ノスタルジア〜宴の夜〜
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第二章 生誕記念祭 |
生誕記念祭。
年に一度、皇帝の誕生日に催される大規模な祭りの事である。
皇宮であるヴェン・フェルージュ宮殿を中心に広がる皇都・ヴィオラ。
生誕記念祭では、にぎやかなパレードがヴィオラの街をねり歩く。
そのにぎやかさは夜になっても消えることなく、人々は翌日の明け方まで騒いでいるのが普通だった。
しかし、それはあくまで庶民の話。
生誕記念祭の夜、皇宮では大きな宴が開かれる。
貴族達にとって、一年の中で最も重要な宴が、この生誕記念祭の宴であった。
宴の席に全くと言っていいほど顔を出さないなまけものの貴族でも、この宴にだけは出席する。
上流貴族・下流貴族入り乱れての、大規模な晩餐会である。
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☆皇宮に閃く月☆ |
生誕記念祭当日。
皇宮の中心に配置された大広間に一歩、エルレアが足を踏み入れた瞬間だった。
そこに集まっていた貴族達のざわめきは消えて行き、大広間にいる誰もがエルレアをくいいるように見つめた。
好奇の視線で。
敵意を込めた視線で。
或いは、見とれるような視線で。
…リン…リン…
エルレアの腕のブレスレットが、歩くたびに小さく音を立てた。
髪には、銀で作られた不思議な、けれど品の良い形の髪飾り。
どちらも、エルレアがグリーシュの養女になる直前に姉から渡された、実の母の形見だった。
グリーシュ家の養女となってからは、エルレアがそれらを身につけることは滅多に無かった。養父コーゼスから鈴の音を「耳障りだ」と言われたことも理由のひとつだが、エルレア自身、実の母の形見をずっと身につけているのは自分を可愛がってくれている養母ハーモニアに悪いと思ったからでもある。
「どちらのお嬢様かしら?とても可愛らしいかた。」
誰かがそう言う。
エルレアのドレスは、他の貴族の令嬢たちに比べればかなり地味な色のドレスだった。
濃紺のベルベットの下からのぞくのは、白く繊細なレース。
そして、ところどころにつけられたリボンとフリル。
しかしどれも無駄がなく、それでいて可愛らしいデザインと配色のドレスである。赤や黄色、薄紅色などの明るい派手なドレスに身を包んだ娘たちからはあまり感じられない知性や落ち着いた雰囲気も、上手く引き出している。ハーモニアがエルレアのために作らせたドレスであった。
更にエルレアの色素の薄い金の髪が、ドレスに引き立てられて輝いている。地味な色でも、このドレスはまさしくエルレアを最大限に美しく見せていたのだ。
エルレアは周りの視線を気にも留めずに、貴族達の中を颯爽と進む。
指名された者は、貴族達の前で皇帝に挨拶をするのが礼儀である。
皇宮に先に来ていたセレンは、じっと姉の行動を見守っていた。
養父のコーゼスはというと、この日に限って高熱を出してしまい、同席することができなかった。
エルレアの姿を見たセレンは、エルレアの容姿が他の娘たちに比べ、際立って美しいことに今更ながら気付く。
流れるような長い金の髪も、濃すぎるくらいの緑の瞳も、凛とした身のこなしも、思わず他の娘たちが敵視してしまうほどに。
実はセレンはセレンで、娘達の間では別の意味で注目の的になっていたのだが、本人は気付けずにいる。
リィ…ン…
澄んだ音と共に、エルレアが上座の皇帝の前に出た。
皇族の席は、一般の貴族達の席が一階なのに対して二階の高さに位置しているので、エルレアは皇帝を見上げるような形になる。
すばやく皇族をカウントするエルレア。
(皇子達がいない。)
皇帝と皇后だけが、皇族用の椅子に座っていた。
二人の皇子達はどこへ行ったのだろう?
エルレアの前に居るのは、濃い金の髪を持つ、堂々として存在感のある皇帝。
そしてその皇帝の隣に、銀の髪と銀の瞳を持つ、人形のように愛らしい皇后。二人の皇子達の実の母親だが、その見た目が少女時代から全くと言っていいほど変わらないため、ひそかに化け物ではないかと恐れられている。
エルレアはドレスの裾(すそ)を両手でつかみ、深々と礼をした。
金色の髪が、エルレアの動作に従ってサラサラとドレスの裾に零れ落ちる。
誰が見ても立派な『お辞儀』である。
だが、ただそれだけの動作で、エルレアを見慣れているセレンでさえ息を呑んだ。
サァ、という衣擦れの音と共にエルレアは顔を上げ、
「エルレア・ド・グリーシュ、ここに参上いたしました。皇帝陛下直々のご指名、まことに光栄に存じ上げます。」
と、にこりとも笑わずに告げた。
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☆ |
「───ッ!!」
ガン、バタン、ドォッ。
何度か体当たりをしてドアを倒したその男は、ドアと共に倒れた。
すぐさまバッ、と顔を上げ、自分の主を探す。
―――居ない。
ドアの上で、男は口をO(オー)の字に開けた。
[開いた口が塞がらない]とは、このこと。
無造作に開かれたバルコニーへの出入り窓のカーテンが、優しげに揺れている。
鍵のかかった部屋。自分は随分前からこの部屋の前にいた。
生誕記念祭の宴に出席する予定の主に同行するため、この部屋を訪ねてから。
主が行事の際に自分の部屋に閉じこもることは日常茶飯事だった。
だから、どうせまたギリギリになって、「寝てました」とか言いながら出てくるのだろうと推測していたのだ。
しかし、これはいつものお茶目なイタズラでは無いと、不幸にも彼は悟ってしまった。
彼の愛すべきご主人様は、確かにいい加減でちゃらんぽらんな所もあったが、自分の最低限の仕事はきっちりこなしていた。
生誕記念祭の宴は、始めから出席しなくてもいいが、貴族達がそろうこの時間帯には絶対に顔を出さなければいけない。
普段の主なら、決してサボったりはしないはずだ。
一体、どこに――。
男の顔に、風に飛ばされた紙がばさりとはり付いた。
男は顔からそれをはがし、紙をしばらく見つめる。そして、サーッ、と青ざめた。
紙面には、整った文字でこうあった。
「旅に出ます。探さないでください。」
まるで家出少年の書き置きだった。
「なにー!!?」
絶叫に驚いて、同僚達が駆けつける。
「どうした!?」
「逃げた…シンフォニー殿下…。」
「は!?逃げたって…。」
無言でバルコニーと書き置きを交互に指し示す男。
駆けつけた者たちは皆、茫然と立ち尽くした。
やがて、誰かが呟く。
「兵を出せ…。」
その声に、他の者達も次々と我に返った。
「兵を出せ!皇太子殿下を探すのだ!」
「陛下にご報告を!」
「しかし、もしも殿下が戻らなければ、次の皇帝陛下は…。」
「決まっている。」
スウ、と、皇太子付きの騎士の男は息を吸った。
「スウィング皇子殿下だ。」
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☆ ☆ |
皇帝に『眼をつけた』エルレアは、貴族達の目から逃れるように、大広間の横に位置する広い庭園の奥に隠れた。
庭園にある噴水のそばに、エルレアは腰を下ろす。
満天の星空を映す水をすくいあげては、指の隙間から宝石のように零れ落ちていく透明な雫を見つめるエルレア。
エルレアに興味をなくして、他の人間の噂話をしている貴族達。彼らの話は好きではないし、好きになろうとも思わない。好き勝手に他人の事をべらべらと話す人間が、エルレアは嫌いだった。
(お養母様…。)
エルレアは、ハーモニアが自分に告げた言葉を思い出した。
『グリーシュの姓を名乗る限り、貴方はグリーシュの人間よ。あの人…コーゼスのせいで、貴方は少し私達に引け目を感じているかもしれないけれど…いい?エルレア。自分がグリーシュに貰われて来た人間だなんて思わないで。貴方は立派なグリーシュ家の娘。他の家のお嬢様がたと並んでも見劣りしないわ。宴では決して、自分が養女だなんて言ってはだめよ。』
養母が心配しなくとも、自分は貴族達と言葉を交わす気はなかった。
今はただ、一刻も早くグリーシュ邸に戻ることだけが望みだ。
ふぅ、と、ため息を空に飛ばしたその時。
バッ、と人の気配を感じてエルレアは振り返った。
「エルレア・ド・グリーシュ?」
声をかけてきた相手の顔には驚きの感情がうかがわれた。が、それも一瞬で、すぐに疑う様な顔になる。
「君が?」
失礼極まりないその人物は、蜜のような濃い金の髪と深い青の瞳を持つ少年だった。髪と瞳の色が近いせいか、少し弟のセレンに似通って見える。セレンは薄い色の金の髪と水色の瞳を持っていた。
きちんと整えられた身なりから見て、この少年もどこかの上流貴族の家の子息だろう。
エルレアはつまらなそうに受けあう。
「人に名前を尋ねる時は、普通自分の名前を先に名乗らないか?」
「僕の名前?…聞いても多分、何の得もしないと思うよ?」
「ああ、そうか。ではこちらも、礼儀を知らない者と話す筋合いはない。」
エルレアは、できるだけ他の貴族との関わりを持ちたくなかったため、あくまで冷たく答えた。
少年は思案するような表情を浮かべる。
少年は驚くほど整った顔立ちをしていた。エルレアがこの宴で見かけたどの男性より、端正で高貴な雰囲気が漂っている。
しかしエルレアには、たとえ金髪碧眼の美少年の顔だろうがニリウスの飼っている(と思われる)マングースのアルフレッドの顔だろうが、同じただの顔にしか見えない。エルレアにとっては顔の美醜など、何の意味もない要素の一つだった。
「分かった、言うよ。僕はスウィング。スウィング・セレナーデ・ノクターン・ド・リズム・ソルフェージュ。」
スウィングと聞いたとき、エルレアはピク、と美しい眉を震わせた。
スウィング。第二皇子の名前が確かそんな名前であった。そして、疑いようも無いソルフェージュという家名。それはオルヴェル帝国の皇族達が持つ家名である。
この位置が貴族達から見えずに良かった、とエルレアは内心ホッとする。大広間からは遠く、よほど意識してこちらに近寄らなければ自分達の様子は見えないはずである。皇子と二人きりでいる所を誰かに見られでもしたら、ややこしいことになりかねない。
エルレアは横に置いていた扇を取って立ち上がり、少年にばれない程度に身構えた。
「確かに、私はエルレア・ド・グリーシュだ。」
話し方を変えないエルレアを、少年は咎(とが)めなかった。ただ意外そうな顔をして呟く。
「僕の素性を知っても態度を変えない人間は初めてだよ、変わってるね。その勇気はほめるよ。けど…ごめんね。」
「?」
エルレアは、少年の最後の言葉に眉をひそめる。
少年はふと、風が吹く方向に瞳を閉じ、そしてすぐにエルレアを見据えた―――何かを決意するように。
澄んだ青い瞳に、鋭い月の光が宿った。
低い声で。
「試させてもらう。」
言うが速いか腰の剣を抜くと、少年はエルレアに斬りかかる。
バアン!!
エルレアは右手に構えていた扇で、かろうじて初太刀を叩き落した。
リィィィンッ…
ブレスレットの鈴が高く鳴り響く。
(速い。)
自分と皇子の間には、五メートル以上の距離はあった。
それなのに、まばたきをする瞬間に彼は十分な間合いをつめていた。並の速さではない。
そのまま斜めに斬り上げられた剣を、エルレアは何とかよけた。
長い金髪がわずかに遅れ、剣圧で切られた数本が空に散る。
「何のつもりだ!」
叫んだエルレアの声は噴水の音にかき消され、大広間にいる人間達には聞こえない。
(逃げられない…大広間まで逃げるには、相手が速すぎる。)
左上からの払いを受けとめた扇の布が破れ、舞う。
払いの勢いを殺すその一瞬で、エルレアは代わりの道具を目の端に捕らえた。
「!!」
力いっぱい扇を投げつけられ、少年は体勢を崩す。
エルレアは、側の植え込みに挿してあった数本の鉄の棒の内一本を引き抜く。
両手で構えた鉄の棒に、間髪いれずに横なぎの斬撃が来る。
直に伝わる激しい衝撃で、手がしびれてきていることにエルレアは気付いた。
金属のぶつかる音が響く度、エルレアは後退していく。いや、正確に言えば、スウィングの剣の重さの全てを相殺することができずに少しずつ飛ばされているのだ。
トン、と背に抵抗を感じた。
(―――壁)
刹那、剣の閃きが弧を描く。
ガアンッッ!!
無意識の内に少女が作った隙を、少年は見逃さなかった。
鉄の棒が空高く飛ばされ、遠くの方に落ちて音を立てる。
エルレアは相手の心の中を見ようとするかのように、濃い緑の瞳で少年を見上げた。
「…何故、動じない?」
静かな声でスウィングが問いかける。
スウィングの剣先は、エルレアののど元にあった。
エルレアが少しでも動けば、剣はエルレアののどに突き刺さるだろう。
「動じたところで状況は変わらない。そう判断したからだ。」
氷のように冷たい声でエルレアが答える。
スウィングは少しの間エルレアの感情の読めない瞳を見つめ返していたが、つい、と瞳を逸らすと、
「やっぱり、君は違う。」
と、剣をエルレアから引きながら呟いた。
(違う…?)
どこか寂しげなその言葉に、エルレアは小首を傾げる。
しばらくすると、スウィングはエルレアに興味をなくしたかのように踵(きびす)を返し、大広間の方へと歩き出した。
リィィ…ン…。
エルレアの腕の鈴が小さく鳴る。
宮殿に向かう足を一時止め、振り返らずにスウィングは告げた。
「非礼を詫びるよ。…最後に一つ、答えてほしい。」
エルレアにはその時、噴水の音がゆっくりと遠くなっていくように思えた。
スウィングは迷うように一旦口をつぐんだ後、続きを言った。
「君は…エルレア・ド・グリーシュを知っているか…――?」
"知っているか?"
少女の長い髪を風がさらい、また元に戻した。
エメラルドの瞳が、ゆっくりと大きく見開かれる。
「いや…ごめん、変な質問だった。」
どうか忘れて、と言い残し、少年は足早に大広間へと向かった。
庭園には、再び少女だけが残された。
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☆ ☆ ☆ |
「シンフォニー様が?」
窓から夜景を眺めていた少女が振り向く。
炎のように赤い髪が耳元で揺れた。
光の加減で、灰色の瞳が銀色に見える。
遠目から見ても美しいと分かる、整いすぎた顔立ち。もう二、三年もすれば、恐ろしいほどの美貌の持ち主になるだろう、と思わせるような少女だった。
皇太子失踪の知らせを伝えに来た衛兵は、恐縮した固い声で告げた。
「宴が始まりましても御自分のお部屋に鍵をかけて出られなかったので、今しがた扉を壊しましたところ…中には誰もおらず、ただ書き置きと、机の上に何枚かの置き手紙があるだけだったと…。」
衛兵が差し出した一枚の白い封筒を、赤い髪の少女が受け取る。
封筒の表には、宛名が記されていた。
"シャルローナ・メイヴィル・ド・ロンド・ソルフェージュ様"
ソルフェージュ、という皇族を表す家名。
ということは、その手紙を受け取った少女は皇族の娘という事になる。
少女は無言で封筒の裏を見た。
ソルフェージュ家の刻印で封をされ、その右下に差し出し人の名前が記されていた。
"シンフォニー・フィル・ストリングス・ド・リズム・ソルフェージュ"
紛れもなく皇太子の筆跡であった。
「…それで?他の手紙には何と書かれてありました?」
「…恐れながら…シャルローナ様との婚約は白紙に戻す、と…。」
灰色の瞳は、封筒の差出人の名前を睨んだままだった。
細い手が震えている。
「皇帝陛下は生誕記念祭が終わり次第、緊急皇族会議を行われるお考えにございます。シャルローナ様もご出席頂きたいと。」
「分かりました。…下がりなさい。」
押し殺した声で少女は命令する。黙礼をして衛兵が部屋から出て行くと。
バン!!
と、皇太子の手紙は机に叩きつけられた。
「白紙に戻す…ですって…!?」
唇を噛んで、拳をにぎりしめる。
「冗談じゃないわ。」
窓に映った灰色の瞳が、刃のように冷たく光った。
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☆ ☆ ☆ ☆ |
「…エルレア・ド・グリーシュ…」
聞きなれた名を、少女は繰り返した。
エルレア・ド・グリーシュ。
(それは私の名前。)
グリーシュの門をくぐった時、養母(ハーモニア)が自分に与えたもの。
この世に二つとあるはずがないもの。
ではスウィング皇子の言う"エルレア・ド・グリーシュ"とは。
(…私…?)
少女は小さくかぶりを振った。
自分に皇子と会った記憶はない。
(そもそも私は、一度も本邸から出ていない。)
自分が"エルレア・ド・グリーシュ"として生き始めてからはずっと。
本邸の門や外壁に近寄ることさえ許されなかった。
閉鎖された空間で、まるで誰からも何からも隠すように。
皇子に、恨まれたり探されたりする覚えはない。接点すらない相手から、どうすれば恨みを買えるのか。
それに、皇帝の言葉も何か引っかかる。
少女は、皇帝に挨拶をした際のことを思いだした。
「エルレア・ド・グリーシュ、ここに参上いたしました。皇帝陛下直々のご指名、まことに光栄に存じ上げます。」
見上げた皇帝の顔には、かすかな驚きがあった。
「お前がグリーシュのエルレアか。」
なるほど、と独り言のようにつぶやき、皇帝は微笑んで告げた。
「ハーモニアに良く似ているな。」
嫌みだろうか、とエルレアは思った。
自分と養母(はは)には何の血の繋がりもない。
「お前を呼んだのは他でもない。わが国の状況について若者の意見を聞きたいと考えたからだ。私の問う幾つかの質問に、正直に答えてもらいたい。」
(理由不十分。それならわざわざ私を指名する必要など無いはず。指名しても貴族達の間に波風を立てないどこかの子息でも選べばいいだろう、その場合。それとも平民である私を―――)
さらし物にするために?
「エルレア・ド・グリーシュ。お前はこのオルヴェルと敵国セインティアの関係を、どう思う。」
オルヴェル帝国とセインティア帝国。セインティア帝国は、この世界ゼルファーレに存在するもう一つの帝国である。
古代帝国リグネイが栄えていた頃、ゼルファーレには三つの大陸が存在した。その三つの大陸はそれぞれ三つの帝国によって支配されていたという。
グリーシュ家が治める、巨大なリグネイ帝国。
カーディナル家が治める、豊かな土地のセインティア帝国。
そしてソルフェージュ家が治める、強力な軍事力を誇るオルヴェル帝国。
リグネイ帝国が滅んだ後、海面上昇による帝国沈没を案じていたオルヴェル帝国は旧リグネイ大陸に移り住み、新たにそこをオルヴェル帝国とし、大陸名もオルヴェル大陸と改めた。
リグネイ帝国が滅んだことにより、友好関係にあったオルヴェルとセインティアはたちまち敵対関係となった。
それから約三千年。十数回、国交を回復しようという試みが両国によってなされたものの、未だ膠着状態である
「オルヴェルとセインティアが対立し始めて久しくなります。三千年もの間に、両国の文化は大きく変化しました。このオルヴェル帝国が科学技術を発達させたこととは対照的に、セインティア帝国は未知なるもの、<神術(しんじゅつ)>とよばれる魔術の類を発展させたと聞きます。
もしも今後大戦が起きれば、両国の被害は甚大なものとなるでしょう。両国の文化を今まで以上に発展・成長させるには、オルヴェルとセインティアの和解が必要であると私は考えます。科学技術と魔術は、もともと目的を同じくする文化。両国が目指すものは、そうかけ離れたものではないはずです。よくセインティアと話し合い、少しずつ交流を深めていくのが良いと思われます。」
スラスラと、本でも読むようにエルレアは答えた。
ふむ、と皇帝は感心した様に頷く。
「しかしわが国が和解を持ちかけても、セインティアがそう簡単に受け入れるとは思えんが…?」
「ええ、恐らくそうでしょうね。我々が先人達から与えられたものは余りに大きすぎる。広大な土地、発達した文化、夥しい知識…そして歴史。先人達は急ぎすぎたのです。数百、数千年の間にできた、オルヴェルとセインティアの間の溝を埋める時間を十分に取ることを考えず、国交の回復にばかり気を取られて失敗したのです。皇帝陛下。このままセインティアと対立し続けることは簡単です。先人達にならえばいい。しかし両国間の溝は深まるばかり。もしセインティアとの国交の回復を望まれるのならば、早急な働きかけをなさいませ。しかし慎重に、焦らず機が熟すのを待ちながら話し合いを続けることです。」
貴族達がざわめいた。
皇帝への反逆だ、と嘆く者、小娘の浅はかな考えだと笑う者。
「エルレア・ド・グリーシュ。」
皇帝の声が響き渡ると、大広間はシンと静まり返った。
エルレア以外の者が皆、緊張していた。
「良い意見を聞く事ができた。礼を言うぞ。」
エルレアは最初と同じように一礼をして、貴族達の中を歩いていった。
ここまで回想して、金髪の少女は何かに気付いた。
"試させてもらう"
先ほどの第二皇子の言葉。
(まさか)
皇帝には、特に自分をからかう雰囲気も無かった。
単にさらしものにしたかっただけなら、もっと自分の意見をけなすなり何なりできたはずだ。
(私は皇帝にも試された…?)
だとしたら、考えられる理由は恐らく一つ。
だがそれは、有り得ないと考えていたこと。
(第二皇子の…婚約…?)
そう考えれば、わざわざ他の貴族達に注目させるように皇帝が自分を指名した訳も説明がつく。
が…どう考えてもおかしかった。
何もかもが。
何故なら自分はグリーシュの血を継いでいない。
(養女でも、グリーシュ家の者として籍に登録されていれば第二皇子の婚約者候補として認めるということか…?)
有り得るのだろうか、そんなことが。
前例が無い為、判断がつかない。
だがもしも万が一、そうだとしたら。
(第二皇子は、自分と刃を交えるような妃がほしいのか?)
皇帝も皇子も、言動が謎過ぎる。
悶々と考え続ける少女の耳に、流麗なヴァイオリンの音色が届く。皇帝の謝辞の時間を告げる音楽である。
少女は長い髪を揺らして夜空を見上げた。
闇は、静かに広がっていた。
無数の星達が、柔らかくそれに溶け込んでいる。
数日後に訪れる嵐を、少女はまだ知らない。
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