蒼き乙女と紅の姫君
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第九章 ぬくもりを求めて
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離れてしまった。
こんなに遠く。
あんなにも強く、手を握っていたはずなのに。
どうして、こんな事になったの?
ねぇ……優都……。
記憶の中の恋人を思い出そうとすると、先程会った白い髪の少年が同時に浮かんでくる。
『白龍の《翠》』
《烙》は彼をそう呼んでいた。
どうして梨優と一緒に?
それは至極簡単な事。
(梨優が『蒼き乙女』だから……。)
だがそれは、花澄にとって認めたくない事実だった。
それは梨優が『紅の姫君』である自分の敵だという事。
イリスの王城へ帰るため龍に姿を変えた《烙》の背で、花澄は収まらない動悸を感じ続けていた。
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東の一族、ザイラの永楼殿。
その西の対の母屋に繋がる東廂に、意識の戻らない梨優を抱えた《翠》がいた。
「翠殿!」
初老のがっしりした身体つきの男が、《翠》に駆け寄る。
「イル。」
「シキから知らせが届きましたので急いで参りました。姫様は?」
イルと呼ばれた男は梨優を覗き込んだが、梨優は《翠》の腕の中でピクリとも動かない。
「黒龍の攻撃を受けた。……攻撃自体は上手く吸収したようだが、黒龍の“気”自体が《蒼き乙女》には毒だ。」
「姫様は黒龍とは対なる白龍の翠殿の加護を受けておられますから、常人よりも黒龍の“気”から受ける影響も大きいのでしょうな……。」
「水無瀬!!」
驚いたような声が、イルの後ろから発せられた。
廂を駆けてきたのは、杉山明日香という少女。
「《瑠璃の聖》……イル、連れてきたのか。」
「ついて行くと聞かないものでして……。」
「おい、水無瀬はどうしたんだ?」
「《瑠璃の聖》。」
《翠》は明日香に厳しい目を向ける。
「お前は一刻も早く自分の役目を果たせるように精進しろ。この程度の事で動転しているようでは《瑠璃の聖》は務まらんぞ。」
「なん……っ。」
「イル。」
「はっ。」
「“聖水の座”をここに敷く。」
静かに告げられたその言葉に、イルが目を見開いた。
「……しかし、翠殿。」
「案ずるな。」
《翠》は梨優をイルに預けると、母屋に入った。
「“聖水の座”……?」
明日香の呟きにイルが答える。
「《蒼き乙女》の穢れを清め、その傷を癒す『場』の事だ。乙女を加護する白龍のみが現出できる。」
母屋の中心に立ち、《翠》は懐刀を取り出した。
明日香が止める間もなく、白い髪の少年はそれで己の左手首を切る。
滴り落ちる夥しい赤い血。
《翠》は身をかがめて床に手を触れる。
そして、床に落ちた自分の血で法陣を描いた。
「龍の血で目を覚ます。それが“聖水の座”。」
しばらく経つと、母屋が鼓動を打つように大きく揺れた。
「何だこれ、部屋が変形してる…!」
赤い血が青白く光り始め、そこから何かの植物のツルが這い出し辺りに伸びる。
部屋の中心がぐにゃりと窪み、《翠》の血の法陣から次に溢れ出したのは透明な水。
明日香はその変化の勢いに驚愕した。
みるみる内に西の対の母屋は光を纏う植物でいっぱいになり、その中心には輝く水を湛えた泉が現れた。
《翠》は血が滴り続ける左手首を押さえて一瞬だけ顔をしかめたが、踵を返してイルの方へと歩み寄る。
イルから梨優を受け取ると、《翠》は再び泉の淵まで歩んでいった。
《翠》を追おうとした明日香は、見えない壁に弾き飛ばされる。
「“聖水の座”に入る事ができるのは龍と乙女だけだ。」
イルが明日香を助け起こしながら教える。
《翠》は泉の淵に膝を着くと、梨優の身体を泉の水に浸した。
そのまま水は梨優を飲み込んでいく。
かなり浅い泉ではあったが、それでも横たわった梨優が完全に沈んでしまうには十分な深さだった。
「ちょっ、待て! それはやばいんじゃ……。」
「安心しろ、あれは乙女の為に作られた泉。万一の事も無い。それより、そろそろ帰るぞ。」
「何で!」
「お前はまだまだ知識が足りぬ。先程翠殿に言われただろう。自由に行動したいのなら、知を得て力を手に入れろ。……それは姫様の為にもなる。」
明日香は不安そうな様子を隠せずにいたが、先に歩き出したイルに渋々従いその場を去った。
イルと明日香の足音が消えた後も、《翠》は泉の水の中で眠る梨優を見つめていた。
(ゆうとにぃ)
(ゆう……と……?)
二人の少女の声が蘇る。
「ゆうと……。」
梨優とあの『紅の姫君』の少女にとって、その名が示すものは何なのか。
(調べてみる必要があるな。)
《翠》は何事かを呟いて泉の水に触れた。
☆
走る。
走る背中を追う。
太陽。土と草の匂い。
常に自分の前を走る、少年の背中。
「――――!」
自分の声に、少年がこちらを振り返る。
「もうばてたの? りぃ。」
茶色の優しい瞳が、背の低い自分を覗き込む。
「うん……。」
そう言って、少年の胴に抱きつく自分。
「しょうがないなァ。ちょっとだけ休もうか。」
「ん。」
大好きだ。
どうしようもない思慕があふれ出す。
大好きだ。
大好きだった。
『彼』も『彼女』も。
幸福な時間が流れていく。
『彼』と『彼女』と梨優の過ごした思い出の数々。
「りぃ……。」
苦しげな彼の声に振り向くと、『彼』は蒼白な顔で家の廊下にくず折れていた。
白い部屋の中に、『彼』は横たわっていた。
元気そうな笑顔にホッとする毎日。
「僕が居なくても学校の宿題はちゃんとやってる?」
「うん。」
「よしよし。いい子だね。」
「優都もちゃんと静養して、早く学校に戻らなきゃね。」
「ここも良いところだよ?」
『彼女』の言葉に、『彼』は笑って返す。
「こら、優都!」
笑い声。
自身を蝕む病魔の存在など感じさせない程、彼は努めて明るく振舞った。
ブツリと途切れる記憶。
真っ暗な空間だけが広がる。
――……ゆうと……にぃ……。
それは、何度も何度も、梨優の心の奥深くで生まれては、消えていく名前。
囁きのように静かでいて、悲しげな声。
――……ゆうとにぃ……どこ?
――どこ、いったの……?
――ゆうとにぃ………
何を。
(何を嘆いている? りぃ。)
何故こんなに必死に、何度も問いかけている?
母親を求める赤ん坊のように純粋に。
小さな少女は暗闇の中で一人、痛々しいくらい『彼』を求め続けている。
喪われてしまった『彼』の魂を。
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