「花澄様。ミルクティーのご用意をして参りましたわ。この世界って、私達の世界によく似ていますわよね。建物のデザインもヨーロッパの建物のようですし、食べ物や飲み物も意外に口に合うものが多くて、わたくしびっくりしてますの。花澄様? よろしければ庭に散歩にいきませんか? お天気もいいですし、綺麗な花が沢山咲いていて、きっと花澄様のお気持ちも軽くなると思います!」
きらきらとした飾りが施された豪華な扉の前で、蓮珠(れんじゅ)は必死に言葉をつなぎ続けていた。
「あかずの間ですわ……。どうすればいいのでしょう。」
一昨日の晩、花澄は帰ってくるなり部屋に鍵をかけて閉じこもってしまった。
あれから丸一日以上、花澄は何も口にしていない。
《烙》が迎えに行った《太陽の騎士》は、麗泉学園高等部剣道部主将、長谷川一華だった。
彼女は彼女で怪我と衰弱が酷く、いまだ城の一室で静養状態である。
あの晩、何かあったに違いないのだ。
「《椿の騎士》の癖に、天の岩戸の一つも明けられないのか?」
「玲(れい)!」
一華の見舞いに行っていた玲が、あきれたような顔で近づいてくる。
「原因が分からないんじゃ、手の打ちようがありませんわ。」
「長谷川が言っていたんだが…はっきりとは覚えていないが、水無瀬の声が聞こえた、と。」
「水無瀬さん? 水無瀬さんがこっちに来ているかもしれないという事ですの?」
「ああ。しかも最悪の形で。」
いぶかしむ表情を浮かべる蓮珠に、玲は続けた。
「長谷川が言うには、青い髪をした少女が、どうも水無瀬に見えたらしい。この世界に来ると同時に、髪と目が紅く染まった雪村と、何か似た感じがしないか?」
「青‥…水無瀬さんは、まさか……《蒼き乙女》ですの……?」
「そう考えると、雪村が塞ぎこむのも合点がいく。」
「そんなの……酷ですわ……あまりに。」
玲は蓮珠の言葉に、眉をわずかに上げた。
「意外だな。蓮珠の事だから小躍りして喜ぶんじゃないかと思ったんだが。水無瀬が居ないことはこの上ないチャンスじゃないのか?」
「な! わたくしはそんな泥棒猫のような真似はいたしませんわ! 水無瀬さんとは正々堂々勝負をします。それに、花澄様が大切にしているものくらい分かりますわ。ずっと花澄様を見てきましたもの。水無瀬さんは好きではありませんけれど……それでも、花澄様の戸惑いや悲しみがどれ程のものか、想像くらいできますわ。」
蓮珠は扉に手を当て、心痛な面持ちでつぶやいた。
「我が姫。」
「!」
扉の向こうから聞こえてきた声に、蓮珠はびくりと反応した。
「我が姫。いつまでそうしているつもりだ。」
「《烙》! 《烙》ですわね! ずるいですわ! 自分だけ中に入るなんて!」
蓮珠は手に持っていたトレイを玲に無理矢理押し付け、扉のドアノブを握り締めると、渾身の力を込めた。
花澄は、ふいに冷たい指先で顎を捕らえられた。
そしてそのまま、視線を合わせるように上を向かされる。
「我が姫。」
凝縮された漆黒の闇のような双眸が、花澄を冷ややかに見つめていた。
「何を考えている。」
「……決めたわ。」
見返す瞳は強く、揺るがない。
「私は、戦わない。梨優と戦える訳が無い。」
「己の立場がまだ分かっておらぬようだな。」
「たとえここがどこであろうと、自分の身の振り方くらい自分で決めるわ。貴方やこの国の思い通りにはならない!」
次の瞬間、《烙》の黒い瞳が赤い光を帯びた。
「!!」
椅子に座っていた花澄の身体が、勢いよくベッドへ吹っ飛ぶ。
光沢のある緋色のドレスの裾が、ベッドの上に広がった。
起き上がろうとした花澄の肩を押さえつけ、《烙》は冷めた瞳で花澄を見下ろして言った。
「お前がいかに無力か、思い知らせてやろう。」
(脅しのつもり?)
しかし次の瞬間、《烙》はもがく花澄に強引に口付けた。
「嫌!!」
花澄は渾身の力で《烙》に抵抗するが、自身の両手首を握った《烙》の手はびくとも動かない。
「戦わなければ、こうなるぞ。狂気にかられた人間の恐ろしさを知らぬのだろう、我が姫。」
「!」
つ、と《烙》の唇が花澄の耳朶から胸元の辺りまで、撫でるように移動した。
ゾッとする感覚。心臓が痛いほど激しく鼓動する。
たすけて
誰か
(優都……!)
ばきィ!ばりばり!!
「花澄様ぁああっ!!」
ほぼ絶叫のような猛り声と雷が轟くような音と共に乱入してきたのは、小柄で人形のように白い肌を持つ美少女。
「れ……」
「《烙》! 花澄様になんてことを!! 花澄様に代わって私が成敗してくれますわ!」
玲の制止の声など聞かずに、蓮珠はトレイから取ったものを《烙》に投げつけた。
《烙》は迫り来るその物体を右手で生み出した風の刃で二つに斬った。
が。
パシャァン。
「安心なさい、ただのミルクですわ。お湯でなかっただけ感謝なさいな。」
足元に綺麗に二つに割れている陶器の様を一瞥して、《烙》は顔についたミルクを拭った。
蓮珠は花澄にかけよると、花澄を守るようにぎゅっと抱きしめた。
「花澄様、大丈夫ですか!?」
「え、ええ。私は大丈夫……。」
《烙》の静かな瞳が花澄に向けられる。
「我が姫。」
「……何?」
「戦の支度をせよ。時は迫っている。」
《烙》はそう言い残して、ふわりと宙に浮くとかき消えた。
「蓮珠……後先考えず物を投げるな。黒龍が避けていたら雪村に当たっていたぞ。」
「え……。」
玲の言葉に花澄は目を見開いた。
(まさか……《烙》、かばってくれたの?)
「花澄様の抜群の運動神経を持ってすれば、あのようなものを華麗に避けるのは朝飯前ですわよ! そんな事より花澄様、あの色ボケ龍に何か変なことをされませんでした? ああっ、私がもっと早く扉を壊せていれば……。」
「わ、私は本当に平気よ。蓮珠こそ、怪我してない?」
蓮珠は花澄の両手をきゅっと握り、花のように笑んで答えた。
「お気遣い、嬉しいですわ。でもきっと、蓮珠は花澄様を守るために生まれてきたのです! だって、花澄様のためなら私、無敵になれるんですもの! 花澄様のためなら、どんな扉だって壊せます。どんな龍にだって負けませんわ。 だから……もっと私を頼ってくださいね。」
「……蓮珠。ありがとう。」
花澄は、昨日からずっと扉の向こうで自分の名を呼んでいた蓮珠の声を思い出し、その声に応えようとしなかった事を後悔した。
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