ノスタルジア〜紫の刻印〜
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第十一章 むかしがたり |
「美しい森ですね。」
小屋の外にあるテーブルで、何の前触れもなくシンフォニーはつぶやいた。
耳を澄ませば聞こえてくるのは、風の音と虫の声。
テーブルに置かれた二つのランプの灯りが、そこに居る人間達の姿を照らし出している。
「空気がとても澄んでいて、緑の良い香りがする。森は人を受け入れ、人は森を愛している。重く派手な服に身を包んで他人との関係に神経質になっている人間の姿よりも、むしろこちらの方が人間のあるべき姿なんでしょう。ここは冬になると、雪が積もるそうですね。」
「はい。」
マリアは微笑んで答えた。
「彼女に会ったのも、白い雪が地面を覆いつくした森でした。アナスタシア……リグネイ皇帝だった頃の私の、最愛の女性です。」
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“アナスタシア”
懐かしく、たまらなく愛しい人に呼ばれた気がした。
呼び返したいのに、呼べない。
(だって彼の名は)
切なさで胸が締め付けられる。
(彼の名は)
違う。
自分が知る名前じゃない。
じゃあ“誰”が知っているのか。
心がざわざわと騒いだ。
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☆ |
「ちょっっっ、と待て!!」
クィーゼルがシンフォニーに待ったをかけた。
「さっき、『リグネイ』って言わなかったか?」
「言いましたよ。私は、リグネイ帝国最後の皇帝でした。」
シンフォニーは、オルヴェル帝国の第一皇子である。
それは揺るぎようがない事実だ。
そのシンフォニーが、リグネイ帝国の皇帝?
第二皇子のスウィングが確かめるように尋ねる。
「リグネイ帝国って、三千年前に滅んだリグネイ帝国?」
「そうです。」
「そうですって……だって兄さんは……。」
リグネイ帝国とは、三千年前にこの大陸にあった古代大帝国の名前である。
治めていたのはグリーシュ家。セレンやハーモニアの先祖である。
リグネイ帝国が滅んだのと同時期に、大陸に渡ってきたのがソルフェージュ家の治めるオルヴェル帝国。
スウィングやシンフォニーの先祖である。
オルヴェル帝国は大陸名をオルヴェル大陸と改称し、リグネイに代わってこの地を治め始めた。
それから三千年。
リグネイ帝国最後の皇帝なら、三千年前の人物である。
「さすがに、今の私ではありませんけどね。」
「どういう意味だ?」とクィーゼル。
「私の前世が、リグネイ皇帝なんです。私にはその頃の記憶もある……厄介な事です。」
シンフォニーは机に両肘を立てて胸の前で指を組むと、憂いを帯びた表情で話を続けた。
「リグネイ帝国第54代皇帝、ルクレティウス・ヴィア・グリーシュ。強欲で野心家の人間でした。ルクレティウスの帝位継承権は十七位。このままでは皇帝になれないと悟った彼は、伯父、自分の父や兄弟さえ手にかけ、最終的に玉座を奪い取った。皇帝として即位してからも彼の欲はなくなる事はなく、周辺にあった小さな国々をもリグネイに呑み込ませ、あっという間にリグネイを世界の覇を争うほどの大強国にした。そういう意味では、彼は皇帝の器があったのかもしれません。けれど、彼は決して名君ではなかった。」
誰もが、シンフォニーの口から次々に出てくる言葉を信じられずに聞いていた。
そうなのだとすぐに納得するには、スケールが大きすぎるのだ。
「ある時、彼は小国に攻め込んだ。緑の美しいその国は、リグネイの前にたやすく倒れました。そこで彼は、ある美しい娘を見初めたんです。それが、アナスタシア。ルクレティウスは、彼女の見ている前で婚約者だった男を斬り殺し、嘆く彼女を無理矢理自分の妃にした。……最低な男です。」
「違う……。」
そのつぶやきは、シャルローナの方から聞こえた。
よく見ると、シャルローナはわずかに汗ばみ、小さく震えている。
「シャルル?」
スウィングの声に、シャルローナは我に返るように大きな瞬きをした。
「な…なんですの?」
「大丈夫?」
「私、何か……?」
「おいおい、熱でもあるんじゃねーの?」とクィーゼル。
「い、いいえ、平気よ。続けて、シンフォニー様。」
マリアは静かに席を立ち、小屋へと消えていった。
「ルクレティウスには既に沢山の妃が居たんですが、アナスタシアは彼の一番の寵妃になりました。しばらくして、彼女は皇子を産みました。しかし産後の肥立ちが悪く、そのまま死の床に伏してしまった。ルクレティウスはアナスタシアを救うために、帝国中の医者を集めた。彼にとって、アナスタシアは無二の存在になっていたんです。彼女を回復させるためなら見境なく何だってした。禁忌を破ることさえも。」
エルレアは何かに気付いたように小さく息を飲んだ。
―――全ては、天が私達一族に下された罰
それはハーモニアの言葉だ。
「……グリーシュの“罪”。」
シンフォニーは、静かに言葉を発したエルレアを見て頷いた。
その紺色の瞳はランプの光を映して、不思議な輝きを帯びている。
「それが私の過去です。今度は私から質問をしましょう。君はどうして、私の左腕の模様を知っていたんですか?」
ニリウスは、シンフォニーの視線をまっすぐに受けながら答えた。
「言えねえ。」
“狩人”と“贄”の話は、グリーシュの最重要機密だ。
ニリウスがそれを軽々しく口にしない理由は、エルレアにはすぐに分かった。
するとシンフォニーは、ニリウスの考えを読んだように言った。
「“狩人”と“贄”の儀式は、グリーシュ家が必死になって隠し通そうとしている事。それをソルフェージュ家の私に話すのは気が引ける。おおかた、そういう所ですか。」
「!!」
「その反応を見ると、やはり知っているようですね。言ったでしょう、私はリグネイ帝国皇帝の記憶を持っています。皇帝ルクレティウスは、罪を犯し罪人の印を身体に刻まれた。それがこの左腕の模様です。儀式を内密にするようにしたのは、前世の私。むしろ、部外者であるはずの君が“狩人”や“贄”を知っている事の方がおかしいんです。君は、グリーシュの使用人ですか?」
「ああ。」とニリウス。
「グリーシュ家はこんな若い使用人にまで秘密をばらすようになったんですか? きちんと信用が置けるかも分からないでしょう。」
シンフォニーは、諌(いさ)めるような視線でエルレアとセレンを見た。
「さっき……『エルレア』と言ってましたね。それじゃあ、貴女が次の“狩人”ですか?」
シンフォニーの左腕の文様は、今は亡き“エルレア・ド・グリーシュ”に表れた文様と同じだという。
“エルレア・ド・グリーシュ”は、その文様が表れた事で“狩人”になった。
“狩人”に選ばれた者は、兄弟姉妹の命を“贄”として天へ捧げなければいけない。
シンフォニーの視線が、エルレアからセレンへと移る
「儀式はまだのようですね。」
「儀式って……なんですか?」
セレンがシンフォニーに尋ねる。
「セレンは、“贄”ではありません。私も、“狩人”ではない。」
シンフォニーが何事かを口にする前に、エルレアが声を発した。
エルレアは、オパールを出てから悩んでいた。
セレンは、自分に血の繋がった姉“エルレア”が居たことを知らない。
彼女に関わるグリーシュ家の秘密も、まだ知らないはずだ。
いつかは知らなければいけない。
それなら、その「いつか」を待てばいいではないかと、後回しにしてしまっていた。
シンフォニーを探す旅の中で、グリーシュ家の“罰”を終わらせる手がかりが見つかればと思っていた。
そしてシンフォニーの話が本当だとすれば、これは間違いなく大きな手がかりなのだ。
セレンを蚊帳の外にしておく必要があるだろうか。
「姉様。さっきから“狩人”、“贄”って言葉が何度も出てきてるけど、何なの?」
「お嬢……。」
クィーゼルが、不安そうな顔でエルレアを見ていた。
エルレアはシンフォニーを見据える。
話すべきか否か。
皇帝は、グリーシュの秘密を暴こうとしている。
そして目の前にいるシンフォニーは、皇太子。スウィングよりも皇帝に近い位置にいる人物だ。
シンフォニーが失踪した時、皇帝はシンフォニー捜索に動かなかった。
それは、シンフォニーの失踪が皇帝の計画の一つだったからという可能性もある。
今もまだ皇帝と裏で繋がっていると考えるのは、難しいことではない。
しかし、それにしてはシンフォニーは知りすぎていた。
“狩人”、“贄”、“儀式”。
それに、何より驚いたのがリグネイ皇帝の話である。
彼の話は、今まで自分が手に入れてきた情報と余りに符号が合う。
ここまで周到な嘘が、何も知らない人間に作れるのだろうか?
いや、というよりも皇帝が求めている情報は、シンフォニーの中に既にあるのだ。
(皇帝は、スウィングと“エルレア”の婚約を取り決めていた。だが……)
シンフォニーの失踪によって、その婚約は破棄されようとしている。
それは、グリーシュの秘密を知ってしまったからかもしれない。
(これは多分、賭けだ。)
もしもシンフォニーの言葉が本当なら、これはグリーシュにとってまたとない好機。
しかしもしも皇帝とシンフォニーが既にグリーシュの秘密を知っていて、その確証を得るために動いているのだとしたら、これから自分がしようとしている事はグリーシュの存亡に関わる危険な事だ。
落としていた視線を少し上げると、スウィングと瞳があった。
彼は真剣な表情で小さく頷く。
大丈夫だ。
彼の青い瞳を見ると安心できた。
きっとどんなことになっても、彼がいるなら。
「私はグリーシュの養女です。」
エルレアはシンフォニーを見て言うと、セレンの方に視線を移した。
「セレン、今から言う事を落ち着いて聞いてほしい。お前にとっても大事な話だ。」
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