ノスタルジア〜紫の刻印〜
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第十三章 乱れる心 |
スウィングは今、酷く後悔をしていた。
そもそも自分は、どうして彼女の後をつけてしまったのか。
誰かの気配を感じて起きると彼女の後姿が見えて、こんな夜中にどこに行くのかと気になって、つい黙ってついてきてしまった。
そう、つい、だったのだ。
まさか、こんな光景を見ることになるとは思わなかった。
(あれは誰だ?)
エルレアとしばらく会話をした後、彼女をおもむろに抱きしめた黒髪の青年。
一瞬、兄のシンフォニーかと思ったが、兄よりずっと長い髪に違うと分かった。
エルレアの知り合いなのだろうか。
二人からかなり離れた位置にスウィングは隠れていたため、二人の会話は聞こえてこなかった。
エルレアは彼との逢瀬(おうせ)のために、一人コソコソと小屋を出て行ったのだろうか?
青年が彼女を抱きしめた瞬間、スウィングはとっさに出て行こうとした。
彼女が無理矢理そうされたと思ったからだ。
だが、彼女は一向に嫌がる素振りを見せない。
それどころか、今は青年の背中に手を回しているのだ。
彼とエルレアは、一体どういう関係なのか。
月と星の下で抱き合う青年とエルレアは、一枚の絵のように幻想的だった。
そこで食い入るように見つめてしまっていた自分に気付いたスウィングは、自己嫌悪に陥った。
だがそれさえすぐに考えられなくなるほど、スウィングの心はかき乱されていた。
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☆ |
混乱している。
そう自分でも分かった。
この森は、かつて自分が、家族と住んでいた森だった。
まだ、『エルレア・ド・グリーシュ』になる前の自分が。
目の前に立つ長い黒髪の青年は、幼い自分がよく懐いていた二番目の兄。
二番目の兄の名前は、イザヤ。
―――「僕はイザヤ。マリアの兄だ。」
マリアは、皇宮を出たシンフォニー殿下と行動を共にしていた女性。
波打つ金色の髪の、そういえば、淡い緑色の瞳をしていた。
彼女は、間違いない。
この森を去る日、泣きながら抱きしめてくれた、自分の実の姉。
けれど、姉はあんなにも小柄な人だっただろうか?
家に母は居なかった気がする。だから家の中の事は、主に姉がこなしていた。
姉は何でもできる、強くて大きな、たくましい人だった。
そう思っていた。
森の中の小屋も、記憶の中の物よりずっと小さかった。
「小屋」と言っても、沢山の兄弟達と一緒に暮らしていても窮屈に感じないくらいには広かったはずだ。
(私自身が成長したのか……。)
追憶の中の景色と、今瞳に映る景色が同一であると思うには、視線の高さも感じるスケールも違いすぎていた。
何よりも昔と違ったのは、圧倒的な存在感を持っていた人物の不在である。
イザヤは、何も言わずにエルレアの頭を撫でていた。
その横では、ソニアが不満そうな顔で二人の様子を見守っていた。
雪のように心の底に降り積もってしまう、聞きたいこと。
どうして兄は、視力を失ってしまったのか。
今、どうやって暮らしているのか。
沢山居た兄弟たちは、今どうしているのか。
姉は、どうして森を出て働いていたのか。
母は、どんな人だったのか。
父は、今どこに居るのか。
だが、一つ聞いてしまったら、後から後から際限(さいげん)なく質問をしてしまいそうだった。
「変わらないね。」とイザヤは言った。
「君は小さい時も、我慢するのが人一倍得意な子だった。世の中には、耐えなくていい物事も、時も、あるんだよ。」
「私が、何か我慢しているように感じますか?」
「うん。さっきから息を吸っては止め、を何度か繰り返してる。それは、何か言おうと決心して息を吸って、けれど、言ってはいけないと思いなおして言葉を飲み込んでいるんだろう?」
そうして、イザヤは昔と同じような笑顔を浮かべた。
「マリアは忙しいかもしれないけれど、僕はのんびり暮らしているから時間の許す限り君に付き合える。いつでも遊びに来なさい。」
「あー! 私にはそんな事言ってくれなかったー!」
横にいたソニアが唇を突き出す。
「わざわざ言わなくたってソニアはよく顔を出すじゃないか。」
エルレアはその時、湖の傍に物置小屋のような小さな建物を見つけた。
恐らくあれが、イザヤが寝起きしている場所なのだろう。
「今何か、僕に言いたい事はある?」
エルレアは、とっさにやっぱり息を吸い込んだが、「いいえ」とだけ答えた。
イザヤは、そのエルレアの躊躇(ためら)いすら察したかのように、わずかに苦笑を浮かべるのだった。
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