ノスタルジア〜紫の刻印〜



第十七章 三千年前の記憶




 ルクレティウスは、いつも優しく抱きしめてくれた。



 彼には確かに、周りの人間が畏怖してしまうような残忍さがあった。

 尊大で強引な所もあったし、彼の身勝手な部分を軽蔑していた時期もあった。


 ある日彼はいつものように横柄な態度で、茶を持って来いと言うような軽さで「俺と結婚しろ」と言ってきた。


 きっと普段から、何気なく彼が口にする言葉も、彼の側近達には逆らいがたい命令になるのだろう。

 だが自分は、彼の側近でもなければ使用人でもない。


「力ずくで何でも手に入るなんて勘違いしないで!」

「あのなぁ。この俺が嫁にもらってやると言ってるんだ。それも将来は皇妃殿下。何が不服なんだよ。」

「貴方の。そういう欲深いところが。大嫌い。」


 わざと一言ずつ区切りながら言い捨てて、その場を足早に去った。

 後ろから彼が自分の名前を呼んだ気がしたが、気にしなかった。


 腹が立っていた。

 彼のことが好きだった。

 だから、命令などされなくても彼に結婚を申し込まれれば受けるつもりだった。

 なのに、彼は結婚しろと命じてきた。

 他の事なら許せるが、結婚の申し込みだけは、自分の気持ちをきちんと尋ねて欲しかった。

 自信家の彼のことだ。断られる訳がないと思っていたに違いない。

 権力では思い通りにならないことがこの世にはあると知ってほしかった。







 気を失ってしまったシャルローナと、彼女を抱きかかえるように座っているセレンの前には、茶色い髪の美女の姿が浮かび上がっていた。


 湖の精霊であるソニアがその幻を見せているのかと思ったのだが、ソニア自身が当惑したような表情で湖の上の女性を見ていた。


 シンフォニーが彼女を「アナスタシア」と呼んだ。


「アナスタシア?……誰だったっけ、それ……」


 クィーゼルの言葉に、答えたのはスウィングだった。


「アナスタシア・ヴィア・グリーシュ。昨日兄さんが言ってた、リグネイ最後の皇帝の妃の名前だったはず。」

「で、なんでそいつがあそこに見えるんだよ?」


 金髪の少女が、周りを落ち着かせるような声で言った。


「恐らくだが、ソニア……この湖の精霊が三千年前の事を思い出そうとした時、二人とソニアの間で何か相互作用が起こったんだ。」

「お嬢、何か見えたのか?」

「ああ。湖が光った後、シャルルとシンフォニー殿下も同じように光を放った。だが……」


 そして、少女は何かに気付いたように言葉を切る。


「お嬢?」

「いや……シンフォニー殿下は三千年前の皇帝の生まれ変わりだという事だから、そういう事が起こることも理解はできる気がするが……シャルルまで様子がおかしくなったのは何故かと。可能性として考えられるのは、シャルルも三千年前の関係者だという事だ。それも、アナスタシア皇妃の姿に反応したとすれば、彼女に近しい人物。」

「いえ、彼女は……アナスタシア自身の生まれ変わりです。」


 シンフォニーは呼吸を整えながら言った。

 左腕の文様が痛むのだろうか。指が食い込むほど強く、シンフォニーは自分の左腕を掴んでいた。


「彼女は、前世の私の妻でした。」


 セレンは目の前のアナスタシアから視線を離せないままギュッと、シャルローナの肩を抱く手に力を入れた。







 あの時代、国の辺境にある村が他国からの侵略を受けることは珍しい事ではなかった。


 私の住んでいた小さな村も例外ではなかった。


 ある日突然、平穏な生活は終わりを告げた。

 家や田畑は焼かれ、沢山の人が捕らわれ、殺された。

 家族も友人も所在が分からず、逃げるしかなかった。



 けれど、逃げ切れなかった。



 捕らえられた後は、故郷を蹂躙した部隊のリーダーだった男が、自分をどこか知らない国へ連れて行った。



 美しい国だった。自分を連れてきた男の屋敷で、知識人らしい人間がたどたどしい故郷の言葉で教えてくれたのは、男が自分を気に入り、妻にするつもりでいる事と、その婚礼の儀式が、次の満月の日に行われるという事だった。

 男の屋敷では、その国の言葉や歴史、慣習などを厳しく教え込まれたが、近々主人の妻になる人間という事で丁重に扱われた。

 自分の身に何が起こっているのか長い間理解できずに、気が狂いそうになる時もあった。


 けれど、ずっと一つの名前だけを呪文のように心の中で呼んでいた。


(ルクレティウス。)


 村が襲われた日、彼は遠くの戦場にいた。

 無事だろうか。戦神と謳(うた)われ、国では英雄扱いされていたが、彼だって身体はただの人間だ。刃を受ければ傷つくし、それが深ければ死にも至る。


 村が襲われたことは、もう彼の耳に届いてしまっただろうか。


 動揺していないだろうか。心配をかけてしまってはいないだろうか。

 いや、そもそも皇位継承権のある彼が、村娘の自分の元に足繁く通っていたのは酷く不自然だったのだ。自分との事が興味本位だっただけならば、ルクレティウスは自分の事など忘れて次のお妃候補を探すことにするだろう。


 そう考えてしまうと、心が更に沈んだ。




 満月を明日に控えた日、怒りに染まった黒髪の戦神を乗せた馬の嘶きと荒々しい蹄の音が、美しい王国のすぐ傍まで迫っていた。







 ソリスト皇子とジャンヌ、そしてアナスタシアの幻影は、ソニアが消した。

 湖面にはまた、静寂が戻る。


「……どうする? セレン。」


 そう金髪の少女が聞いたのは、スウィングが倒れたシャルローナを小屋のベッドまで運ぼうとした時だった。

 シャルローナが、セレンの服を掴んで離さないのだ。


「大丈夫。僕もついていくから。」


 気にしていないように笑って、セレンはそう答えた。

 シャルローナを抱えたスウィングと、付き添いのセレンが小屋の方に歩いていくのを見送りながら、シンフォニーは言った。


「彼は、この中でただ一人アナスタシアとルクレティウスの血を受け継いでいる。アナスタシアにとっては、特別な人間と言えるかもしれませんね。」


 そうだ。ルクレティウスとその妃アナスタシアはグリーシュ家の先祖である。

 末裔であるセレンは、きっと子や孫に近い存在なのだろう。

 けれど、そうであるなら。


「シンフォニー殿下にとっても、セレンは特別ですか?」


 シンフォニーは少し驚いたような顔をしたが、金髪の少女に優しく微笑んだ。


「少し懐かしさを感じる程度には特別ですよ。でも貴方もまた特別です。別の意味でね。」


 その意味は、少女にも分かるような気がした。


「少し休みましょう。昨日のこともありますし、きっと皆さん混乱していると思うので。」

「……兄様、姉様。」


 金髪の少女はイザヤとマリアに意を決したように声をかけた。

 二人をまっすぐに見つめて、少女ははっきりとした声で言った。


「今までの事を教えていただいて、ありがとうございます。教えていただいた昔の名前も、大切にしたいと思います。けれど私の今の名前は、エルレアです。エルレア・ド・グリーシュ。そう呼んでいただけませんか?」

「カノン、と呼ばれるのは嫌かい?」


 イザヤは首をかしげながら尋ねる。


「いえ。嫌ではないんです。けれど私はグリーシュ家に迎えられ、エルレアという特別な名前を頂きました。私はグリーシュの人間です。その自覚を常に失いたくないんです。」

「分かったわ。エルレアさん。」


 マリアが寂しげに言うと、


「さん、は要りません。私も、兄様、姉様と呼ばせて頂きます。」


 少しだけ柔らかい声で、少女は言った。


「では、失礼します。」


 軽く礼をして小屋の方に向かう少女を見て、マリアは小さな溜息をつく。


「どうやらあの子は性格も、お父さんに似たみたいね。」


 クスクス、とイザヤが笑った。


「ねーえ? すっかり私の事忘れてるみたいだけど……聞きたくないの? あの島の場所。」


 ソニアが不満そうに呟いた。





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