しばらく出かけてくる、と言って《翠(すい)》が(龍に戻って)飛び去ってから、随分経つ。
何となく、梨優(りゆ)は廂(ひさし)と呼ばれる、西庭に一番近い部屋から外を眺めていた。
辺りは既に薄暗く、空からこぼれてくる光だけが庭に柔らかく降っていた。
(あれも月なのかなぁ……?)
御簾越しに光の元を見つめて、梨優は考えた。
良く似ているが、少し違う気がする。
(すい……まだかなぁ。)
廂に置かれた灯火が消えないようにと、時々様子を見に来る者は居たが、梨優はこの世界に来て初めて、心細さを感じ始めていた。
(しばらくって……いつまでなんだろ……。)
今日中だろうか。明日だろうか。明後日だろうか。
一人になると、どうしても考えてしまう。
考えまいとしていた事を。
どうして自分はこんな所に居るのか。
学校は?
梨優は、庭に向かって手を伸ばした。
―――梨優!!
聞こえるのは、あの時の声。
「かすみ……。」
掴めなかった手を、今度こそ掴もうとするように。
「かすみぃ……っ。」
引き戻した手を抱きしめて、梨優は静かに泣いた。
「あら……まぁ、姫様。泣いていらっしゃるんですか……?」
柔らかい女性の声が、梨優の耳に届く。
声のした方を梨優が見ると、簀(す)の子(こ)という縁側のような場所から、美しい少女が一人、灯りを手にこちらを見ていた。
「《蒼き乙女》様ともあろう御方が、いかがなさったんですか?」
そう言って御簾を上げ、傍まで来る。
少女の着物から、華やかでいて品の良い香りがふわりと馨る。
間近で見ると尚一層、綺麗な顔立ちをしている事が分かる。
同じ美しい姿をしていても、花澄の持つ美しさとは種類が違う。
花澄(かすみ)が生命力に溢れるひまわりの様な美しさを持つとしたら、この少女の美しさは儚い桜のようだ。
どこか無常を哀れむような陰がある。
「《蒼き乙女》様はザイラの希望。御心は強く持って頂かねば。」
少女は梨優を元気づけるようにニッコリと笑った。
直後。
目の前の少女の姿が小さな花びらとなって、散る。
「え……。」
唖然とする梨優の前で、散った花びらが再び集まり、同じ少女の姿を形作った。
しかし、今度の少女は虚空を見つめ、梨優の姿などその視界には入っていない。
「彩一(さいいつ)……様……。」
「さい、いつ?」
「彩一様、あの方が大切ですか? あの方を想ってらっしゃいますか?―――私よりも……。」
悲しげな表情のまま、少女は花びらとなり散る。
次に現れたのは先ほどの少女と、まだ若い、青年と呼べるくらいの年頃の男性だった。
(美人……。)
一瞬女の人かと思ってしまったほど、目の前の男性は中性的な美しさを持っていた。
少女と青年は向かいあって立ち、見つめ合っていた。
「私を恨んでいるか? 天瑛(てんえい)……。」
青年の言葉に、少女は首を横に振る。
「いいえ……。いいえ……っ。」
青年は少女を抱き寄せ、羽根を抱くように包み込んだ。
「!」
二人の姿が散り、次に現れたのは鎧姿の青年と少女。
(戦いに、行くんだ……。)
とっさに梨優は悟る。
これは、戦に行く青年を少女が見送る光景。
「どうか、ご無事で……。」
少女は青年の手を取り、自らの腹部にあてさせた。
「お分かりになりますか……?」
間を置いて、驚いた表情を浮かべる青年。
「貴方の帰りをお待ちしているのは、この子も同じ。必ず、私の元へ戻ってきてください……。」
「……ああ、必ずだ。しばらく心細い想いをさせるが、許してくれ。」
「私は、彩一様の妻です。彩一様がイリスと戦われるように、私も私自身の弱い心と戦わねばなりません。大丈夫です、耐えてみせます……彩一様が御戻りになるまで。」
微笑んだ少女の頬に手を当てて、青年も少女に愛しげな微笑みを落とした。
「……行ってくる。」
身を翻した青年の顔から、優しさや柔らかさが消える。
そこに在るのは、ザイラの民を統べる長の顔だった。
ザァッという音と共に強い風が御簾を揺らし、廂に置かれた灯火の明かりが消える。
風の勢いに一瞬目をつぶった梨優は、目を開けると先ほどまで廂に居た少女の姿が消えた事に気付く。
少女の姿を探す梨優の耳に、館に響き渡るざわめきが聞こえた。
疑問。恐怖。諦め。祈り。
「……彩一様……。」
かぼそい声に、梨優が反応する。
少女は薄明かりの中、西庭に立っていた。
風が吹けば崩折れてしまいそうな程頼りなげな様子だったが、その瞳は強さを保っていた。
倒れそうになる身体を、精神(こころ)だけで支えているような姿だった。
まるでそれが、自分の義務だとでも言うように。
ざわめきが更に大きく、激しくなる。
少女はそこでようやく、一粒の涙を流した。
一体どれだけの涙を、彼女は胸にしまいこんできたのだろう。
少女が、梨優の方を見る。
「お迎え……ですね……。」
「……?」
突如、先ほどの風より数倍強い風が吹き荒れる。
「――――っ!!」
御簾が高く舞い上がる。
両腕で顔をかばった梨優は、強風の中で叫ぶ声を聞いた。
あの彩一と呼ばれた青年が、声も枯れるほど悲痛に叫ぶ声を。
「天瑛―――――!!」
「どうした? りぃ。」
「!」
いつの間にか、帰ってきた《翠》が簀(す)の子(こ)から廂へ入って来ようとしていた。
梨優は何も言わずに《翠》に走り寄り、俯いたまま服の裾を掴む。
「?……なんだ。離せ。」
《翠》は振り払おうとするが、梨優の手はスッポンのように離れない。
「りぃ。」
少し強い口調で《翠》が呼びかけると。
「……ッ……。」
ボロボロ、と梨優の瞳から涙が零れた。
ぎょっとして《翠》は固まる。
「……おい、何故泣いている……?」
梨優にも分からなかった。
ただどうしようもなく、胸が痛かったのだ。
「もう、どこにもいかない……?」
《翠》はどうすべきか困り果てた末、梨優の頭に軽く手を置き、
「ああ。」
と答えた。
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