ノスタルジア〜紫の刻印〜
|
第十章 水面の幻影 |
深緑の森に囲まれた小屋から、香ばしい匂いが辺りに漂っている。
「何か手伝う事ねーか?」
「いいえ、大丈夫よ。こんなに大人数の食事を作るのは久しぶりだから、ちょっともたついちゃってるだけなの。あ、よかったら皆が食べる場所の準備をしてくれるかしら? そこのテーブルじゃ小さすぎるから、外で食べようと思ってるの。裏の方に、イスとテーブルがあるから、連れの大きな男の子と一緒に頑張ってくれる?」
「あいよ。」
そんなクィーゼルとマリアの会話が交わされる小屋の隅で、シャルローナはイスに座り、ずっと俯(うつむ)いていた。
「気分がお悪いんですか?」
料理の手を止め、マリアがシャルローナに歩み寄る。
しかしシャルローナはマリアの方を見ることもせず、「いいえ」とつぶやいた。
「何か飲み物でもお持ちしましょうか?」
「……いいえ、要らないわ。どこか近くに一人になれる場所はない?」
マリアは少し考えるような仕草をした後、
「この小屋の裏手に、湖に繋がる道があります。もう大分暗くなってますから、あまり奥の方へはお行きにならないように……。」
と言った。
「……ありがとう。」
シャルローナはそう言うと、静かに立ち上がった。
|
☆ |
(月が綺麗だわ。)
湖面に遊ぶ月の光。わずかな灯りを優しく覆う夜の闇が、自分の心を鎮めていくのが分かる。
焦燥も疲労も、癒されていく。
(私は……焦りすぎていたのかしら。)
“貴女は闇を見つめるべきです。”
“光にばかり囚われずに。”
“責任感が強いのは貴女の良い所ですが、気負ってばかりも身体に毒です。”
彼の言った言葉の意味が、今なら分かる気がした。
水面に映った自分は、疲れきった顔をしていた。
自分でもそう見えるのに、他人が見たらもっと酷い顔だろう。
シャルローナの指先が水に触れる。
水面に広がる幾重かの小さな波紋。
その波紋は水に映りこんだ自分の像を揺らし、歪ませる。
再び湖面に静寂が訪れた時、シャルローナは凍りついたように動けなくなった。
波紋に歪んだ自分の姿。
その波紋が消えた時、水がもう一度結んだ像は自分の姿ではなかった。
(これは誰なの?)
水に映っている娘は、赤毛で灰色の瞳ではない。
柔らかそうな薄茶色の長い髪。紫色の瞳を持つ、自分より年上の女性。
彼女は悲しげな顔で俯いていた。
悪寒が走り、シャルローナは両腕で自分を抱きしめた。
(怖い。)
けれど、目を逸らすことができない。
金縛りにあったように動けずにいると、水面の映像に変化があった。
俯いた女性の後ろに、男性が現れたのだ。
黒髪で整った顔立ちをしているが、他人を圧する雰囲気を持った人物。
男性は俯く女性の肩に乱暴に手を置く。
と同時に、シャルローナの右肩にも誰かの手が置かれた。
「っ!!」
激しく動揺したシャルローナは、バランスを崩して湖に落ちそうになる。
「……っと……大丈夫ですか?」
とっさに腕を掴んでシャルローナを引き寄せたのは、第一皇子のシンフォニーだった。
「驚かせちゃいましたか。あんまり身を乗り出していたので、危ないと言おうとしたんですけどね。」
苦笑いを浮かべるシンフォニー。
「取り乱しました……。」
シャルローナは平静を装おうとはしているが、顔に浮かんだ汗を隠すことができない。
「シャルル?」
落ち着いた声音が、自分の心に再び安らぎを与えていく。
シンフォニーはシャルローナの腕を放すと、「気をつけてくださいね。」と言い残して、どこかへ去ろうとした。
湖面がさざめいた。
雲が月を隠し、暗さが増した。
少女の纏ったドレスの裾が揺れる。
“行かないで”
(何をしてるの……)
シャルローナは、自分が何故そんな行動を起こしたのか理解できなかった。
まるでシンフォニーを引き止めるかのように。
彼の背中の服を掴んで、寄り添うようにぴたりと頬をあてている自分。
(……誰。)
身体の中に、自分ではない存在を感じた。
焦って離れたシャルローナを、シンフォニーは動じていない様子で振り返る。
その顔には、いつもとは違った、どこか淋しげな微笑みがあった。
「懐かしいですね、シャルル。まだ小さかった頃、私とスウィングが貴方の屋敷に遊びに行くといつも、帰り際に私達の背中を追ってきました。皇宮とロンド家は、そんなに離れている訳でもないのに……けれどそんな時だって貴女は、嫌だとダダをこねて私達を困らせることはなかった。何も言わず、ただ泣きそうな顔をして私達の後を追ってきた。」
シャルローナは、シンフォニーから視線を逸らしたままでその言葉を聞いていた。
「妹のように可愛い存在でしたよ、あの頃の貴女は。」
シャルローナはそこでシンフォニーの視線を受け止める。
襲ってきたのは、不思議な既視感。
震えていることを悟られないように、シャルローナは努めて淡々と言葉を返した。
「今は違うと仰るのですね……。」
「貴女は成長しました。もう私達に手を引かれていた小さな女の子ではない。貴女は貴女の正義を得て、私も私の望みを見つけました。スウィングも昔と同じではありません。」
遠い昔に繋がっていた手は、ゆるやかに解(ほど)けていった。
「周りに望まれる姿であれば、ずっと変わらずに居られると……貴女はそう考えた。」
変わらぬ三人で居られると信じた。
それだけが「三人」で居られる唯一の方法だと思った。
「シャルローナ。」
その声には、いつものような親しみを感じることができなかった。
(遠い。)
思い知る。
自分とシンフォニーの間にできてしまった、どうしようもなく遠い距離。
「時間は過ぎ去るもの。人は変わるものです。私もスウィングも貴女も、あの頃のままではいられない。時を止めるのは不可能です。それは、死者の魂をこの世に引き止めることと同じ事。世界に歪みが生じます。」
シンフォニーの言葉が、自分の中の何かを壊していく。
「……時を止められないことなど、とっくに知っています……っ。」
シンフォニーを見上げた。
その視界が歪む。
「目覚めなさい、シャルローナ。幼い殻は、貴女にはもう必要ない。本当の貴女に目覚めなさい。そうでなければ……。」
シンフォニーはその先を言いあぐねる。
(そうでなければ……?)
「掴まなければいけない真実も、受け止めなければいけない現実も、何も得られないまま過去に囚われてしまいますよ。」
「過去とは、『いつ』ですか? 私が貴方を『お兄様』と呼んでいた頃ですか?」
シャルローナの灰色の瞳が、不安げに揺れる。
その意味を悟り、シンフォニーはゆっくりと首を横に振った。
「いいえ。」
その声は、何かを哀れむような声だった。
「もっと、ずっと昔の話です。」
|
第九章へ戻る |
資料館に戻る |
第十一章へ進む |