ノスタルジア〜紫の刻印〜



第二章 北へ





 細い砂利(じゃり)道を、馬車がガタガタという音を鳴らしながら進む。

 空は雲一つなく晴れ、周りには広大な小麦畑が広がっていた。

 本格的な夏に向けて、強くなっていく日差しの変化を感じる。



「あ〜〜〜〜〜。退屈だ〜〜〜〜〜。」



 大きなぼやきが馬車の中から聞こえてくる。

 だるそうな表情を浮かべているのはまっすぐな黒髪が肘あたりまである少女で、その仕草や振る舞い、言葉遣いに品があるとはお世辞にも言いがたい。


「もうどんだけ経ったよ、オパール出てから。」

「二日だ、クィーゼル。」


 冷静な声で答えたのは淡い金色の髪を持つ少女エルレアだった。

 エルレアは、このオルヴェル帝国の上流貴族グリーシュ家に、幼い頃養女として貰われた。以来、養母のハーモニアが与えた名前『エルレア・ド・グリーシュ』を名乗っている。

 クィーゼルと呼ばれたさきほどの黒髪の少女は、このグリーシュ家に代々仕えている一族の娘だ。


「二日〜〜!?まだ半分も経ってないのかよ。」

「仕方ねえだろ。これ以上速く走るのは坊ちゃんの身体に応える。」


 同じくグリーシュ家の使用人である茶色の髪の青年ニリウスが、馬車の隅でぐったりとしている小さな少年を見て言った。

 少年は何とか顔を上げて応える。


「大丈夫……気にしないで……。」


 馬車の中に居る六人の中で一番歳若いこの少年はセレン。

 血の繋がりはないがエルレアにとっては弟で、グリーシュ家の跡取り息子である。

 セレンの母であるハーモニアの用意した馬車に乗ってグリーシュ家のオパール邸を出てから、もう二日経つ。

 もっと正確に言うなら、二日と半日。今日は三日目である。

 休憩や宿を取りつつ向かっているのは、皇都から見て北に位置するドルチェの森。

 皇帝の生誕記念祭の最中に姿を眩ました第一皇子のシンフォニーが、その森へ向かったらしいという情報があったためだ。

 シンフォニー捜索を思い立ったのは、彼の従妹でもある美しい婚約者だった。

 ここに居る人間達は、彼女に付き添う形で旅を続けている。

 その彼女こそ、シャルローナ。オルヴェル帝国の華とも女神とも例えられる、人並みはずれた美貌を持つ少女だった。

 馬車の中でシャルローナは、艶めく赤い髪を揺らしてセレンを見据えた。


「全く、だらしないわね。馬車酔いするくらいなら来なければよかったでしょう。」

「どっかの皇族のお姫様とは違って、グリーシュの人間は遠出するのは滅多にないんだよ。」


 クィーゼルのトゲのある言葉に、シャルローナの眉がピクリと動いた。


「私たちが地方に行くのは公務のためよ。使用人は発想も気楽で羨ましいわね。」

「シャルル、ムキになって思ってもいない事を言うのはよくない癖だよ。」


 諭すように言ったのは、蜂蜜色の金髪が輝く端正な顔立ちの少年だった。

 オルヴェル帝国第二皇子スウィング。失踪した第一皇子の弟である。

 天才的な剣術を操る彼は、シャルローナやエルレアの護衛としてついてきていた。




 予定では、ドルチェの森までは馬車で五日。

 馬車の旅も三日目ともなると、皆の顔には程度の差こそあれ、疲れや焦燥の色が見えた。










「…………………………一番近い街から、歩いて一日。」


 ふぅ、と爽やかな笑顔で汗をぬぐった青年は、あさっての方向を見ながらつぶやいた。


「どれだけ早足で歩けば着いたんでしょうねぇ……。」

「も……申し訳ありませんっっ。」

「いえいえ、人間、間違いをおかすものですよ。ただ、私はまだ平気ですけど、貴方の足は限界でしょう。」

「大丈夫です。きっと、久しぶりで足がびっくりしてるだけですから。」


 そう言った娘の身体が、ふわりと宙に浮いた。


「じゃあ、しばらくこれで。」

「あの、シンフォニー様!? これはシンフォニー様が疲れるんじゃ!?」










 馬車の旅を始めて四日目。

 もう隣からはいがみ合う声すら聞こえてこない。

 どうでもいい話をする気力もとっくに失せて、クィーゼルは隣のニリウスにもたれかかって眠っていたし、シャルローナは視線は落としていたが、背筋は伸ばしたまま彫像のように動かない。

 誰もが、この時間の余りの長さに鬱々としていた。

 ただ馬の蹄と車輪が石にぶつかる音が流れる中、昨日の話をぼんやりと思い出していたスウィングは、向かい側に座って外の景色を眺めている少女に声をかけた。


「エルレアは、どこか遠いところに行ったことはある?」


 金色の髪の少女がこちらを見て、考えるように瞬きを一つする。


「私は……これが初めてだ。スウィングは?」


 落ち着いた低めの声で、少女は答えた。


「シャルルと同じ。公務で色んな所に行ったよ。」

「……どんな所に?」


 まるで物の名前を訊く子供のような声音で少女は尋ねた。

 スウィングは軽く目を見張った。

 こんな風に言葉を交わすのは初めてかもしれない。

 それは彼女が変化したのか、それとも少しずつ現れていく彼女の本質なのか。


「東にある、植物と人間が共生する街とか、水路の発達した西の街とか。」


 興味深げにまっすぐ見つめてくる少女の瞳にドキリとする。

 吸い込まれてしまいそうな、どこまでも深い緑。

 つかの間、その神秘的な色に見惚れてしまっていた自分に気付くと、スウィングはごまかすように笑顔を作った。


「……そうだね、暇つぶしに、あの街の話でもしようか。」









 どうしよう。どうしたらいいの?



 不安だけが次々に溢れてきて、抑えることができない。

 広すぎる森の中を、彼女は周りをしきりに見回しながら進んだ。

 さっきまで、両側には彼女の従兄(いとこ)たちが居た。

 迷ってはいけないからと、手をしっかり繋いで。

 三人の中で、彼女が一番幼かった。


 どうして、こんな事に。


 それは自分のせいだと分かってはいるけれど。

 空を見上げた瞬間、目に入ったモノを追って、思わず一人で駆け出してしまった。後ろで、二人の自分を呼ぶ声が聞こえた気がしたが。

 普段の自分なら、決してしない行動。

 何故私は、一目見てそれに心を奪われてしまったのか。


 あの、虹色の鳥に。


 しかしそれも既に見失ってしまった。

 だんだん冷静になってきた頭で、彼女は考えた。


 こういう時は、動かないほうがいいのかもしれない。

 今頃きっと、従兄たちが自分を探しているだろうから。

 耳を澄ませば、彼らの声が聞こえるだろうか?

 聞こえたら、それを頼りに来た道を戻ろう。


「!?」


 聞こえてきたのは、何かの音。だんだん自分に近づいてくる何かの気配。

 息。踏まれて折れる枝の音。わずかに漏れる低い声。これは。


(獣!!)


 走り出したい。逃げ出したい。なのに、身体が動かない。

 大きな木の幹の影に隠れるようにうずくまったまま、彼女は必死に目をつむり、従兄達の名を心の中で呼んだ。


(あ……。)


 遠ざかっていく。

 再び舞い降りた静けさの中で、彼女はずっと息をひそめていた。

 どのくらいの時間が過ぎたのか、彼女は新たな恐怖におびえ始める。

 暗くなっていく空に、こらえていた涙が滲む。


(消えないで……。)


 光よ。

 暗闇に何もかも呑み込まれてしまうから。

 残酷な夕暮れ。彼女の願いは叶わない。


(誰か来て……。)


 とてもとても……怖いの。


「シャルル?」


 ハッ、と顔を上げると、見慣れた顔が微笑んだ。



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