ノスタルジア〜紫の刻印〜



第三章 ドルチェの森





 湖面に反射する太陽の光で、彼は目覚めた。

 身を起こしてからしばらく湖を眺めていたが、顔に浮かんだ険しい表情は消えない。


(いつまで私は……呪われ続ける。)


 否。そのために。

 終わらせるために、城を出た。


「シンフォニー様? お疲れですか?」


 気遣うような声と共に、緩く波立つ金色の髪の女性が現れる。

 瞳の鋭さを一瞬で消し去り、彼は振り返った。


「マリア。……いいえ、少し嫌な夢を見てしまっただけです。どうしました?」

「あ。昼食の準備ができましたので、小屋の方へお呼びしようと……。」

「ああ、すいません。今行きますよ。」


 ニッコリと笑って返す彼に、マリアはわずかに頬を染めてうつむいた。









 セレンやクィーゼルにせがまれて、スウィングがもう幾つめかも分からない遠方の街の話をし終えた時、前方に、夕空を背に立つ黒々とした巨大な峰(みね)と、その麓(ふもと)に広がる深緑の森が見えてきた。


「あれが?」とエルレアが尋ねる。

「そう。あれがブリランテ山脈と、ドルチェの森よ。」


 シャルローナの周りの空気が張り詰めるのを、エルレアは感じた。


「森の中へ進める?」シャルローナが御者へ問いかけた。

「一応、道のようなものはありますが……もう随分使われていないようです。草がひどい。」


 若い御者は戸惑った声で返す。


「進める所まで進んで頂戴。あとは自分たちで歩くわ。」


「は、はい。かしこまりました。」










「う……気持ち悪い……。」

「ついて来れないようなら、ここに置いていくわよ。」


 姉のエルレアに支えられて馬車から降りるセレンを見て、呆れた様子でシャルローナが言う。

 荷物を背負って馬車から降りたクィーゼルは、「ん〜!」と思い切り背伸びをして、肩を鳴らした。


「それにしても、こんなに時間がかかるとは思わなかったな。日の入りまで2時間くらいしかないけど、どうする? シャルル。」


 スウィングは外していた剣をベルトに差して言った。

 エルレア、スウィング、シャルローナ、セレン、ニリウス、クィーゼルの6人の前に広がるのは、一つの街がスッポリ入ってしまいそうなくらい広大で深い森と、その森を裾(すそ)に纏ってそびえる黒々とした高い山だった。


「入るわ。」


 即座に答えると、シャルローナは一歩前に出て振り向き、全員の顔を流し見る。


「物音がしたり、変なものを見たりしたら必ずすぐ知らせること。決して皆から離れないこと。分かったわね?」

「……あ。」


 小さく声を漏らしたのはニリウスだった。直後、ビュッという音と共に何かがシャルローナの頭の横をすり抜ける。

 ビィィィン、と、矢がシャルローナのすぐ後ろにある木に刺さって震えた。


「……何のつもりなの?」


 怒りを抑えたような声で言うと、シャルローナはセレンを睨んだ。


「後ろだよ、姫さん。」


 クィーゼルの声に、シャルローナは後ろの木を振り返る。

 逃げるように幹を登っていったのは。


「危なかったなぁ姫さん。さっきのは毒蛇だぞ。」


 ニリウスが指差して言う。

 目にも留まらぬ早業(はやわざ)で矢を放った張本人のセレンは、構えていた弓を下ろして再び馬車酔いと戦い始める。

 怒りや警戒は、それが空回りだったことに気付くと急速に冷めていった。


(狙いを定める時間が無かったせいかしら? 蛇を射止められなかったのは。)


 木に刺さった矢をじっと見て、シャルローナは考えた。

 射止められなかった?

 いや、そうではない。


(ワザと逸らして、威嚇(いかく)だけに抑えたんだわ。)


 あんな一瞬で判断して矢を放ったのだ。


「うう……まだグラグラする……。」


(それにしても情けないわ。使えるのか使えないのか分からない子だこと。)


 礼を言おうと思ったが、当の少年がそれどころではなさそうなので、そっとしておくことにしたシャルローナだった。










 ハッ、と洗濯物を干す手を止めて、マリアは空を見た。

 常人には聞こえぬ音に耳を澄ませる。


「何……?」


 森が騒いでいる。


(でも、こんなに激しい声は聞いた事ないわ。)


 緊張。おびえ。警告。驚き。

 森中のありとあらゆる生物が、必死で彼女に“侵入者”の存在を伝えていた。


「ええ……分かったわ。」


 彼らはきっと、帝国の第一皇子を追ってきた者たち。

 でなければ、森の精霊たちがここまで激しく動揺するはずが無いのだ。


(待って。)


 もう一人……彼らとは別に入ってきた者が居る。


(あの子だわ。)


 感じ慣れた気配が、木を伝ってやってくる。

 侵入者達を森の中で迷わせ、あの子だけを上手くここに導かねば。


「精霊よ。」


 金色の睫(まつげ)に縁取られた瞳が、不思議な光を宿して輝く。


「お前たちがよく知る者のみ、ここに引き寄せなさい!」


 森の精霊たちが呼応する。

 響きは広がり、やがてはその声音が森全体に浸透していった。




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