ノスタルジア〜宴の夜〜



第一章 旧リグネイ帝国皇室・グリーシュ家



 夏の午前の涼しい風が、鼻先を通り過ぎていった。陽が出るまで、少しだが時間がありそうだ。
 高い塀に囲まれた巨大な庭には、小さな丘があった。

 毎朝、その丘にあるリンゴの樹の下で本を読むのが、彼女の日課である。
 二度寝してしまったことを不覚に思いながら、彼女は気だるげに身を起こした。
 草の上に投げ出されていた長い金髪を波立たせ、樹の枝の間からかすかに見える空を見上げる。


───濃いエメラルドの瞳が、灰色の空に浮かぶ雲を映した。


 夢の内容を、ふと思い出す。

(久しぶり…だな。)

 名前も忘れてしまった昔の家族を、夢に見るのは。
 もう全て忘れたものと思っていた。自分の名前さえ、覚えてはいないのだから。


 空に無数の光の矢が差す。

 丘に届いた光に目を細め、同時に広い庭を自分の方に向かって歩いてくる人物に気づいた。


「おはよう、姉様。もう起きてたんだ。」


 抜群の笑顔で、金髪の少年――こちらに歩いてくる人物――は彼女に言葉を投げかける。


「お父様に許可はもらったのか?黙って私と会った事がばれたら叱られるだろう。」


 たしなめるような彼女の言葉に少年は立ち止まり、いたずらがバレた時のような笑顔を見せた。


「お父様は今日一日、書類の山の相手をしなきゃいけないから、庭を見る余裕はないよ。召し使い達には口止めしてるし。それに、お母様は笑って許してくれたから大丈夫だよ、エルレア姉様。」

「そうか。今日はお体の調子がいいのか?お母様は。」


 少年の顔からあどけない笑顔が消える。

 そして少年はうつむいて黙り込んだ後、おずおずと小さく切り出した。


「エルレア姉様…もし…もしも、お母様がいなくなってしまったら…姉様はどうなるの?」

「この屋敷から追い出される。」


 考えていないわけではなかった仮定に、エルレアはズバッと結論を出した。


 深い森に住んでいた少女をエルレア・ド・グリーシュとして、この裕福な屋敷に迎え入れた張本人、ハーモニア・ド・グリーシュ夫人は、二ヶ月ほど前に重い病にかかり、今も外に出るのは危ぶまれる状態にある。
 夫のコーゼスは、エルレアを養女として迎え入れたことを良く思っていない。
 息子をエルレアから隔離させる程、彼はエルレアを嫌っている。

 だから、ハーモニアに万が一の事が起きれば、自分が追い出されるのは間違いないとエルレアは考えていた。

 今にも泣きそうな顔をしている弟に気づき、彼女はかすかに苦笑した。
 自分とさして歳の違わないこの少年は、血のつながりのない他人の事でも一喜一憂する。
 その性分が、エルレアにはおかしくて愛しいのだった。

 自分にはそんな優しさも幼さも、在りはしないから。


「おいで。何か話をしよう。」


 淡々と、しかしできる限りの感情を込めて、彼女は言った。

 悲しみと不安の色を映していた少年の青い瞳が、途端に輝きを取り戻す。


 博学な姉から、物理や倫理論などの話を聞くのは、機会が少ない分常に少年の『楽しいことベスト1』だった。
 少年はエルレアの傍に駆け寄ると、そっと隣に座った。


「今日は何の話?この前の『幽霊の肌はスベスベか』の続き?」

「いや、今日は『はりつけと火あぶりの違い』だ、セレン。」


 夏の一日の始まり。暖かい風に髪を揺らしながら和やかに語り合う麗しい姉弟が、よもや極刑について、という極めて物騒な話をしているなどと、誰に知るよしもなかった。








 広い部屋に、苦しげに咳き込む音が響いた。
 皮の椅子に座った彼は、机の上に積み重なった紙の山を見やり、ため息をつく。

 突き刺すような胸の痛みに顔をしかめつつ、机の一番下の引き出しの鍵を開け、一枚の小さな肖像画を取り出した。


 神々しい金髪を腰まで伸ばした少女が、無邪気に微笑んでいる絵。

 寂しげに呼ばれた名前が、物音一つしない部屋で空しく消えていった。





☆     ☆






「こらあああああぁぁぁっ、ニリィィィ!!」


 ピアノのレッスンに、と屋敷に戻ろうとしたエルレアとセレンは、(おそらく)女の尋常ではない叫び声に足を止めた。


(…何だ?)


 庭園に響いたその声の主を探そうと、エルレアがセレンから離れた。

 その瞬間。


「う、うわああああっっ!?」


 同じく尋常ではない悲鳴がセレンの方から聞こえた。

 何事か、と藍色のスカートを揺らして振り向いたエルレアは、不幸にも、旋律の恐怖映像をそのエメラルドの瞳に映した―――映してしまった。



 わさわさわさ。



 影も形も残さないほど、セレンの体にくっついているもの。



 わさわさわさ。


 かしかしかし。



 何を隠そう、大量のゴキブリとムカデであった。

 わさわさわさ。
 かしかしかしかし。

 おまけに、恐怖の大魔王の大群は、弟を救出すべくそこにあったほうきを構えたエルレアまで呑み込もうとする。エルレアは自分の身を守るだけで必死だった。表情には表れなかったが。


「セレン…気を」しっかり持て。そう言いかけた時、新たな声が聞こえてきた。

「アリスー!ジェシカー!ミリー!」


 そう叫びながら猛烈ダッシュしてくる茶髪の少年に、エルレアは見覚えが無かった。

 少年と言っても、エルレアよりも年上だとはっきり分かるくらい、がっしりとした大きな体つきである。少年とも青年とも呼べるような見た目だった。

 不思議なことに、キャロル、アンジェリカ、セシルなど、少年が様々な名前を呼ぶ度に、セレンについていた虫が次々にはがれていく。

 エルレアが呆然とする中、ようやく少年が全ての虫の名前を呼び終え、セレンは悪しき呪縛から解き放たれた。そして、地面に膝をつくと魂のない小さな声で、


「心臓が止まるかと思った…。」


 とつぶやく。

 エルレアもセレンも知るはずないのだが、実は事実、彼の心臓は10秒程止まっていた。


 セレンの件は解決したとして。
 …問題は、突然どこからともなく爆走してきて、あまつゴキブリとムカデにラブリーな名前をつけている少年の方である。


「…姉様…、だ、誰なの?人間?」


 ゴキブリとムカデの大群にすっかりびびってしまったセレンは、姉の右腕にしがみつき、背中に隠れながら震える声で尋ねた。

 セレンとは対照的に、謎の少年の行動を慎重に観察するエルレア。


「…ん?」と少年。

「嬢さんに、坊ちゃん?何でここに?」


 しゃがんだ姿勢で顔を上げ、虫たちをどこからか取り出した箱に入れながら明るく問う少年。
 健康そうな肌の色。愛嬌のある茶色の瞳が、こちらを見上げている。


「グリーシュの下男と見たが、違いないか?」


 エルレアがわざと尊大に問い返すと、少年は眉を上げ、驚きの表情を作った。そしてすぐにニヒッとした顔になる。


「そ。俺、ニリウス・ジャグラムってんだ。呼ぶならニリでいいぞ。」


(下男にしては態度が軽すぎる。)


 と、不審感もあらわに疑いの目を向けるエルレア。


「どこの担当だ。本邸か?」

「オパールさ。まあ、知らなくて当然だけどな。たかが別邸の召し使いなんて、知ってる方が凄いぜ。」

 ケラケラと笑う少年。

 やけに砕けた性格の少年に、セレンはキョトンとして姉を仰ぎ見る。
 エルレアは勿論セレンでさえ、この少年を知らなかった。

 確かに少年の言う通り、グリーシュ邸全ての召し使いの顔と名前を覚えられたなら、それはとんでもないことかもしれない。


 かつてこの大陸を支配した、今は亡き古代大帝国『リグネイ』。グリーシュ家は、このリグネイ帝国皇帝の流れを汲む由緒正しい家柄である。

 帝国が滅んだ理由は未だに解明されていない。反乱軍は存在したが、庶民の力に倒れる程皇帝の力は微弱ではなかった。

 気候にも何も問題なく、飢饉などが起こった訳ではないと遺跡研究家は語っている。


───滅んだ帝国に残った一族。


 平民が激減し、ほぼ廃墟の国と化したリグネイに、少数の皇族、つまり、グリーシュ家の先祖が生き残っていた。

 別の大陸から渡ってきたオルヴェル民族は、グリーシュ家に様々な制約を与え、オルヴェル帝国皇帝の臣下に下る事を許した。
 そしてグリーシュ家は、皇族ではなく貴族という形で、今を生きている。

 以前王宮であった古城を本邸とし、王宮を円状に取り囲むようにあった12の離宮を別邸にして、帝国時代の皇室領に比べればかなり狭い土地を、グリーシュ家は治めている。

 べらぼーにでかい本邸に、古株の召し使いを500人。別邸には、それぞれ150人ずつ。計、約2300人の召し使いを、グリーシュは抱えている。


「なるほど、知らないはずだ。本邸の召し使いならとりあえず顔は覚えているつもりだからな。」

「…坊ちゃん?何隠れてんだ?」


 姉の腕にすがりついて隠れているセレンを見て、不思議そうにニリウス少年。


「先ほどの虫たちを恐れているんだ。セレン、男なら女の後ろに隠れるな。」

「…僕、女でもいい。」

「ああ、坊ちゃんたちから花の匂いがしてんだろ。こいつら、何でか花の匂いが大好きだからな。」

 ようやく箱に虫を入れ終わった少年は、エルレアとセレンにガキ大将のような笑顔を見せた。
 そして思い出したように、


「あ、やべえっ、こんなとこクィーゼルに見られたら殴られる!!じゃーな、嬢さんに坊ちゃん!!」
 と早口に告げると、箱を抱えて足早に去っていった。



───その日から、エルレアとセレンの愛用のシャンプーと入浴剤が、花の香りからミルクの香りになったのは、言うまでもない。




☆意外な知らせ☆





「はい?」
 ピタ、と口に運びかけたスプーンの動きを止め、養父であるコーゼス・ド・グリーシュ氏に問い返すエルレア。

 コーゼスは眉間にしわを寄せ、あからさまに不快そうな表情を浮かべながら同じ言葉を繰り返した。


「次の生誕記念祭の宴には、エルレア・ド・グリーシュも挨拶を述べに来るように、との皇帝陛下の御言葉だ。必要な話がある。後でハーモニアの部屋に行け。」


 正気ですか、と危うく訊きかけ、エルレアは言葉を飲み込む。

 はて、これはどういう風の吹き回しだろうか。

 手の動きを再開させ、チラ、と養父の顔を見ると、養父は相変わらず気難しい顔をして食事をしている。

 普段と違う所と言えば、眉間の深いしわが普段より二本ほど多いだけである。


 正当な血筋でないエルレアが公の場に出ることに、多少なりと憤りを感じているコーゼスを知ってか知らずか、皇帝はエルレアを指名した。

 本来なら、皇帝から家族を指名されるのは非常に名誉なことなのだが、指名されたのがエルレアとなれば、コーゼスにはこの申し入れを素直に喜ぶことができない。

 早々に食事を済ませたコーゼスは、セレンと同じ青色の瞳でエルレアをひと睨みすると静かに席を立ち、エルレアから最も離れた席で夕食をとっているセレンに告げた。


「セレン、宴では常に一人で行動するように。家族との接触は禁止する。」
 わざと「一人で」を強調し、コーゼスは部屋を出て行った。


 セレンはフォークを口に差し込んだまま、下を向いている。

 沈黙が舞い降りた部屋で、エルレアとセレンは二人きりで料理と向かい合っていた。



 その時。


 キィーッッ、ガッガッガッ。キィーッ、ガガガッッ。



 エルレアが、いや、エルレアの手が沈黙を破った。

 甲高い音―黒板をツメで引っかくような音―と、金属と陶器がぶつかる音が、けたたましく響く。

 あまりにも突然のことに心臓が飛び上がるほどの衝撃を受けたセレンは、そのショックでしゃっくりをし始めた。もしや姉の身に何か、と思いエルレアを見る。

 その瞬間、セレンのしゃっくりは見事に止まった。


 キィーッ、ガガッ、ガガッ!


 彼の敬愛する姉は、機械人形さながら左手のフォークと右手のナイフで目の前の肉をめった刺しにし、八つ裂きにしていた。

 しかし彼女の目は皿を見ておらず、視線はまっすぐ前に注がれている。

 焦点の定まらぬ遠い瞳に、どこか危機感を感じ、セレンが再度エルレアの手元を良く見ると―――。


「───ッッ!!」


 セレンは、危うくフォークを落としそうになった。

 姉の服の色のせいで気づかなかったが、しきりに動く姉の左手からは、絶え間なく鮮血がボトボトと落ちている。

 エルレアの指からしたたり落ちる赤い血は、既に原型を留めていない肉の上にも落ちる。

 かなりグロテスクな光景であった。


 ガッガッガガッ、キィーッ!


 裂ける大きさのない皿の上を、フォークが耳障りな音を出しながら滑る。

 ザッ、と右手のナイフが左手の親指をかすり、血が滲み始めた。それでもエルレアは気付かない。


「姉様!!」


 固まっていたセレンが椅子を飛ばして立ち上がり、エルレアに駆け寄る。


「姉様!?」


 ガクガク、と肩を掴んで揺らしてみても、姉は手の動きを止めない。


「エルレア姉様〜っっ!!手…手がぁ〜!!」


 セレンは半泣きでエルレアにすがりつく。

 このままでは姉が出血多量で死んでしまうのではないかと案じたセレンは、刺す、裂くを繰り返す姉の両手をあらん限りの力で抑え込むと、辺りにはまた静けさが戻った。

 しばらくたって。


「セレン?」


 と、驚いたようなエルレアの声が室内に響いた。

 涙目のセレンが、正気を取り戻した姉に、ワッ、と抱きつく。

 エルレアは、じっと目の前にある血の池地獄(肉片付き)を冷静に見つめ、痛みを感じ始めた左手と交互に見比べた後、無言で頭の上の豆電球に明かりを灯した。


「姉様今何をしてたの〜!?」


 ようやくエルレアから体を離したセレンは、ポケットから取り出したハンカチで姉の左手の指をキュッ、と縛った。応急処置のつもりらしい。


「すまない。少し考え事をしていた。」


 エルレアの考え事とは、奇妙な命令を下した皇帝の真意についてだった。

 自分が養女であり、しかも貴族の血を引かない平民の娘である事は、既に世間に知られている事ではないのか。だからこそ、養父のコーゼスは自分を外に出すまいとしているのだ。グリーシュ家が貴族達の物笑いの種にならないよう。

 エルレアはこのグリーシュ家に来て以来、一度もグリーシュの塀の外に出たことがなかった。屋敷から出ることをコーゼスから固く禁じられ、本来貴族の娘達の晴れ舞台である様々な宴にも、出席していなかった。

 だから、自分の存在自体知っている者は少ないだろうと考えていた。そんな自分の元にいきなり来た、皇帝からの呼び出し。どんなに考えてもその理由が分からない。


(貴族達は、気に食わないだろうな。)エルレアは考えた。


 平民の分際で、皇宮で開かれる宴に出るなど。

 エルレアとて自ら出席したいわけではないのだ。ハーモニア夫人はともかく、コーゼス卿の自分を見る目が以前にも増して厳しくなるのは必至なのだから。

 エルレアが軽くため息をついた時、姉にしがみついていたセレンが、ハッ、と血みどろの皿に目を移した。


「姉様、早くそれを処分しないと。」


 召し使いが来る前に。
 もしもこの件が古参の召し使いに知れたら、あの父の耳にも入ることになる。
 父はそれを口実に、姉を別邸のどこかに閉じ込めてしまうかもしれない。しかも、母であるハーモニアの目が届かない事を良い事に、不慮の事故だとか言って薬で毒殺、もしくは餓死させようとすることも考えられる。

 自分の父にあれこれ疑いをかけたくないのは山々だが、ありえないことではなかった。

 セレンは皿を両手で持つと、火のない暖炉へ運んでいこうとした。が。


 ガシ。


と、エルレアが椅子に座ったままセレンの肩に手を置いた。振り向いたセレンの目をまっすぐに見ながら、真剣な表情で。


「セレン、罪もない善良な牛肉をそんな酷い姿にしたのはこの私だ。私の一時の考え事のせいでその肉が捨てられたのでは、肉となった牛があまりにも不憫だ。」


 エルレアは、植物と動物(+セレン)に対してはどこまででも優しかった。

 姉の言っていることは正しい。正しい気はする…が。話の行方をどことなく察して、セレンは恐れるような表情を浮かべてエルレアを見た。


「少し鉄くさいとは思うが、ここは覚悟を決めて、その牛肉は責任持って」


 姉はしだいに思いつめた顔になっていく。視線をセレンからそらして、暗い声で言った。


「私が食そう。」


 セレンの脳裏に、派手に雷鳴がとどろいた。


「さあ。」


 その皿を、と、エルレアは右手をまっすぐに差し出した。剣士(デュエリスト)が挑戦するかのように。

 エルレアの深い緑の瞳に気圧されたセレンは、震える足でジリ、と後ずさる。


「セレン。」


 静かに、そして低く、エルレアは呟く。

 一歩。エルレアが踏み出し、セレンが後退する。


「駄目…。」


 かすれた声でかろうじて答え、頭を横に振るセレン。

 姉の健康のためにも自分の心臓のためにも、皿を渡すわけにはいかない。


「セレン。」

「駄目―ッ!!」


 たまらず、セレンは皿ごと暖炉へ放り投げた。

 そのとき、暖炉の中に黒い影が現れた事にも気付かずに。



 ばしゃああん、ガンッッ。


「ぬおっっ。」


 頭から血をかぶり、皿に顔面アタックをされたその人物は、そのまま後ろへ倒れかける。
 突然の第三者の介入に、鬼気迫る表情で見つめ合っていた姉弟は呆然とした。
 茶髪。ボロボロでつぎはぎだらけの黒いズボン。体つきから見て男のようだ。

 顔の上に乗った皿をどかし、血のついた目を服の袖でぐいぐいっ、とぬぐうと、その男は二人を見て束の間驚いた顔をした。そして、すすと血のついた顔にニカッと爽やかな笑顔を浮かべ、片手を上げる。


「ニリ!」

「ニリウス!?」


 思わず、と言うように同時に声を張り上げる二人を、「シーっ」と人差し指で制す。


「何故、こんな所へ?」


 すぐに平静を取り戻したエルレアが、自分のハンカチを取り出してニリウスに歩み寄った。さすがに牛肉の事は諦めたらしい。


「おお、ちょっと油断した間にロザリーが逃げ出しちまってな。」


 エルレアから受け取った白いハンカチで顔や服を拭きながら、ニリウス・ジャグラムは暖炉から出てきた。

(ロザリー…?)


 とても嫌な予感がする。

 エルレアとセレンは身をこわばらせた。


「アルフレッドに聞いたら、こっちの方ににおいが続いてるって言うんだ。」

(アルフレッド…?)


 セレンがギュッとエルレアの袖を握る。


「ほら、こいつがアルフレッド。」


 くるっ、とニリウスは後ろを向き、自分の背中を指差した。

 今度は熊蜂でも連れてきたのか、と思った二人は逃げる体勢をとったが、そこにいたのは意外にも恐れているような生物ではなかった。

 茶色の毛玉。最初はそれにしか見えなかった。


「マングースだな、これは。」


 ネコ目マングース科。つぶらな瞳と長い尻尾が愛らしい動物である。
 しかしニリウスが連れてきたマングースは子供に落書きでもされたのか、太すぎる眉を目の上に描かれていた。眉間に描かれたしわが、養父コーゼスに似ている、とエルレアはこっそり思った。


「ほらアルフレッド、友達を探して来い。」


 眉のせいでやけに気合が入っているように見えるマングースは、ニリウスの背中から降りると部屋の中を駆け回る。


「それで、ロザリーというのは?」


 思い出したように問うエルレアに、ニリウスは至って笑顔で答えた。


「ハブだ。」

「ひいいいいっっ!!」


 蒼白になるセレン。


「それらしい動物は見かけていないが…ん…?」


 アルフレッドの様子がおかしい事に、エルレアは気付く。

 先ほどからテーブルの周りをうろうろしているのだ。


「おー、見つかったか?」


(まさか。)と、エルレアとセレンが『ロザリー』の登場を待っていると。


 シャーッ。


 ピロッ、ピロッ、と二つに割れた舌を出し入れしながら、爬虫類のロザリーは現れた。…テーブルの下から。

 そして、アルフレッドと再会の抱擁を交わす。
 実は、ロザリーがアルフレッドを締め上げているだけだった。


「…も、もしかしてずっとテーブルの下にいたの…?」

「そうらしいな。これからは足元にも気を払うことにしよう…。」

「良かった良かった。」


 と笑っていたニリウスは、エルレアの左手に巻かれたハンカチに気付いてキョトンとする。


「どうしたんだ?嬢さんの左手。」

「ああ、これは食事用のナイフで切った。」

「見かけによらず鈍感なんだな嬢さん。普通はそこまでひどい怪我しねえだろ?」


 白かったはずのハンカチは、既に半分以上赤く染まっている。

 なるほど、さっきの血は…と納得するニリウス。


「こんな結び方じゃ駄目だ。血が止まらねえ。」

 手慣れた様子でハンカチを結び直す。


 シュルシュル…キュッ。

 でかい図体に似合わぬ器用さで結び上げた。


「よし。」


 軽くポン、とエルレアの手の甲を叩くと、またニカッと笑う。


「こういうことは得意なのか?」

「知り合いに、やたらめったら怪我ばっかする奴がいるからな。」


と、苦笑いを浮かべる。


「あ、そーいや嬢さん、次の生誕記念祭に出席するようにって、皇帝陛下直々のご指名があったんだってな。今日クィーゼルが言ってたぞ。良かったじゃん。」

良かった、の単語に、エルレアは目を細めた。

「何が"良い"んだ?ニリウス・ジャグラム。」


 フルネームで呼ばれたことに、ニリウスは目を大きく開く。質問より、エルレアの記憶力に驚いているようだ。

 少しの空白の後。


「あ…ああ、だってさ、皇帝陛下に直接、って事は、もしかすると縁談の話かもしれねえぞ?何て言ったっけなー、ほら、第二皇子さん…ス…スング?」

「スウィング皇子の事?」


 ロザリーとアルフレッドにおびえながら、おそるおそるセレン。


「そうそう!第一皇子さんはもう婚約決定してるから、いまどきの娘さん達は皆狙ってるってさ。その皇子さんと…。」

「ありえない。」


 ニリウスの言葉を、エルレアが強く遮った。


「私の記憶に違いが無ければ、オルヴェル帝国の法律上、皇子の婚姻は皇族もしくは皇族を五親等内に持つ上流貴族とのみ許されている。グリーシュは確かに上流貴族で、お養母(かあ)様(さま)は皇族の娘だが…。」


 堰をきったようにそこまで話したエルレアは、クッ、と言いかけた言葉を止め、俯いた。

 滅多に揺らぐことの無い緑の瞳が、悲しげに揺れる。

 セレンの母であり、コーゼス卿の妻であるハーモニア・ド・グリーシュは、皇族の血を濃く受け継いでいた。今の皇帝の兄の娘。つまり、皇帝の姪にあたる。

 本来ハーモニアは内親王の地位に居るはずだった。皇女として今を過ごしていてもおかしくなかったのだ。しかし彼女の父親であった皇太子は、ある日突然姿を消す。

 皇太子が失踪する直前、皇宮で事件が起こっていた。皇太子の実の息子であり、ハーモニアの兄であった親王フーガの謎の死。この事件の全貌は明らかにされていないが、タイミングから見て皇太子が犯人ではないかという噂が流れた。

 その後、内親王の地位を剥奪されたハーモニアには母親のグリーシュの姓が与えられた。

 血筋から言えばセレンは、オルヴェル帝国の他の有力貴族達に比べてもかなり上の方にいる。


 だが自分は…。


(私は養女だ。)


 セレンは、黙り込んでしまった姉を心配そうに見上げる。


「知りたいんだ。皇帝陛下の真意を。」

 何故、自分を選んだのか。


(何故私でなければならないのか。)


 エルレアの声に、しっかりとした響きが戻っていることにセレンは気づく。

 テーブルの横では、アルフレッドが窒息しかけていた。

 ニリウスはしばらくエルレアを見つめていたが、やがて困ったような笑みを見せた。


「すまねえ。悪いけど、俺はそういう難しいことにあんま詳しくねえんだ。まあ、そんな深く考えなくてもいいんじゃねえか?その内、嫌でも分からなきゃならねえ時が来るだろうさ、大事なことならな。」

「死んでからでは遅い。」


 ずばり。


 平民や貴族ならともかく皇族が関わる場合は、うかつな行動をとると命に関わる。件(くだん)の皇子の婚姻でも、皇族との関係を親密なものにしたい貴族達は、他の家の娘が候補に挙がると、その事実が明るみに出ない内にこぞって闇討ちにしようと画策する。

 皇族に近づくということは、命がけの駆け引きなのである。


(皇帝陛下は私に何の期待をしている…?)


 いや、何が狙いだ?

 自分が平民の娘だと知らないわけではあるまい。他の貴族達は知らなくとも、その情報が皇帝の耳に届かないわけがないのだ。


「姉様…。」


 セレンはエルレアの袖を握ったまま、不安げな声で姉を呼ぶ。

 エルレアの視線を真っ向から受けていたニリウスは、その茶色の瞳をわずかに宙にさまよわせた。


 動揺。


 エルレアは少しの変化も見逃さなかった。


 知っている、と。
 ニリウス・ジャグラムは、おそらく皇帝の思惑に関することを知っている。

 直接つながりはしなくとも、ゆくゆくはその理由へとたどり着く何かを。


「セレン、先に部屋に戻れ。私はニリと話をした後、お養母様の部屋へ向かう。」


 姉の腕にずっとしがみついていたセレンは、何か言いたげに姉を見上げたが、すっと手を離してトボトボと部屋から出て行った。

 セレンの足音が完全に聞こえなくなってから、エルレアは口を開く。


「ニリウス。口止めをされているなら、お養父(とう)様(さま)には決して告げ口をしないと誓う。教えてくれないか、私に関連した事件。どんなものでも構わない。」


 ニリウスは、エルレアの瞳に危険な光が差していることに気付き、目を細める。

 テーブルの横でロザリーに呑み込まれかけているアルフレッドを救出すると、ニリウスはロザリーを首に巻きつけ、アルフレッドを懐(ふところ)の中に入れた。

 そして、エルレアの方を向く。


「嬢さん、俺は嬢さんの知らないことを確かに知ってるが、旦那さんに口止めされてるかなんて関係ねぇ。俺が思うんだ。嬢さんは聞かねえ方がいい。」


 強い意志を秘めた、真っ直ぐな目。

 似ている、とエルレアは苦々しく思った。

 思いたくない。思い出したくはないのに。

 顔かたちではなく、その雰囲気が。


 遠く淡い、うっすらと残る淡雪のような記憶の一葉に、未だ拭い去ることのできないわだかまりがある。

 幾年月を重ねた今も尚。

 あの、有無を言わせぬ強固なまなざしとニリウスの瞳が、重なって見える。

 向き合うことに苦痛を感じたエルレアは、静かにまぶたを閉じ、ため息をついた。

 そのとき。


 パタパタパタ…と急ぐような足音。


「やばーい。」


 それほど焦っていない声でそう言うと、ニリウスは暖炉の中へ入っていく。


「待て。何故わざわざそこから出て行くんだ。中から下ればいいだろう、ニリ。」


 エルレアの言葉に、


「ん〜、クィーゼルと出くわしたら嫌だから、いい。」


 先ほどの緊迫した空気など何のその。ニッカ、と特大の笑顔で答えると、ヨッコラ、と煙突を登り始める。


「…?クィーゼルとは、本邸の召し使いなのか?」


 暖炉からの応答は無かった。


 コンコン、ガチャ。


「お嬢様、夕食の片付けをいたしますので、よろしければご退室くださいませ。」


 黒い髪をひじくらいまでの長さでまっすぐに切った召し使いの少女は、そう笑顔で告げるとエルレアの左手に気がついた。そして、『ん?』とまばたき一つ。


「お嬢様?そのお手はどうなさったんですか?」

「…ナイフで切った。」

「まあ!痛かったでしょう…そのハンカチは、セレン様が結ばれたのですか?」

「いいや。」


 自分で、とは言っていないので、嘘はついていない。


「では、私はそろそろ出て行くことにしよう。」

「はい、おまかせくださいませ。」


 エルレアの背中を見送った召し使いの少女は、ハンカチを結んだのがエルレアではないと確信した。

 エルレアの左手のハンカチは、かなりしっかりと結んである。しかも結び方が常人の技ではない位複雑である。


(あれは左手の塞がった状態で結べる結び方じゃない。まさかコーゼスの旦那さんが結ぶ訳はないだろうし、となると…)


 布の結び方。その少女の人生の中で、あれほど特殊な結び方をするのは一人しか心当たりがない。

 黙々と皿を集めていた少女は、視界の隅に一瞬入ったものをじっと眺めた。



 …マングースの、毛。



 少女はそれを握りしめると、鬼も逃げ出すような恐ろしい顔をして、



「ニリ…!!」

 とつぶやいた。










パタン、と扉を閉め、それに背をもたれさせたエルレアは、ニリウスの真剣な表情を思い出し、二度目のため息をつく。


「あれは、拷問しても吐かないな…。」
 金髪の少女は、かなり本気で考えていたようだ。




☆    ☆





 生誕記念祭を明日に控えた日のこと。

 日が沈み、天空に闇が迫るころ、やけに殺風景な部屋の中に二つの人影があった。
 バルコニーに開く大きな出入り窓に、栗色の髪を肩まで伸ばした男が寄りかかっている。

 向かい合うようにベッドに腰を下ろしているのは、フワフワとした金髪が腰の辺りまである女だった。

 男は、すっ、と窓から優雅に離れると、女の髪を遊ぶようにすくい、息がかかりそうな程近くで真正面から見つめた。


「話に乗った、と解釈していいんですか?」
と、穏やかに男が問う。


 ゆっくりと、女が顔を上げた。


 それが、全ての返答だった。

 男はふいに優しい微笑みを浮かべ、女の金色の髪を手から滑らせると、バルコニーの出入り窓に手をかける。


 サァッ、と透き通った風が、白いカーテンを高く舞わせた。

 強い風をまともに受けた栗色の髪が、わずかに乱れる。


「さあ、逃避行の始まりですよ」


 心の底から楽しんでいるように、彼は告げた。





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