ノスタルジア〜紫の刻印〜



第十二章 追憶の景色




「どうぞ。」


 マリアはシャルローナの前に、一杯のお茶を置いた。


「カモミールのお茶です。リラックス効果や精神安定の効果があるんですよ。香りだけでも試してみてください。」


 そして、自分の椅子へと戻っていく。


 シャルローナは、マリアの出したハーブティーを一口だけ喉に通した。






 全てを知ったセレンの頬を、音も無く一筋の涙が伝った。


「セレン。」


 気遣うようなエルレアの声で、やっとセレンは自分の涙に気付く。


「あ……ごめんなさい、僕……。」


 無理も無い、とエルレアは思った。


 自分の一族に伝わる忌まわしい儀式の存在。

 更には自分には血の繋がった姉がいて、その姉は自分を生かすために死を選んだ。

 平静を装ってはいるが、実姉の“エルレア”に似て心根の優しいセレンには衝撃が大きいのだろう。

 焦って涙を拭ったセレンだが、後から後から涙は溢れてくる。


 エルレアは左手をセレンの髪に当ててわずかに思案した後、セレンの頭を自分の肩に引き寄せ、その背中を撫でた。


「ね……、姉様っ?」


 動揺と恥ずかしさで、セレンは真っ赤になる。


「安心しろ。」


 エルレアはゆっくりと囁いた。


「私もお前の姉だ。お前の背負うものは私も一緒に背負う。一人じゃない。」


 その言葉一つ一つが、セレンの身体の緊張を解いていく。


「うん。」


 セレンと共にエルレアの話を聞いていたシンフォニーの顔からは、いつもの笑みが消えていた。

 代わりに何か考え込むような表情を浮かべていた彼だが、わずかの空白の後に口を開く。


「エルレア・ド・グリーシュ。確認ですが、貴女にはグリーシュの血は流れていないんですね?」

「はい。」とエルレア。

「グリーシュに養女として入ったのは何年前ですか?」

「十年ほど前です。」

「その前は、どこの家に?」

「記憶が曖昧ですが、父と……沢山の兄弟姉妹がいたのを覚えています。」

「……なるほど。貴女がここにいるのは、何のためですか?」

「グリーシュに課せられた“罰”を終わらせるには、閉じこもっていては何も始まらないと思いました。」


 シンフォニーは頬杖をつき、エルレアを見て目を細める。

 尊大にすら見える態度なのに、彼がすると妙に似合っていた。


「何故、貴女が動かなければいけないんですか? 貴女には関係のない事でしょう。」

「兄さん!」


 スウィングが思わず声をあげる。


「関係がないとは思わない。思えない。私はただ、自分の近くにいる存在を失いたくないだけです。それは、そんなにおかしな事ですか?」


 セレンが、姉を見上げていた瞳を見開いた。

 シンフォニーは、そこでふ、といつもの柔らかい微笑みを浮かべた。


「いいえ。」


 そして、シンフォニーは優しげな瞳のままでエルレアをじっと見つめた。

 瞳の奥。

 その奥底まで見通して何かを探しているような視線にさらされ、エルレアはわずかに不審げに目を細めた。


「何か?」

「なるほど、瞳の色はそっくりですが……きっと、貴女はお父上似なんでしょう。」


 エルレアは軽く首を傾げる。


「さて……何か聞きたいことがありますね、マリア。」


 シンフォニーの声に、全員の視線がマリアに集まった。


「はい……。けれど、日を改めさせていただけますか? 私も……まだ心の準備ができていないんです。」


 遠慮がちにマリアは言う。


「それじゃあ、今日はここでお開きにしましょう。続きはまた明日。」


 シンフォニーは席を立って、小屋へ歩き出した。

 しかし、皆の張り詰めた一瞬の空気に気付いて立ち止まる。


「ああ、安心してください。いまさら逃げたりはしませんから。」


 そうしてシンフォニーが去った後、マリアは皆の使ったカップを持って、炊事場に消える。




「オルヴェル帝国の第一皇子の前世が、オルヴェルから国を奪われたリグネイ帝国の皇帝……。」


 クィーゼルは、ぽつりとそこまで言うと何かに気付いたように小さく息を飲んだ。

 エルレアがその先を引き継ぐ。


「シンフォニー殿下はオルヴェルの皇太子。次代のオルヴェル皇帝だ。リグネイ皇帝の立場で考えれば、オルヴェル皇帝の座に着くという事は、帝位を奪い返すという事。」

「けど兄さんが皇宮に戻らないなら、兄さんは帝位継承権を放棄した事になる。」


 エルレアはスウィングを見て言う。


「恐らくそれが鍵なんだ。ソルフェージュ家から見れば、自分達に恨みを持っているだろうリグネイ皇帝がオルヴェルの皇帝になるのは避けなければいけない。だから、シンフォニー殿下は皇宮から姿を消したんじゃないか?」

「そうだよ! あたし達肝心な事をまだ聞いてないじゃないか。第一皇子がここまで来た理由は何だったんだ?」とクィーゼル。

「分からない……明日、聞くしかないだろうな。」


 エルレアは顎(あご)の辺りに軽く指を当てて、考え込むように視線を落とした。


「だが、さきほど話された事に関係している可能性は高い。それに殿下の話を聞いていると、リグネイ皇帝とシンフォニー殿下は、同一人物ではないと、私は感じた。記憶を共有しているだけ……のような。」


 シンフォニーはリグネイ皇帝を「彼」と呼んでいた。

 言葉の端々には、リグネイ皇帝を嫌っているような印象すら受けた。


「エルレア。君は兄さんの中に、リグネイ皇帝の意思みたいなものが残ってると思うの?」

「確信はないが……。」

「そーいうのを今どうこう言っても始まらないだろ。明日まとめて第一皇子に聞こうぜ。」


 クィーゼルは疲れきった声でそういうと、マリアが入っていった裏口の扉を開いて小屋の中に消えた。

 スウィングはシャルローナを心配そうな表情で覗き込んだ。


「シャルル。」

「何? スウィング。」

「平気?」

「……ええ。」


 シャルローナがひどく沈んでいるように見えるのは、シンフォニーを連れ戻せずに落ち込んでいるせいか、とエルレアは言葉を交わす二人の様子を見て思った。








 その夜は、マリアに部屋を案内され、思い思いの場所で眠りについた。

 小屋には寝室に使える少し広い部屋と、小さな部屋が一つずつあり、小さな部屋ではシャルローナとエルレア、クィーゼルが、大きな部屋ではスウィング、ニリウス、セレン、そしてシンフォニーが眠ることになった。

 クィーゼルはすぐに寝付いたが、シャルローナは長い間寝付けずに居たようだ。

 ようやくシャルローナの方から静かな寝息が聞こえ始めても、エルレアは眠れずに居た。


(胸騒ぎがする。)


 音を立てて誰かを起こしたりしないように、細心の注意を払いながらエルレアは小屋を出た。





 月明かりが綺麗だった。

 森の黒い木々を揺らす涼しい風が、心地よい。

 まるで誘われるように、エルレアは足を踏み出していた。





「もう! イザヤってばどーしてそんなにノンキな訳ぇ!?」

「ソニア。心配をかけた事は謝るよ。けど……。」

「! 誰か来たわ!」


 エルレアが歩いていった先には、開けた場所があった。

 大きな湖がある。

 その湖のほとりに、二人の人間が居た。

 一人は、ちょうどシンフォニーと同じ年頃と思われる青年。もう一人は、光を放つような白い服に身を包んだ少女だった。

 少女の方はエルレアの姿を認めるや否や、きつい顔で睨んでくる。


「お客さんかな?」


 青年はエルレアの方に顔を向けた。

 その瞳は閉じたまま、静かに言葉を続ける。


「マリアから話は聞いてるよ。すまないね。僕もそちらに顔を出せればよかったんだけど……」

「ダメ! 絶対許さないから!」


 ソニアと呼ばれた少女が、高い声を張り上げる。

 エルレアはじっとソニアを見た。


「……何? 何でこっち……ああああああ!!」


 耳がつんざけんばかりの高音域の叫び声が響いた。


「ソニア? どうした?」

「見えてるんでしょ!? 私のこと。だってその目……。」


 その言葉に、青年の顔にも緊張が走った。


「君の目の色……緑色かい?」

「……はい。」


 青年の目が不自由な事に、エルレアは気付いた。

 青年は、言葉を失くしたような様子で立ち尽くしていた。


「あの…?」

「ああ、いや。僕はイザヤ。マリアの兄だ。この子はソニア。よければ、こちらに来てもらえないか?」


 エルレアはイザヤと名乗った青年の目の前に立つ。

 イザヤは、黒く長い髪を後ろで束ねていた。


「嫌じゃなければ……顔に触らせてもらってもいいかな?」


 盲目の人間が他人の顔の形を手で触って知るのは、よくある話だ。


「構いません。」


 イザヤの細い指が、エルレアの顔を包んだ。

 そしてその指先は、額、目、鼻、口、輪郭、と辿り、やがてその動きを止める。


「綺麗な顔だ。けれど痩せているね。ちゃんとご飯は食べているかい?」

「……はい。」

「髪の色は?」

「金色です。」


 イザヤの伏せられた瞼(まぶた)が一度だけぴくりと震え、頬に触れていた手が離れていく。


「……ありがとう。」

「いいえ。」


 エルレアは子供のようにじっとイザヤを見つめていた。


「名前をまだ聞いていなかったね。」

「……エルレアです。」

「そう、エルレア……響きの優しい、良い名前だ。でも君にはもう一つ、名前があるんじゃないのかな。」

「……。」


 エルレアは意味深な青年の発言に身構えた。

 しかし青年はそんなエルレアの雰囲気に気付かない振りで、確かめるように言った。


「歳は、17のはずだ。僕の記憶が間違っていなければ。」


 ここでエルレアは、「記憶?」と聞きかけた。


 しかし、それを口にする前に出会ってしまった。


 さっきまで閉じられていたイザヤの瞳……そのまぶたの裏から現れた、深い緑色の目に。



 その目をよく知っていた。



「覚えてるかい? 淡雪の降る朝、僕達は小さな君を見送ったね。」


 彼は泣きそうに微笑んだ。


「残念だよ。こんなに見たいと願っても、僕は成長した君の姿を見ることはできない。」


 エルレアは、目の前の人物から目を離せなくなっていた。


「そん……っ、な……。」


 彼女は、明らかに動揺していた。





 黒く長い髪。いつも優しくかけてくれた声と言葉。

 自分とよく似た、深い緑色の瞳。

 何度も、微笑みかけられた。

 変わらないもの。




『行っておいで』




 自分の名前も忘れた昔の記憶。

 呼び方も忘れた、その人。




「兄、様……?」




 ぎこちなくそう呼ぶしかなかったエルレアを、イザヤは抱きしめた。


「おかえり、カノン。」





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