蒼き乙女と紅の姫君



第五章 遺された幻影



 しばらく出かけてくる、と言って《翠(すい)》が(龍に戻って)飛び去ってから、随分経つ。

 何となく、梨優(りゆ)は廂(ひさし)と呼ばれる、西庭に一番近い部屋から外を眺めていた。

 辺りは既に薄暗く、空からこぼれてくる光だけが庭に柔らかく降っていた。


(あれも月なのかなぁ……?)


 御簾越しに光の元を見つめて、梨優は考えた。

 良く似ているが、少し違う気がする。


(すい……まだかなぁ。)


 廂に置かれた灯火が消えないようにと、時々様子を見に来る者は居たが、梨優はこの世界に来て初めて、心細さを感じ始めていた。


(しばらくって……いつまでなんだろ……。)


 今日中だろうか。明日だろうか。明後日だろうか。

 一人になると、どうしても考えてしまう。

 考えまいとしていた事を。

 どうして自分はこんな所に居るのか。


 学校は?


 梨優は、庭に向かって手を伸ばした。



―――梨優!!



 聞こえるのは、あの時の声。


「かすみ……。」


 掴めなかった手を、今度こそ掴もうとするように。


「かすみぃ……っ。」


 引き戻した手を抱きしめて、梨優は静かに泣いた。







「あら……まぁ、姫様。泣いていらっしゃるんですか……?」


 柔らかい女性の声が、梨優の耳に届く。

 声のした方を梨優が見ると、簀(す)の子(こ)という縁側のような場所から、美しい少女が一人、灯りを手にこちらを見ていた。


「《蒼き乙女》様ともあろう御方が、いかがなさったんですか?」


 そう言って御簾を上げ、傍まで来る。

 少女の着物から、華やかでいて品の良い香りがふわりと馨る。

 間近で見ると尚一層、綺麗な顔立ちをしている事が分かる。


 同じ美しい姿をしていても、花澄の持つ美しさとは種類が違う。

 花澄(かすみ)が生命力に溢れるひまわりの様な美しさを持つとしたら、この少女の美しさは儚い桜のようだ。

 どこか無常を哀れむような陰がある。


「《蒼き乙女》様はザイラの希望。御心は強く持って頂かねば。」


 少女は梨優を元気づけるようにニッコリと笑った。

 直後。

 目の前の少女の姿が小さな花びらとなって、散る。


「え……。」


 唖然とする梨優の前で、散った花びらが再び集まり、同じ少女の姿を形作った。

 しかし、今度の少女は虚空を見つめ、梨優の姿などその視界には入っていない。


「彩一(さいいつ)……様……。」

「さい、いつ?」

「彩一様、あの方が大切ですか? あの方を想ってらっしゃいますか?―――私よりも……。」


 悲しげな表情のまま、少女は花びらとなり散る。

 次に現れたのは先ほどの少女と、まだ若い、青年と呼べるくらいの年頃の男性だった。


(美人……。)


 一瞬女の人かと思ってしまったほど、目の前の男性は中性的な美しさを持っていた。

 少女と青年は向かいあって立ち、見つめ合っていた。


「私を恨んでいるか? 天瑛(てんえい)……。」


 青年の言葉に、少女は首を横に振る。


「いいえ……。いいえ……っ。」


 青年は少女を抱き寄せ、羽根を抱くように包み込んだ。


「!」


 二人の姿が散り、次に現れたのは鎧姿の青年と少女。


(戦いに、行くんだ……。)


 とっさに梨優は悟る。

 これは、戦に行く青年を少女が見送る光景。


「どうか、ご無事で……。」


 少女は青年の手を取り、自らの腹部にあてさせた。


「お分かりになりますか……?」


 間を置いて、驚いた表情を浮かべる青年。


「貴方の帰りをお待ちしているのは、この子も同じ。必ず、私の元へ戻ってきてください……。」

「……ああ、必ずだ。しばらく心細い想いをさせるが、許してくれ。」

「私は、彩一様の妻です。彩一様がイリスと戦われるように、私も私自身の弱い心と戦わねばなりません。大丈夫です、耐えてみせます……彩一様が御戻りになるまで。」


 微笑んだ少女の頬に手を当てて、青年も少女に愛しげな微笑みを落とした。


「……行ってくる。」


 身を翻した青年の顔から、優しさや柔らかさが消える。

 そこに在るのは、ザイラの民を統べる長の顔だった。


 ザァッという音と共に強い風が御簾を揺らし、廂に置かれた灯火の明かりが消える。


 風の勢いに一瞬目をつぶった梨優は、目を開けると先ほどまで廂に居た少女の姿が消えた事に気付く。

 少女の姿を探す梨優の耳に、館に響き渡るざわめきが聞こえた。



 疑問。恐怖。諦め。祈り。



「……彩一様……。」


 かぼそい声に、梨優が反応する。

 少女は薄明かりの中、西庭に立っていた。

 風が吹けば崩折れてしまいそうな程頼りなげな様子だったが、その瞳は強さを保っていた。


 倒れそうになる身体を、精神(こころ)だけで支えているような姿だった。


 まるでそれが、自分の義務だとでも言うように。

 ざわめきが更に大きく、激しくなる。

 少女はそこでようやく、一粒の涙を流した。


 一体どれだけの涙を、彼女は胸にしまいこんできたのだろう。

 少女が、梨優の方を見る。


「お迎え……ですね……。」

「……?」


 突如、先ほどの風より数倍強い風が吹き荒れる。



「――――っ!!」



 御簾が高く舞い上がる。


 両腕で顔をかばった梨優は、強風の中で叫ぶ声を聞いた。

 あの彩一と呼ばれた青年が、声も枯れるほど悲痛に叫ぶ声を。



「天瑛―――――!!」









「どうした? りぃ。」

「!」


 いつの間にか、帰ってきた《翠》が簀(す)の子(こ)から廂へ入って来ようとしていた。

 梨優は何も言わずに《翠》に走り寄り、俯いたまま服の裾を掴む。


「?……なんだ。離せ。」


 《翠》は振り払おうとするが、梨優の手はスッポンのように離れない。


「りぃ。」


 少し強い口調で《翠》が呼びかけると。


「……ッ……。」


 ボロボロ、と梨優の瞳から涙が零れた。


 ぎょっとして《翠》は固まる。



「……おい、何故泣いている……?」


 梨優にも分からなかった。

 ただどうしようもなく、胸が痛かったのだ。


「もう、どこにもいかない……?」


 《翠》はどうすべきか困り果てた末、梨優の頭に軽く手を置き、


「ああ。」

と答えた。




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