The snow of the nostalgia



―想―



 空から舞い落ちてくる白い羽のようなそれは、まるで天使が人間にくれたプレゼントのよう。

 静かに、柔らかく、この世に降る。

 それが降るとき人は、いても立ってもいられなくなる。

 彩は、それが降った時に笑顔を浮かべてはしゃぐ人が多いのを知っている。

 その沢山の笑顔の中でただ一人、泣きそうな顔をする少女を知っている。







「おっそいなー、紫の奴。」


 雪を見ながらぼやいた薫は、真剣な表情で窓の外を見つめる彩を不思議そうな顔で見つめた。


「どーした?」

「嵐士君が死んだ日も雪が降っていたわ。だから紫は、雪が苦手なの。……私、紫の教室見てくる。」


 その彩の焦ったような様子にただならぬものを感じた薫は、真顔になって頭の後ろで組んでいた腕を机の上に置いた。




 その時。




「ごっめーん!ちょっとHR長引いちゃってさぁ。でも、お墓参りの用意はちゃんとしてきたよ。」


 慌てた様子で教室に入ってきた紫を見て、一瞬はりつめた糸が緩んだように薫は息をついた。


「ったく心配させんなよ! 何かあったかと思ったじゃんかー。」

「あはは、ごめんね。」

「……。」


 ただ一人、彩は口を開かなかった。


 それどころか紫を、鋭い瞳でじっと見すえている。


「……どういうつもり?」


 冷たい声。


「彩? なんか、お前らしくないぞ。」


 彩が紫を睨む所なんて見たことがない。


「ううん、薫、私が悪いの。遅れてごめんね? 彩。彩を怒らせちゃうなんて……ダメな子だな、私。」


「私が聞いているのは、紫じゃない貴方が何故、紫の真似をしているのかという事よ。」


「……は?」


 ごめん、お姉さん頭が悪くてついていけなかった。


 変な顔で固まっている薫など気にも留めず、彩は続けた。





「……紫はどこ? 嵐士君。」




 薫は、頭を何かで殴られたようなショックを受けた。


「あ、嵐士? 嵐士って、あの!? え、え!?」

「ふ…っ、やっぱりバレた? さすが彩さん。俺としては、もう少し『紫』として薫さんの相手をしていたかったけど、許してくれないみたいだ。」


 紫らしからぬ飄々とした態度で、その人物は笑った。


「紫の身体を乗っ取ったのね。紫の意識はどこなの?」

「さぁー?」

「さ、『さぁ』って、なぁ彩、こいつ本当に嵐士か? あの紫が王子様みたいに語って惚気てた嵐士か……?」


 にしては妖しい。有毒植物のような毒々しい印象を受ける。


「悪霊になりかけているのかもしれない。嵐士君、自分が今何をしているか分かっているの?」

「分かってるに決まってんじゃん。馬鹿にしてるの? 俺は紫の身体を使って生きようとしてる。でもそれの何が悪いの? 紫なんて、勉強もできないし運動音痴。それだけでもどうしようもない奴だっていうのに、いったい今まで何度自殺しようとした? 俺が紫から離れようとする度、嫌がらせみたいに何度も何度も……。」



 薫は、わいてきた怒りをこらえるように拳を握り息を吸い込んだ。



「『どうしようもない奴』だって……?」


 声が震える。


「ああ。」


 嵐士は、事も無げに返す。


「お前がそんな事言うのかよっ! 紫はいつだってお前の事を一番に考えてたんだぞ!」


「一番……ねぇ。 それ、俺が迷惑だと感じてたら意味ないんじゃないの?」

「……んだと……。」


「紫は、生きてるって事の有り難さも理解しようとしないんだ。そんな人間、生きてたって無駄だろ。俺が生きた方がずっと世界のためになる。」

「お前は、紫に生きる価値がないっていうのか?」

「俺よりはね」

「嵐士君。上への階段が消えないうちに、紫に身体を返して逝きなさい。今ならまだ間に合うはずよ。」



 普段静かな彩の声音も、今は刺々しさすら感じる厳しい声になっている。


「嫌だ。せっかく身体を手に入れたんだし? ほら、紫だってよく言ってただろ? 『私なんかより嵐士君が生き残ればよかったのに』って。これで紫の願いも叶うわけだ、めでたしめでたし。ね?」


 浮かべられた笑顔は、紫がいつも浮かべる無邪気なそれとは明らかに異なっていた。


 残酷な、嘲るような笑み。





「そう……残念だわ。」

 怒りを抑えた声でそう言った彩は、何かの印を結んだ。


「祓うの? 俺を。」

「悪霊祓いで祓われた魂が行き着くのは地獄だと、知らないわけじゃないでしょう?」



 地獄。


 そんなものが在るのか、実際。


 目の前で繰り広げられる会話は、薫の理解できる範疇を超えていた。

 けれど、何らかの力が二人の間でぶつかりあっているような、そんな息苦しい圧力を感じて、薫はじりじりと後ずさった。


「面白いね。比べてみようよ。あんたの力と俺の意思の力。どちらが強いのかをさ!!」


 歪んだ笑みを浮かべた紫の姿の嵐士を中心に、強い風が巻き起こった。


「……さよなら。嵐士君。」



 彩の指がすばやく印を切ると同時に、嵐士の起こした風を打ち消すもう一つの風のうねりが生まれた。




 強烈な力が迷い無く自分へ向かって来るのを感じながら、少年は浮かべていた笑みを消し、瞳を閉じて呟いた。




「……紫。」












「あたしさ。20世紀の世界史って世界史の中でも大ボスだと思うんだ。」

「何よ突然。」


 薫が珍しく彩に真剣な顔で話し出した内容は、こんなものだった。


「いや、日本史は知らないけど世界史はさ、誰だって最初はちょろいかもって思う訳よ。四大文明なんて雑魚キャラでさ。けどさ。そのうち色んな場所で色んな時代に色んな事が起きる訳よ。」

「当たり前じゃない。」

「まだ紀元前はいい。紀元後になってみろ、どこに何の国があるとか収拾がつかなくなるんだ。」

「それは貴方がきちんと整理できてないだけでしょう。」

「けどそれは序の口で、中世のヨーロッパでいきなりレベルが上がるんだよ。特にハプスなんとかっていうのは、雑魚キャラの中でも厄介な雑魚なんだ。」

「ハプスブルク家ね。」

「国一つの歴史だけでも苦労するのに、ヨーロッパは×10くらいの複合技だぞ? しかも苦労して倒しても苦労しただけ広い領域の歴史を制覇できたかと言えば国がちっちゃいだけだからそーでもないし。何か損した気分になるんだよな。絶対ボスの配置ミスじゃないかとあたしは思うんだけどさ。で、かろうじてそのボスをクリアして、身も心もボロボロになっている所にだ。20世紀の現代史が来るんだよ。信じられるか、このドSっぷり!」

「心配しなくても貴方はドMだからドSとの相性はいいわ」

「彩。お前適当に答えてるだろ。」



 ガラガラ!


 教室の扉が勢いよく開けられ、息をはずませた少女の元気な声が教室にこだました。


「彩! 薫! 外見て!!」

「外?……お。」


 二人が驚いて窓の外を見ると、ハラハラと白い綿のようなものが舞い落ちてきていた。




「雪だよ雪! 綺麗だねぇっ。」


「……紫。お前、平気なの?」


 薫がおそるおそるといった感じで尋ねると。




「へ? 何が?」

 きょとんとする少女。



「だってお前……」



 ごつっ。


 世界史の分厚い資料集が薫の頭に直撃し、鈍い音がした。



「……ってぇなぁ彩!」

「ごめんなさい、手がすべったの。」

「角! お前わざとやっただろ!」


 ギロ、と彩を睨んだ薫だったが、彩がいつかのような鋭い光を宿した瞳で自分を見つめているのに気づいて、ひっ、と逆に小さな悲鳴をあげてしまった。


「で、薫、何か聞こうとした?」

「……え? あ……だ、だってさ、お前バス通学じゃん? 雪降るとバスが止まったりしたりなんか……」

「あー、そうだね。何かだんだん酷くなってきたし。今日は早めに帰ろっかな。」

「そうね。今のうちに帰ったほうがいいかもしれないわ。勉強は明日でもできるし。」



 彩はそう言って、紫に微笑んだ。


「うし、じゃ帰るか、あたし達も。な!」

「貴方はダメです。残り16ページと5行。」

「このスパルタ教師……。」

「ん。じゃ、三条紫、お先に失礼させていただきます! 薫、がんばってね!」

「おーう…。」


 駆けていく少女の足音が聞こえなくなった後、彩は口を開いた。



「よくできました。」

「どーゆーこと? 紫、雪が苦手なんじゃ…。」

「紫は嵐士君の事、覚えていないわ。嵐士君との思い出だけ、記憶が抜け落ちてるの。」


 嵐士を祓った後、紫は昏睡状態に陥った。

 翌日、意識を取り戻した時には、紫は自分の恋人である嵐士の事を忘れていた。


「嵐士君の仕業だわ。きっと。」

「嵐士の?」

「そう。私に祓われる時、彼は紫の中にある自分との記憶を残らず持っていったんだと思う。だから、紫は雪を見ても平気だし、嵐士君がこの学校に居た事すら知らない……。」


「そんな事……ただの幽霊にできるの?」

「不可能じゃないわ。誰かの助けを借りれば。」

「誰か?」



 彩は、一瞬の空白の後に言葉をつむいだ。



「私よ。……最後まで、騙されっぱなしだったわ。彼はわざと祓われたの。」

「わざと? どーして!?」

「嵐士君がしようとした事は、両手に物を持った状態で扉を開けようとするのと同じ事。私は上手く、扉を開けさせられたのよ。全部、嘘だったのね……紫の姿で言った事は。」

「……あたし達を挑発するために? で、わざわざ地獄を選んだ? ……訳が分からない。」



 そう。
 訳が分からなかった。

 もともと、掴めない人ではあったけど。


「薫には、まだちょっと早かったかしら。時に人の理性を狂わせるものが、この世にはあるのよ。」

「どーせあたしはお子様ですよー。」

「……薫。」

「ん?」

「これでよかったと思う?」


 彩は、声のトーンを落として尋ねた。


「んー……正直あたしは、もやっとしたのが残ってる。嵐士はさ、紫に甘すぎるんだよ。」

「そうね。社会科と紫への甘さが彼の数少ない欠点だったわ。」

「社会苦手だったんだな、あいつ……。」
天才肌と言われた生徒の意外な弱点だった。



「本当は、紫は現実を受け入れなきゃいけなかった。それはきっと、紫の課題だった。」

 避けて通ってはいけないものだった。




「でも、これでよかったかもしれない、とも思うのよ。紫が、嵐士君との思い出を受け止められるくらい成長したら、その時、思い出してほしい……」

 自分を愛してくれた人が居たことを。



 彼との記憶は、きっと優しい思い出として彼女の中に溶け込んでいくだろう。




 甘く柔らかく降る、綿雪のように。




「さ、気持ちを入れ替えて試験対策よ。」
「10ページに負けてくれない?」
「却下です。」
「ケチ……。」






 窓から差し込む光がキラキラと踊っている。

 白い部屋に、オルゴールの音色が流れていた。その音を奏でているのは、金色の装飾が施された茶色の箱。

 『彼』が『彼女』に贈った、最後のプレゼント。




「……最近ね。ずぅっと昔、私を守ってくれた大切な人のこと思い出したんだ。何で今まで忘れてたのか、不思議なんだけど。薄情だよね、私。でも、これしかないって思って決めたの、この子の名前。……おかえりなさい、嵐士君。」



<<完>>


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