ノスタルジア〜紫の刻印〜



第四章 通う心と不思議な霧




「少しまずいかもな。」


 眉をひそめてクィーゼルが呟く。


「ああ、霧が濃くなってきてる。日が沈んだら動かねえ方がいいぞ、嬢さんたち。」とニリウス。

「どこか開けた所に出たら、そこで休もうか、シャルル?」


 スウィングの言葉に、シャルローナは首を横に振った。


「いいえ。ここまで来て取りのがしたくないの。進むわ。」

「今はまだいいけどよ、姫。夜になったら何も見えないぜ、多分。」


 クィーゼルの意見は正しかった。

 太陽の光が弱まるにつれ、視界はだんだん狭くなっていき、シャルローナはやむを得ず足を止めた。

 近くに水の流れる音がする。


「ここで休みましょう。仕方がないわ。」


 ため息をついてそういうと、シャルローナはニリウスとクィーゼルを見た。


「はいよ。野宿する準備だろ?」

「そんじゃあ、クィーゼルは火をおこしてくれ。俺は布を敷いて水を汲んでくる。」

「ああ。」


 二人がせっせと野宿の準備をし始める中、スウィングは傍らに居る金髪の少女を見た。


「エルレア。体力は残ってる?」

「まだ大丈夫だが……何だ?」


スウィングは意味ありげに笑う。


「願い事、叶えてあげるよ。」


 二人のやりとりに、シャルローナが振り向く。


「スウィング。まさか貴方、これからエルレアに扇術を教えるつもり?」

「心配ないよシャルル。あまり皆から離れないから。行こう。」


 何気ない仕草でスウィングはエルレアの手を取り、森の奥へと入っていった。

 二人の背中を見つめる赤い髪の少女の瞳に、わずかに浮かんだ寂しげな色。

 しかしそれは、誰にも気付かれないまま消えた。











「この扇は……やっぱり強度が低いな。扇術には専用の扇があるから、興味があったら見てみるといいよ。普通の扇よりも骨がしっかりしていて、慣れれば扱いやすい。少し重いけどね。」

「聞いてもいいか? スウィング。」


 スウィングから扇を受け取りながら、エルレアは首を傾げた。


「普通、扇というものは婦人が使用するものだと思うのだが……スウィングは何故扇術を知ってるんだ?」

「ああ……小さい頃、まだ木剣を扱う腕力も無かった頃にね、母上から習ったんだ。」

「皇妃殿下が?」

「そう。皇族の女性は、扇術を叩き込まれて育つから。」


 スウィングの母、シルキー皇妃は、気が強い女性と聞いたことがある。

 銀の髪、銀の瞳。女神のように神秘的な容姿とは裏腹に気丈な女性だと、昔養母であるハーモニアが話していた。


「シャルルもああ見えて、扇術はなかなか強いよ。」


 では、シャルルから習ったほうがいいのでは。そんなエルレアの考えを読んだように、スウィングは付け加えた。


「実際、襲ってくる連中の武器は剣である事が多いからね。指導する人間は剣も使えたほうが良いんだ。」


 スウィングは、茂みの中からまっすぐな木の棒を探し出すと、表面についた葉や土をはたき落とした。


「今は練習だからこれを使うね。扇を右手に持って。」


 指示された通りにエルレアが構えると、スウィングは扇の先に木の棒を当て、剣術の構えを取った。


「本当は、構えには時間をかけなきゃいけないんだけど、時間がないから実践練習中心で行くよ。できるだけ手加減はするから、僕の攻撃を防いでみて。」


 そう言うと、スウィングはあらゆる感情を顔から消した。
 









 気まずい沈黙を破ろうとして、セレンは口を開いた。


「あの。」

「何。」

「ええ……と。」

「何も用が無いなら話しかけないで。」

「……はい。」


 水を汲みに行ったニリウスがなかなか戻ってこないので、クィーゼルはニリウスの様子を見に行った。

 結果、セレンとシャルローナの二人だけが野宿場所に残されたのだ。


(……どうしよう。)


 この状況に、セレンは頭を抱えていた。

 生まれて十一年。母の従妹にあたるシャルローナとは、何度も会ってきた。

 しかしそれは、それぞれの親達と共にであったし、しかも言葉を交わす事はほとんど無かった。


(姉様なら)


 もしも残されたのが姉と自分であったなら、こんなに悩むことは無かっただろう。

 姉はこんな時は多分、何か面白い話をしてくれる。

 けれど、姉とシャルローナは違いすぎる、とセレンは思った。

 姉であれば、喜怒哀楽の感情が分かる。しかしシャルローナが見せる表情は、ほとんど不機嫌な表情ばかりだ。


「あの……シャルローナ様。」

「貴方には言ってなかったわね。この旅では私とスウィングの事、呼び捨てにしてもらって結構よ。」


 シャルローナは視線すら合わせようとしない。


「え、でも。」

「嫌なら帰りなさい。」

「は、はい、シ……シャルローナ……。」

「何?」

「いつも、お綺麗ですね。」


 途端、シャルローナの眉の間のしわが増える。

 そしてようやく、彼女は自分の方を見た。


「ありがとう。けれどね。全ての女性がその言葉で喜ぶなんて思うのは大間違いよ。勉強し直していらっしゃい。」

(いや、別に喜ばせるためじゃなくて、素直に思った事を言っただけなんだけど……。)


 どうして、作り笑いすら浮かべてくれないんだろう。

 セレンは気付かれないように、小さく溜息をついた。











 シャルローナは、黙り込んでしまったセレンに(きつく言い過ぎたかしら)と思っていた。


「セレン・ド・グリーシュ。」

「は、はいっ。」

「お母様のご容態はいかがなの?」


 セレンの顔に暗い影が落ちる。

 それに気付いたシャルローナは、聞いてはいけない事を聞いたのかもしれない、と少しだけ反省した。


「母様は、最近よく外に出られるようになりました。」

「じゃあ、病気の方はもうすぐお治りに……。」

「いいえ!」


 とっさに大きな声を出してしまった自分を恥じるように、一瞬だけセレンは沈黙した。


「母様は強気に振舞っていますが、病気は……。」


 セレンは必死で泣き出すのをこらえた。


「何かあったの?」と、喉元まで来た問いを、シャルローナは飲み込んだ。


 尋ねてはいけない事のように思えた。











 振り下ろされた木の棒を、身体を横に向けて避けたエルレアを見て、スウィングは(上手い)と思った。

 身体全体を横に向けると言うことは、相手にとって上からの攻撃がかけにくい体勢になるということ。

 だが、背後に大きな隙ができる。

 スウィングがその隙を狙って打ち込もうとした時、エルレアの身体が突然バランスを崩して後ろに大きく傾いた。


「危ない!」


 木の棒を捨ててエルレアを受け止めたスウィング。


「……」


 時が止まったかのような沈黙が、しばらく流れた。


「……すまない。」

「……あ、ううん……。」

「なんだ……?」


 スウィングに背を支えられたままの体勢のエルレアは、スウィングの向こうにある空気の変化にいち早く気付いて、目を見開く。

 エルレアにつられて、スウィングも上空を見上げた。


「霧が濃くなってきた……。」


 ドレスの裾についた土を払って起き上がったエルレアは、スウィングと共に異様な速さで立ち込めていく濃い霧に目を奪われた。

 エルレアたち一向が入った森は、わずか数秒のうちに一寸先すら見えない霧の森と化してしまった。


「急いでシャルル達の所へ戻ろう。はぐれたら大変だ。」


 シャルローナ達の居る場所は、遠くは無い。スウィングは記憶を頼りに道のある方向へ進もうとした。

 その腕を掴んで、エルレアはつぶやいた。


「スウィング……その道は、シャルル達の所には『繋がっていない』。」

「え……?」


 戸惑いを隠せず、スウィングはまばたきをする。


「おかしい。森の空気が今までとまるで違う。霧もだが、森全体がまるで意思を持っているような気配を感じる。」


 少女のまなざしは、この濃い霧の向こうさえ見通しているように力強かった。


「スウィング。私を信じてくれるか?」


 確信に至っているように見える瞳とは逆に、迷いが感じられる声だった。

 まるで、これから口にする事が自分でも信じられない事だとでも言うように。


「うん。」とスウィングが答えると。

「ここからシャルローナ達の元へ通じる道は、全て何者かによって断たれた。……空間が切り取られたというべきか。とにかく、今はどんなに動いてもシャルローナ達の所へは戻れない。」

「……。」

「……笑うか?」


 緑の瞳が心細そうに揺らいだ。


「いいや、信じるよ。そんな深刻そうな顔で言われたら敵わない。」


 苦笑まじりにそう言うと、スウィングは真剣な顔になる。


「それなら……夜が明けるまでどこかで休んだほうがいいね。」

「……あっちだ。」

「え?」


 少女は、何も見えない闇の中を指差す。


「向こうに、何かほら穴か洞窟のようなものがある……気がする。」

「エルレア?」


 彼女に何が見えているのだろうか。


「……分からない。私にも訳が分からないんだ。けれど何かを感じる……この森は何だ?」

「……行こう。君の言葉を信じるよ。案外クィーゼルとかニリ辺りも、洞窟の位置とか分かりそうだしね。」






 あの二人の動物並みの野生の勘と一緒にされている事が少し気になりつつも、エルレアは何も言わなかった。











「動かないほうがいいですよ。」


 物音を立てずにテントから出ようとしていたシャルローナは、後ろからかけられたセレンの声にびくりと立ち止まった。

 テントの中で、セレンは毛布を被って横になっていた。

 てっきり寝付いたものだと思っていたのだ。


「スウィングさんが心配なのは分かります。僕だって……姉様に何かあったんじゃないかと思うと眠れないんです。でも、少なくとも今は動く時じゃないと思います。もしシャルローナさんに何かあったら、僕がスウィングさんに怒られます。せめて夜が明けるまで……待ちましょう。」

「こうしているうちに……。」

「シャルローナさんは、焦りすぎです。」


 シャルローナの方は向かないまま、セレンは続けた。


「世の中に焦らなきゃいけない時があるように、焦っちゃいけない時だってあるはずです。」


 分かっている。

 けれど、もう誰かを失うのは嫌だ。

 誰かが自分の傍から居なくなってしまうのは嫌だった。


「今は、焦らなきゃいけない時よ。」

「獣が襲ってきたらどうするんですか? 貴方をいつも守ってくれるスウィングさんは居ないんですよ。ニリもクィーゼルも居ない。僕では……力不足です。」

「誰も貴方に守ってほしいなんて思ってないわ!」


 思わず声を荒げてしまった。

 だがセレンの声は、それでも冷静だった。


「シャルローナさんは、この国にとって大事な人です。だからシャルローナさんには、自分の命を守る義務があると……僕は思います。」


 セレンの言葉に、シャルローナはその場に立ち尽くした。




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