古くからザイラの長の一族が住み、《蒼き乙女》達が拠点として使ってきた永楼殿の周りには、ザイラの民が作った小さな民家が立ち並び、さらにそれを囲むように砦がある。
永楼殿とその周りの民家や砦を合わせて、ザイラの民はシントと呼んでいる。
シントは、四十年前のイリス民族のザイラ侵攻の折、最後に陥とされたザイラ民族の都。
《蒼き乙女》が現れるという予言にザイラの民が立ち上がり、つい5,6年前にイリスの手から取り戻された時には、民の家のほとんどは壊され、永楼殿も半壊していたという。
今でもシントには、イリス軍の残した痕跡があちこちに残っている。
《心》の《都》と書いて、心都(シント)。
ザイラの民は、日本語の漢字と片仮名に非常に似た文字を使う。
それだけでも驚いたものだが、『シント』の由来をイルから聞いたとき、明日香はふと気になってイルに尋ねた。
「あんたたちが文字を書く時って、漢字だったり片仮名だったりするよな。『ザイラ』とかあんたの名前にも、漢字があんのか?」
イルは、『漢字』と『片仮名』という単語を知らなかった。
『漢字』に似た文字は『キーア』。『片仮名』に似た文字は『新キーア』と言うらしい。
そしてイルはこう続けた。
「昔は、キーア大陸に住む全ての民が、得意不得意の差はあれキーアを使えた。しばらくしてキーアの形を元に新キーアが生み出され、それはあっという間にキーア大陸に広がった。やがて、ごく一部のキーアの意味や音を残して、キーアは人々の生活から消えていった。今のザイラの民が使えるキーアなどわずかだ。だが……先代の《蒼き乙女》殿や《聖》達は、キーアによく似た文字を使いこなしていた。」
(先代ねぇ…。)
イルの家で茶を飲みながら明日香は考えた。
先代達が現れ、消えたのが約四十年前。
(四十年前っつったら、あたしたちは昭和。どうもなぁ…。)
「先代《蒼き乙女》殿は、こちらに来る前はブケという国に居たらしい。先代の《紅の姫君》はクゲという国に居たとか。どうも異世界の言葉は聞き慣れん。何か間違えているかもしれんが、聞き覚えはないか?」
イルの話を聞けば聞くほど、先代はもっと古い時代の人間のような気がしてならない。
(『武家』と『公家』だろ……多分。)
歴史が苦手な自分だって知っている。
それらは、自分達の世界では古びて久しい身分の名前だ。
(昭和よりもっと昔……江戸とか、明治あたりか? あああもう! 社会なんて、あたしの専門じゃねえよ!)
明日香は眉間に皺を寄せて頭を掻いた。
《瑠璃の聖》とは、イリスの《紅水晶の騎士》と対をなす知将。知と才を持って《聖》と兵を束ねる者だと聞いた。
何故自分が《瑠璃の聖》なのか、明日香にはさっぱり分からなかった。
早朝、シントは朝霧につつまれている。
開けられた砦の扉に、四つの人影があった。
「それでは《翠》殿、凛殿。永楼殿を頼みましたぞ。」
イルの横には、明日香が不機嫌そうな様子で控えている。
「こら、お前も挨拶していかんか!」
「《瑠璃の聖》」
口を開いたのは《翠》だった。
「なんだよ。」
「《蒼き乙女》が目覚めていない。《聖》もまだ揃っていない。それは、シントの力が大幅に削がれている状態と言っても過言ではない。その時にお前とイルがシントを離れる意味をよく考えろ。」
「あいにく、考えるのは苦手なんでね。っで!! なんなんだよイルのおっさん!」
明日香にゲンコツをくらわせた後、何食わぬ顔でイルは《翠》に礼をした。
イルが身を翻して馬に乗ると、明日香も不満げな表情のまま馬に乗る。
「まずはカグナリだ。急ぐぞ。」
腹を蹴られた馬達が、嘶きと共に駆け出す。
二人の姿は、驚くほどの速さで朝霧の中に消えていった。
「何者なんですか? あのイルというかたは。」
凛は《翠》に聞かずにいられなかった。
「あの男は、先代達の戦いで活躍した一番若い将軍だ。お前達が来るまでに、先の戦いで生き残った将の多くが老いて死んでいったが……イルと、イルの副将シキだけは存命してザイラを守り続けている。戦をその目で見てきた数少ない人間だ。」
明日香は気づいていないのかもしれないが、凛はイルの纏った人とは違う雰囲気に気づいてしまった。
哀しみも傷みも闇も狂気さえも内包したかのような、底の知れない静かな迫力。
幾千年生きた老樹のそれによく似ていた。
凛は立ち止まり、振り返って明日香がイルと一緒に消えた方向を見つめた。
明日香が帰るのは、これから十八の夜を数えた後の昼間らしい。
ザイラには、兵力を持ってイリスの侵攻を跳ね返してきた村がいくつかある。
ガラ、シュリ、カグナリ、ハクレン、アラト。
それぞれ、『海のガラ』『陸のシュリ』『空のカグナリ』『陰陽のハクレン』『術のアラト』と呼ばれ、それぞれに得意とする戦いかたがあるらしい。
ザイラを一つにまとめるにはこれらの村をまとめる必要がある。
《蒼き乙女》である梨優の代理として、また、兵たちに指示を出す役目を負う《瑠璃の聖》として、明日香が村を回るのが得策だとイルは《翠》に進言した。
確かにそうだと凛は思った。
それに明日香だけなら村の兵たちから軽んじられる可能性もあるだろうが、イルが共に行くなら心配は要らない。
武道に通じている者ほど、イルを軽んじることはできないだろう。
恐らく今回の村回りには、今後の明日香の指示をスムーズに行き渡らせる狙いもある。
何故イリスがザイラを完全に侵略しきれずにいるのか疑問に思っていた凛にとって、イルの存在は十分すぎる答えだった。
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