ家には“エルレア・ド・グリーシュ”という名前の娘が必要だった。」
黒髪の少女のスカートがはためいた。
「“エルレア”と第二皇子の婚約話がまとまってたからだ。」
『許してなんて言わないわ、貴方を巻き込んでしまったこと……けれど、それは私自身の勝手な望みでもあった……。』
そう言ったハーモニアを、金色の髪の少女は思い出した。
「僕と“エルレア”が……? そんな事、聞いた覚えもないよ。」
信じられない、というような表情のスウィングに、クィーゼルは真面目な表情で告げる。
「嘘じゃないよ。皇帝さんが本邸に来たとき接待に当たったの、うちの母親でね。何でも、皇帝さんがどうしてもって、ほとんど一方的に決められたらしいんだけど。で、何故か……養女を貰ってまで、グリーシュはその婚約を維持しなきゃいけなかったんだ。」
金髪の少女は、何かにひっかかったような表情を浮かべた。
「しかし、私が平民の娘だという事は……。」
「知らないよ。誰も。……初耳だろ? 皇子。」
スウィングは少し驚いた様子で頷く。
「完璧にお嬢を、実子の“エルレア・ド・グリーシュ”に見せかけようとしたんだ。旦那はやっぱり、お嬢をあいつだと思い込む事に抵抗があったみたいだけどな。『自分の娘は一人しかいない』って。」
『宴では決して、自分が養女だなんて言ってはだめよ。』
それは、宴に呼ばれた自分に対してかけられた養母ハーモニアの言葉。
「何にしても解せないのは、皇帝さんは何でグリーシュと縁を結びたがったのかと、身代わりを立ててまで世間を欺き続けるグリーシュの理由。ただ皇族に近づきたいだけじゃないんだ。それならなんで最初に皇帝さんから婚約の申し込みがあった時に喜んで受けなかったのかが分からない。確かなのは、“エルレア・ド・グリーシュ”はもうこの世にいないって事と、そうやってグリーシュが苦労して継続している第二皇子との婚約も、今回の失踪事件で第一皇子が見つかんなかったら白紙に戻るって事。あたしが知ってるのは、これだけだ。」
クィーゼルは髪を梳くように、こめかみに手を当てる。
ニリウスは何も言わなかった。
知っていたのだな、と金髪の少女は思う。
“エルレア・ド・グリーシュ”―――山頂の白い十字架。
それが全ての答えだった。
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