ノスタルジア〜紫の刻印〜



第十章 水面の幻影




 深緑の森に囲まれた小屋から、香ばしい匂いが辺りに漂っている。


「何か手伝う事ねーか?」

「いいえ、大丈夫よ。こんなに大人数の食事を作るのは久しぶりだから、ちょっともたついちゃってるだけなの。あ、よかったら皆が食べる場所の準備をしてくれるかしら? そこのテーブルじゃ小さすぎるから、外で食べようと思ってるの。裏の方に、イスとテーブルがあるから、連れの大きな男の子と一緒に頑張ってくれる?」

「あいよ。」


 そんなクィーゼルとマリアの会話が交わされる小屋の隅で、シャルローナはイスに座り、ずっと俯(うつむ)いていた。


「気分がお悪いんですか?」


 料理の手を止め、マリアがシャルローナに歩み寄る。

 しかしシャルローナはマリアの方を見ることもせず、「いいえ」とつぶやいた。


「何か飲み物でもお持ちしましょうか?」

「……いいえ、要らないわ。どこか近くに一人になれる場所はない?」


 マリアは少し考えるような仕草をした後、


「この小屋の裏手に、湖に繋がる道があります。もう大分暗くなってますから、あまり奥の方へはお行きにならないように……。」


と言った。


「……ありがとう。」


 シャルローナはそう言うと、静かに立ち上がった。









(月が綺麗だわ。)



 湖面に遊ぶ月の光。わずかな灯りを優しく覆う夜の闇が、自分の心を鎮めていくのが分かる。

 焦燥も疲労も、癒されていく。



(私は……焦りすぎていたのかしら。)



“貴女は闇を見つめるべきです。”

“光にばかり囚われずに。”

“責任感が強いのは貴女の良い所ですが、気負ってばかりも身体に毒です。”



 彼の言った言葉の意味が、今なら分かる気がした。

 水面に映った自分は、疲れきった顔をしていた。

 自分でもそう見えるのに、他人が見たらもっと酷い顔だろう。


 シャルローナの指先が水に触れる。


 水面に広がる幾重かの小さな波紋。

 その波紋は水に映りこんだ自分の像を揺らし、歪ませる。



 再び湖面に静寂が訪れた時、シャルローナは凍りついたように動けなくなった。


 波紋に歪んだ自分の姿。

 その波紋が消えた時、水がもう一度結んだ像は自分の姿ではなかった。




(これは誰なの?)




 水に映っている娘は、赤毛で灰色の瞳ではない。

 柔らかそうな薄茶色の長い髪。紫色の瞳を持つ、自分より年上の女性。

 彼女は悲しげな顔で俯いていた。

 悪寒が走り、シャルローナは両腕で自分を抱きしめた。


(怖い。)


 けれど、目を逸らすことができない。

 金縛りにあったように動けずにいると、水面の映像に変化があった。

 俯いた女性の後ろに、男性が現れたのだ。

 黒髪で整った顔立ちをしているが、他人を圧する雰囲気を持った人物。

 男性は俯く女性の肩に乱暴に手を置く。

 と同時に、シャルローナの右肩にも誰かの手が置かれた。


「っ!!」


 激しく動揺したシャルローナは、バランスを崩して湖に落ちそうになる。


「……っと……大丈夫ですか?」


 とっさに腕を掴んでシャルローナを引き寄せたのは、第一皇子のシンフォニーだった。


「驚かせちゃいましたか。あんまり身を乗り出していたので、危ないと言おうとしたんですけどね。」


 苦笑いを浮かべるシンフォニー。


「取り乱しました……。」


 シャルローナは平静を装おうとはしているが、顔に浮かんだ汗を隠すことができない。


「シャルル?」


 落ち着いた声音が、自分の心に再び安らぎを与えていく。

 シンフォニーはシャルローナの腕を放すと、「気をつけてくださいね。」と言い残して、どこかへ去ろうとした。



 湖面がさざめいた。



 雲が月を隠し、暗さが増した。

 少女の纏ったドレスの裾が揺れる。


“行かないで”


(何をしてるの……)


 シャルローナは、自分が何故そんな行動を起こしたのか理解できなかった。

 まるでシンフォニーを引き止めるかのように。

 彼の背中の服を掴んで、寄り添うようにぴたりと頬をあてている自分。


(……誰。)


 身体の中に、自分ではない存在を感じた。

 焦って離れたシャルローナを、シンフォニーは動じていない様子で振り返る。

 その顔には、いつもとは違った、どこか淋しげな微笑みがあった。


「懐かしいですね、シャルル。まだ小さかった頃、私とスウィングが貴方の屋敷に遊びに行くといつも、帰り際に私達の背中を追ってきました。皇宮とロンド家は、そんなに離れている訳でもないのに……けれどそんな時だって貴女は、嫌だとダダをこねて私達を困らせることはなかった。何も言わず、ただ泣きそうな顔をして私達の後を追ってきた。」


 シャルローナは、シンフォニーから視線を逸らしたままでその言葉を聞いていた。


「妹のように可愛い存在でしたよ、あの頃の貴女は。」


 シャルローナはそこでシンフォニーの視線を受け止める。


 襲ってきたのは、不思議な既視感。

 震えていることを悟られないように、シャルローナは努めて淡々と言葉を返した。


「今は違うと仰るのですね……。」

「貴女は成長しました。もう私達に手を引かれていた小さな女の子ではない。貴女は貴女の正義を得て、私も私の望みを見つけました。スウィングも昔と同じではありません。」



 遠い昔に繋がっていた手は、ゆるやかに解(ほど)けていった。



「周りに望まれる姿であれば、ずっと変わらずに居られると……貴女はそう考えた。」


 変わらぬ三人で居られると信じた。


 それだけが「三人」で居られる唯一の方法だと思った。


「シャルローナ。」


 その声には、いつものような親しみを感じることができなかった。


(遠い。)


 思い知る。


 自分とシンフォニーの間にできてしまった、どうしようもなく遠い距離。


「時間は過ぎ去るもの。人は変わるものです。私もスウィングも貴女も、あの頃のままではいられない。時を止めるのは不可能です。それは、死者の魂をこの世に引き止めることと同じ事。世界に歪みが生じます。」


 シンフォニーの言葉が、自分の中の何かを壊していく。


「……時を止められないことなど、とっくに知っています……っ。」


 シンフォニーを見上げた。

 その視界が歪む。


「目覚めなさい、シャルローナ。幼い殻は、貴女にはもう必要ない。本当の貴女に目覚めなさい。そうでなければ……。」


 シンフォニーはその先を言いあぐねる。


(そうでなければ……?)


「掴まなければいけない真実も、受け止めなければいけない現実も、何も得られないまま過去に囚われてしまいますよ。」

「過去とは、『いつ』ですか? 私が貴方を『お兄様』と呼んでいた頃ですか?」


 シャルローナの灰色の瞳が、不安げに揺れる。

 その意味を悟り、シンフォニーはゆっくりと首を横に振った。


「いいえ。」


 その声は、何かを哀れむような声だった。



「もっと、ずっと昔の話です。」




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