蒼き乙女と紅の姫君



第六章 二つの悲劇



「……あの。」

「何だ、我が姫。」


 花澄に与えられた部屋のソファに、主顔で座っているのは、《烙》。黒龍の青年である。

 ここに座れ、と言われ、花澄は《烙》の隣に座っていた。


「その《我が姫》ってやめてもらえませんか?」


 フッ、と唇を歪ませて、黒龍の青年は至近距離から花澄を見つめた。


「真実だ。仕方あるまい……?」


 じりじりと少しずつ距離を取りながら、花澄は玲にSOSサインを出す。

 が。


「《騎士》は黒龍より格下だ、頑張れ雪村。」

「ちょっ、ちょっと芹沢!」


(あの変な王様も嫌だけど……何で私の周りってこんな奴らばかりなの!?)


 男運の無い花澄だった。


「えっと、その……《烙》さん。教えていただきたいことが幾つかあるんですけど……。」

「我に関する事ならば喜んで教えよう、愛しい姫。」


(無視、無視……。)


 花澄は、ずっと気になっていた事を《烙》に尋ねる。


「どうして、イリスとザイラは争っているんですか?」

「ふぅむ。我の事ではないのだな。だが姫、その答えは我より姫の方が知っているのではないか?」


 花澄がいぶかしむ表情を浮かべると、《烙》は肩にかかった長い黒髪を優雅な仕草で払い、窓の外を見た。


「我は龍だ。人の心など知らぬ。だが……土地があり、自分たち以外の国や民族がある以上、戦い続ける。人間とはそういう動物ではないのか?」


 違う、と言いかけた花澄だったが、後の言葉が浮かばなかった。


「姫の求める答えではないかも知れないが、我の知るイリスとザイラの確執を話そう。先代の姫の時代だ。」

「先代の……?」


 青年の瞳が、どこか遠くを眺めるように細められる。

 生きてきた時間の長さを物語るかのような深い色が、彼の瞳の奥底に宿った。


「先代《紅の姫君》・春日が現れる直前、この国……いや、まだあの頃は民族でしかなかったか。このイリス民族とザイラ民族間の緊張は高まっていた。イリスの権力者達の多くは、ザイラに対して軍事的な攻撃をするように族長に訴えていた。……殺される前に殺してしまえ、という理由でな。」


 《烙》は、まるで空から下界を見つめているかのように、遠い視線をわずかに下方へ落として話し始めた。


「過激派の多いイリスの権力者達の中で、ただ一組の夫婦だけがザイラへの侵攻案に真っ向から反対していた。夫の名はルーク。妻の名はシエラ。まだ若い夫婦だったが、彼らの発言力は確かなものだった。何故だか分かるか?」

「族長の意見を左右できる立場に居た……族長に一番近い親族だったの?」

「聡いな、さすがは我が姫だ。ルークは族長の嫡男だった。しかも、当時の族長は年老いており、世襲の族長制度を持つイリスにおいて実質的な最高権力は彼の元にあったのだ。温厚だったが、だからと言って弱い人間ではなかった。爆発寸前のイリスの権力者達を抑えていたのは、彼と彼の妻だけだったのだから。……そんなある日の事だ。ルーク、シエラ、そして彼らの子供二人が、一夜の内に何者かに暗殺されたのは。」

「暗……!」


 ゾッと寒気が走り、花澄は両手で自分の腕を抱いた。


「一体誰の仕業なのか、今でもはっきりしてはいないがな。それまで上に乗っていたフタが取れたのだ、次期族長とその家族を奪われたイリスの人間達の怒りがどこに向かうかなど、考えずとも分かるだろう。」


 矛先は、ザイラへ。

 花澄は厳しい表情を浮かべる。


「多くの人間が兵士として集まり、軍隊が組まれた。時を同じくして春日姫……《紅の姫君》が現れ、そしてザイラ侵攻が始まった。ザイラも軍を組織し、対抗した。そう……イリスに我と《紅の姫君》が居たように、ザイラにも白龍と《蒼き乙女》が居たな。だが、一人の《聖》がこちら側に付き、《蒼き乙女》と《聖》達はバラバラになった。危機を感じたザイラの若き族長が自ら前線まで出向いてきたが、イリスの軍を率いていた男は妙に頭の切れる奴でな。上手く策を講じてザイラの族長の隊に矢の雨を降らせたのだ。ザイラの族長は矢を受け、こちらに捕らえられた。崩れかけていたザイラの軍は族長を失い、戦う力を完全に失った。それからは……たいして苦労もせずにザイラの軍を破っていったな。イリスの軍を率いる男は、ザイラの族長の一族の屋敷を占領した。そして、その中に居た人間全員を、捕らえていたザイラの族長の目の前で磔刑(たっけい)に処した。」


「たっけい……?」


 嫌な予感がしながらも、花澄は聞いた。


「はりつけだ。」


「っ……酷い……。」


 自分の親類が、兄弟が、恋人が、目の前で殺される。

 自分のせいで。


「まぁ……悲しみも長くは続かなかったが。ザイラの族長はその直後に斬首刑になったからな。同じように一族全ての遺体から頭部が切り取られ、ザイラ民族の聖地にさらされた。」


「どうして……そんな事を……。」

「それが戦(いくさ)だ。戦は狂気を呼ぶものだからな。『むごい』『かなしい』『かわいそうだ』……そういう人間の感覚を簡単に麻痺させる。」


 答えたのは《烙》では無く、芹沢だった。


「だからって……。」


 何故そこまで残酷になれるのか。

 恐ろしいのはイリスの方ではないのか。


「【彩一】……。」


「さいいつ?」


 《烙》の呟きに花澄は首を傾げた。


「ザイラの族長だった若者の名前だ。誰より美しい容姿を持ちながら、誰より猛々(たけだけ)しい武将の魂をその身に宿した男。時代が時代なら、彩一とあの男も解り合うことができただろうが。」

「あの男って、誰の事ですか?」

「彩一とその一族を滅ぼしたイリス軍指揮官、アース・ミジェンディ・イリス。ルークの弟であり、このイリス王国の初代国王。そなたを側室にほしいと言ったあの爺(じじい)だ。」

「……え。あの爺……? えええぇぇえええぇぇえ!!?」


 それまで、どこかおとぎ話のようにも思えた《烙》の話が、急に色を帯びる。


「アースはその後もザイラ侵攻を続けたが、ザイラの民の最後の砦は守りが堅くてな。いまだに陥(お)とせずにいる。それどころか最近は《蒼き乙女》の再来に伴い、ザイラが力をつけてきているようだ。」

「《紅の姫君》とか《蒼き乙女》が現れるのは……戦争がもうすぐ始まるっていう事なんですか?」

「それに近い。《姫》にしろ《乙女》にしろ、その存在意義は多くの人間を《束ねる者》である事だ。人間は脆い。人間の心ほど不安定なものはあるまいよ。」

「それは、龍から見た人間観……?」

「ああ。幾百年の間、様々な人間を見てきたが、どれも同じだな。何故迷う? 何故心に疑問を持つ? 春日姫でさえ、幾度となく我に問うた。『これで本当に良いのか』と。そなたもだな、花澄姫。こうして我と言葉を交わしている時も、そなたの心は絶えず揺れている。我を信じるべきか否かと。違うか?」

「!」


 花澄は身をこわばらせた。


「知らぬと思ったか。我がそなたの前に現れ出でずにいたのは、お前が我の存在に常に疑いを抱いていたからだ。」

「わ、私は……っ、私達人間は貴方達とは違って、与えられた時間が少ないの。どれを選べばいいとか、どれが一番良い方法だとか、この世の全てを知るには短すぎる……だから、いつも迷ってるの。少しでも笑えるように、楽しめるように、幸せになれるように頑張ってるの。それが、そんなにいけない事なの?」


 《烙》は一度大きく瞬いたが、すぐにククッと笑った。

 真剣に言ったつもりだった言葉を笑われ、花澄はカチンとした表情を浮かべる。


「何がおかしいの?」

「その口調だと話しやすいようだな、我が姫。」

「……あ。」

「構わん。そうだな……我も忘れていたのやもしれんな、迷う事を……。だが、注意しろそなたは《束ねる者》としてここに居る。他の人間の前では、決して自らの迷いを見せてはいけない。迷いは我にだけ明かせ。我がそなたの迷いも弱さも引き受けよう。」


 《烙》はそう言った後、初めて花澄に柔らかな微笑みを見せた。










「だから何でお前が泣くんだ。」


 頭の痛い様子で、《翠》がため息をついた。


「ぅううわええっ。りうりもっ……わが、なっ……。」

「頼むから人間世界に属する言語で話してくれ。そもそも、知りたいと言ったのはお前の方だろう。ザイラとイリス……特に【天瑛】と【彩一】の事を。」


 まるで枯れない泉のように、梨優の涙はとめどなく溢れてくる。


「恐らく、お前が見た二人の姿は永瓏殿(えいろうでん)の見せた幻だな。」


 《翠》は灯篭(とうろう)に火を灯しながら言った。


「え、えいろうで…?」

「永瓏殿。この屋敷の名前だ。ここには特殊な力が宿っているという。この屋敷が気まぐれで【天瑛】と【彩一】の思い出を再現して見せたんだろう。」

「じゃあ、今は?」

「今?」

「あの人達は、どこにいるの? まだ苦しんでるの? 悲しんでるの? だからあんなに辛そうだったの?」

「いや…もう居ない。魂の気配を感じないからな。二人とも今は楽になっているだろう。天上の世界で。」


 その言葉に、梨優は安堵の表情を浮かべる。


「ゆうとにぃと同じ所に行ったんだ…じゃあ、大丈夫だね。」

「死んだのか…お前の兄は。」


 兄の死を思い出したのか、一度は収まった梨優の涙が再び溢れる。


「泣くな。」


 《翠》の声は、言葉に反して優しく響いた。


「…ぅぐ。」

「泣いても起きてしまった事は無かった事にはならないし、死んだ人間は還らない。分かったらいい加減泣きやめ、月に笑われるぞ。」

「…月?」

「あれだ、空に浮かんでいるだろう。…それとも、お前の世界には月が無いのか?」


 《翠》は御簾を掲げて空を見る。


「ある…でも、あんなに大きくも青くも無いよ。」

「多少の違いはあるだろう。《蒼き乙女》と《聖》達は、この世界とは違う世界から来ると叔父が言っていた。」

「叔父さん…?」


 龍の世界にもそういう家族関係があるのかと、梨優は疑問に思った。


「先代の《蒼き乙女》に加護を与えていた龍だ。天龍の一族第二位守護龍・白龍の《篠(しの)》。【天瑛】や【彩一】について、僕に教えてくれたのも彼だ。」


 御簾を戻して、《翠》は梨優に向き直った。


「もう休め、りぃ。明日になれば少しは落ち着く。」

「…うん、分かった…。」


 ぐしぐし、と涙の跡を袖で拭って、梨優は母屋へ歩いて行った。










 イリス王国、王城。


「雪村、もう寝ているか?」


 その声が聞こえたのは夜も更けて、花澄がベッドに入ったは良いものの、なかなか寝付けずにいた時だった。


「芹沢? 起きてるよ。何?」


 花澄はすぐ起き上がり、ネグリジェの上にカーディガンを羽織ると部屋の扉を開ける。

 扉の前には、片手に燭台を持った芹沢玲が立っていた。


「たった今入った情報だ。《騎士》が一人、城を訪ねてきた。」

「…え!? 《騎士》って…つまり、あんたと同じ立場の人間よね。こんな遅くに?」

「ああ。謁見は明日になったが…どうやら、《椿の騎士》らしい。」

「椿?」

「…まず俺は何の騎士か覚えているか?」

「…。」

「《紅水晶の騎士》だ。その役割は、《紅の姫君》のサポート。そして《騎士》に指示を与える事だ。《椿の騎士》は《紅の姫君》の一の側近。お前がいつも傍に置いておくべき存在だ。」

「…思うんだけど、どうしてそんな事逐一決まってるのかな。《騎士》達をまとめる役なら、まとめるのが得意な人がなればいいし、いつも傍にいる人は自分と気が合う人を選びたいものじゃない?」


 すると玲は少し考え込んだ。


「俺もそう思うが、詳しい理由は知らない。どういう基準で《姫君》や《騎士》が選ばれているのかもな。気になるなら黒龍に聞けばいいと思うぞ。」


 花澄はその言葉に目を見張る。


『俺もそう思う』


 以前の『俺が訊きたいくらいだ』という言葉とは全く印象が違う。

 玲が初めて共感を示してくれたので、それだけで花澄は嬉しくなった。


「何だ?」

「ううん、何にもー。」

「そうか…話はそれだけだ。明日の朝迎えに来るから、準備をしておけ。」

「う、うん。じゃあ、おやすみ。」


 花澄の言葉に、玲は少しだけ気恥ずかしそうに、


「おやすみ…。」


 と返した。










「? りぃ、起きたのか?」


 簀(す)の子(こ)に座って月を眺めていた《翠》は、廂(ひさし)の奥の母屋から出てきた人影に瞳を向けた。

 青い髪と青い瞳の小柄な少女は、ふらふらと《翠》の傍まで歩いていくと、ちょこんと座る。


「どうした。…りぃ!?」


 そのまま梨優は、《翠》の方に倒れこんだ。


「…ゆうとにぃ…。」


 《翠》の服を掴んで、梨優はその名を呼んだ。


(寝ぼけているのか?)


 《翠》の予想は正しかったらしく、すぐに少女から安らかな寝息が聞こえ始めた。


「僕はお前の兄では…」


 そこまで言って、《翠》は先を言うのをやめた。

 代わりに、梨優の柔らかな髪に手を触れる。


「死んだ人間は還らない…決して。僕は僕でしかありえないんだ、りぃ…。」


 囁く声が闇に消えた。



 蒼い月が降らせる光は、《翠》の白く美しい髪をわずかに色づかせる。


 悠久の歳月を生きる自分達にとって、一人の人間の一生など一瞬の出来事に過ぎない。

 その一瞬しか現れなかった人間を、叔父は今でも愛しいと言う。

 たとえ彼女のせいで、癒えない傷を受けたとしても。


 手触りの良い梨優の髪を撫でる《翠》の指が、ピタリと止まる。


(…何をしてるんだ? 僕は。)




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