ノスタルジア〜紫の刻印〜



第十六章 森の家族の物語




 両親が死んだ時のことは、よく覚えている。


 母は病床で、いつも父と子供達の事を案じていた。

 その時一番幼い子供だったカノンのことは特別気がかりだったらしく、涙を流して病弱な自分を責めていた。


「お母さん。カノンの目は深い森の緑よね。イザヤより濃い色だわ。」

「そうですね。」


 母の瞳も兄より深い緑だったが、マリアが抱いていた幼い妹の瞳は母の瞳よりも少しだけ深い色をしていた。

 母は妹が生まれた日、父と真剣な顔で話をしていた。

 巻き込まれる……という母の声が、いやに耳に残っていた。


「マリア。この子の事、よく見ていてほしいんです。本当なら、私が傍にいて色んな事を教えなければいけないんですが、それはできそうにないから。貴女に教えた事を、この子にも教えてあげてくださいね。」


 母はそれから数日後に息を引き取った。

 父は森の中で、小屋よりも更に奥にある開けた場所に、母を葬った。



 カノンが貴族に引き取られてしばらくすると、今度は父が病に倒れた。

 どうして妹を手放してしまったのか、どこに貰われていったのか、母や自分の出自さえ、父は何も話さないままこの世を去った。

 その時知っていたのは、母がセインティア人だという事だけだった。

 父の出自を知ったのは、父の遺品を整理している時だった。

 遺品の中に、古ぼけた一枚の紙があった。

 酷く不恰好(ぶかっこう)な字で数行、何かが書かれていた。


 父は、とても厳しく乱暴な人だった。

 だが、仕草や所作の中に、雰囲気では隠しきれない育ちの良さが時折垣間見えた。

 父の書く字は流麗だった。

 だから紙に書かれた文字は父の字ではないとすぐに分かった。


 父が大事そうに隠していたその紙は、多分オルヴェルの字を知らなかった母が、覚えたてのオルヴェル語を書いたものだったのだろう。




 ジャンヌ・ディスティン・サー・カーディナル

 ソリスト・ジュスト・ツェールトリヒ・ド・リズム・ソルフェージュ



 イザヤ・ルーシャン・ド・カーディナル・ソルフェージュ

 マリア・ルーシャン・ド・カーディナル・ソルフェージュ

 カノン・ルーシャン・ド・カーディナル・ソルフェージュ




 マリア達は、森の近くにある小さな村の学校に通っていた。

 この国がどういう国で、この世界がどういう仕組みで自分達がどういう立場の人間なのか、そこである程度なら教えてもらっていた。

 オルヴェルとセインティアの皇族の家名など、誰もが当たり前のように知っていた。

 自分達の家名は「ルーシャン」で、ドルチェの森で暮らす木こりの家族だった。


 父の名はアルベルト・ルーシャン。母の名はジャンヌ・ルーシャン。


 最初のジャンヌから始まる名前は、母のセインティアでの名前なのだろうか?

 まさか母は、セインティアの皇族の人間なのか?

 もしそうだとしても、その次の名前は何なのか。


 何故、ここに失踪した皇子の名前があるのか。


 この国では、彼の名前はタブーに近いもののはずだ。

 しかし、二つの名前の下に並べられた自分達の名前で分かってしまった。

 続けられた二つの家名は、自分達の親の生家を表す。


 マリア自身、父親のふとした所作に違和感を感じていたのだ。


 そしてソリスト皇子の名前は、マリアがその違和感の理由として納得するには十分すぎるものだった。

 つまりは、アルベルトと名乗っていた自分の父親は、行方不明になっているオルヴェル帝国の元皇子ソリストであり、母親はセインティアの皇族だった。

 その二つの事実は、マリアとイザヤに少なからず衝撃を与えた。


 けれど、その動揺は兄弟達と一緒に父を埋葬し終わる頃には、もうある程度収まっていた。

 父も母も、家名を隠して生きていた。


 二人は、自分達の家名を捨てたかったのではないか。

 ならば、それをわざわざ自分達が掘り返す必要はない。


 しかしマリアは、考えずには居られなかった。

 父が、自分達の名前が記された紙を残していた意味を。



 ソリスト皇子は、失踪前に結婚していた。

 子供も二人居た。


 自分達は、言ってみれば後妻の子供のようなものだ。

 もしかすると父は、最期まで昔の名前を捨てきれずに居たのかもしれない。


 気がかりだった?

 愛していた?


 昔の家族の事を。



 マリアには、父の昔の名前が、父と前の妻やその子供達を繋ぐ唯一の絆のように思えたのだ。


 多分母も父と同じように、完全には名前を捨て切れなかったのだと思う。

 つける必要の無い二つの皇族の家名を、母は子供達3人の名前の後ろにつけていた。


 母は、血の繋がりなど気にしなかった。

 子供は母の生きていた頃5人居たが、どの子供も分け隔てなく愛し、分け隔てなく叱った。


 そんな母が、あえて血のつながりのある自分達にだけつけていた二つの家名。

 それは皇族として、皆に崇められて生きろという生易しい意味ではなく、自分達が何か名前に絡んだ、とてつもなく大きなものを背負っているのだという母からの警告のように思えた。







「両親が亡くなって、私たちは自分たちが、両親から守られていたことに気付かされました。ドルチェの森は、とても綺麗な森ですが……大きな獣も棲んでいますし、危険な場所もあります。その事をよく知らずに、弟の一人が食材を探しに森の奥深くにまで入ってしまいました。」


 マリアは苦しげな顔で話を続けた。


「そして事件が起きてしまい、私とイザヤはタムトの腕輪を解放しました。イザヤが視力を失ったのも、その事件が原因です。解放した力のお陰で、この森も随分安全になりました。私達は植物と意思疎通ができるようになりましたから。」


 マリアは、血の繋がった妹である少女の瞳をじっと見つめた。


「けれど、心配でした……貴女は、自分の能力も自分が誰の子供であるかも知らずに成長してしまう。そしてもし父や母の事が明るみに出てしまった場合、貴女はきっと自分の身を守る術を知らない。その能力をよからぬ人間に利用されてしまうかもしれない。」

「マリアは、君を探すために森を出たんだよ。」


 イザヤが微笑んで言った。


「イザヤより二つ年上の一番上の兄が料理の腕を買われ、アルザス公爵家で働いていました。カノンが貰われていったのは貴族だと知っていたので、探すなら貴族の屋敷で働くのが一番だと思って、兄に口添えをしてもらい雇っていただきました。そこでシンフォニー様にお会いしたのは偶然です。でもまさかカノンがグリーシュに貰われていたなんて……思いもしませんでした。」

「グリーシュは、ソリスト皇子に縁の深い家だからなぁ。」とニリウス。

「けど、おかしくねぇか?」とクィーゼルは眉間に皺を寄せる。

「お嬢を養女にするって言い出したのはグリーシュの奥方、つまりソリスト皇子の娘で、それを許可をしたのはソリスト皇子だろ? 奥方が直々にここに来る事はなくても、グリーシュの古株の執事辺りが挨拶に来てるはずだぜ。そういう奴らはソリスト皇子の顔を知ってる。いくら面やつれしたりしていたとしても、ソリスト皇子に気付かない訳がないと思うんだがな。」

「グリーシュの応対をしたのは、僕だよ。」


 イザヤの声に、クィーゼルが振り向いた。


「父は人間嫌いだったからね。来客がある時は兄弟が応対するのが普通だった。父と話をする人間はごくわずかだったよ。」


 それは、接触する人間を極力減らすための父の演技だったのかもしれない。


「グリーシュ側も事を公にしたくなかったのか、仲介していた僕達にも相手が貴族だという事しか分からなかった。」


クィーゼルが腕を組んで難しい顔をする。

「それでも、よく見つからなかったもんだな……いくら山奥に引きこもって暮らしてても、誰かしら気付きそうなもんじゃねぇか?」

「母が、父を守っていたんです。」


 クィーゼルは、その言葉の意味を問うような視線をマリアに送った。


「ドルチェの森は母に頼まれ、父を守っていました。この森は、父の最高の隠れ蓑になっていたんです。」

「何でもできるんだな……。」

「……いえ、そうでもないですよ。実際、私はシンフォニー様を貴方がたから完全には隠しきれませんでした。」

「あ、そういえばそうだな……。」

「けれど、シンフォニー様が私と一緒にこの森までいらっしゃったのは、ここに隠れるためではなくて、他に理由があるからなんです。」

「そうだ! それが分からないんだよ。あたし、まだあんた達が居なくなったのは駆け落ちか何かだと思ってるんだけど。」

「ち、違います!!」


 マリアは顔を真っ赤にして否定した。

 その様子を見て、シンフォニーはマリアの隣で困ったような、残念そうな顔をする。


「残念ながら、私の片想いみたいです。」

「シンフォニー様! こんな時までご冗談はやめてください!」

「じゃあ、何のためだよ?」


 クィーゼルの問いに、シンフォニーは真剣な瞳で答えた。


「この身に巣食う者を封印するためです。」


 スウィングがその言葉に反応する。


「……昨日話してた、リグネイ皇帝のこと?」

「ええ。彼を私の身体の中に入れておくのは、少々危険なので。」


 強欲な野心家。

 そういう人物が次期皇帝の人間の中に居るのは、確かに危険だろう。


「具体的に、どうすればいいのかは分からないんですが……ソニア様に聞けば、何かが分かると思ったんです。」とマリア。

「ソニア?」とクィーゼル。

「あ、ソニア様と言うのは、この湖の精霊です。カノンにも見えるでしょう?」

「はい。」と金髪の少女。

「その事なんだけどぉ、何か思い出せそうなのよ。」

「本当ですか? ソニア様。」

「うん。えっとぉ。三千年前でしょー?」



 水面が揺れる。



「う……っ!」



「シンフォニー様!?」



 突然左腕を押さえて痛みをこらえるような表情をするシンフォニーに、マリアが駆け寄った。

 続けざまに周囲に響いたのは意外な声だった。



「シャルローナさん!!」



 青ざめたセレンが叫んだ方向には、シャルローナが居た。

 ふらふらと吸い寄せられるように湖に近づいていく彼女の視線の先には、ソリスト皇子と同じように水の上に結ばれた像があった。

 長い茶色の髪をなびかせた美女。

 着ているドレスが酷く古風で、紫色の瞳が妖艶に光る。


「シャルローナさん! 危ないです!」


 近くに居たセレンがとっさにシャルローナの腕を掴んで引きとめようとしたが、小柄なシャルローナと言えど十六歳。十一歳のセレンとは明らかな体格差があり、逆にセレンの方が引っぱられて前につんのめった。

 その時セレンは、シャルローナの小さな声を聞いた。



「ルクレティウス……」



 うわ言のように呟かれたその名前に、セレンはハッとする。

 そして、弾かれたように足をすばやく前に踏み出してバランスを取り戻すと、シャルローナを抱えるように腕を回して勢いよく地面を蹴った。


 セレンに体当たりされたような形になり、シャルローナはよろめいた。

 そのままシャルローナの身体は後ろに傾(かし)ぎ、ふっと力が抜けたようになる。

 セレンはその崩れ落ちる身体を支えるように抱きしめていた。


「セレン! 大丈夫か?」

「僕は……でも、シャルローナさんは……。」


 シャルローナはセレンの腕の中で気を失っているようだった。


「……アナスタシア。」


 苦しげな息のシンフォニーが水面の上の女性を見て、喘ぐように言った。





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