ノスタルジア〜紫の刻印〜



第五章 ここに居る





(……だめだ。眠れない。)


 エルレアとスウィングは、見つけた洞窟の奥で仮眠を取っていた。

 そのはずだったが、スウィングはこの状況が落ち着かず、瞼(まぶた)を閉じても寝入ることはできなかった。

 スウィングは寝付くことを諦め、自分の肩に軽く寄りかかるように眠る少女を見下ろす。

 安らかな寝息を立てている少女の肌は、薄暗い洞窟の中で光を放っているかのように白い。

 暗さに慣れた目には、彼女の顔や身体の線がぼんやりと見えた。


(華奢だな……)


 その堅い口調や表情のせいで、どうしても図太く強く思えてしまいがちな彼女だが、実際はそうではない。

 彼女の心根は人並み以上に優しくて素直だ。

 顔立ちだって、こうやって寝顔を見ていれば誰だって可愛らしいと思うだろうし、人身売買をしていた組織の館で抱きしめた時も、扇術の練習中によろめいた彼女を受け止めた時も、その身体の細さと軽さに驚いてしまった。

 気をつけて扱わないと壊れてしまいそうだ。

「女性に剣を向けてはいけない」という父の教えは本物だったと思う。

 生誕記念祭の夜の事を思い起こすと、今でも自己嫌悪のあまり頭が痛むのだ。

 幼い頃に出会った少女、“エルレア・ド・グリーシュ”かどうか確かめるためだったとは言え、武術を知らぬ彼女に自分は剣を向けてしまった。

 怪我はさせないように手加減をしていたとは言え、知らない男からいきなり斬りかかられるのは、彼女にとってどれだけ恐怖だったことだろう。


(嫌われてないといい……なんて、それこそ自分勝手だ。)


 その後も彼女は怪しい組織に捕えられ、薬を飲まされ、奴隷として売られそうになった。

 閉じ込められていた部屋に踏み入ったとき、ずっと一人で心細くて怖かっただろうに、彼女は開口一番自分に謝ってきた。

 こうしてかすかな息遣いを聞いていると、彼女が無事でよかったと心から思う。

 スウィングは肩にもたれているエルレアに頬を寄せるように、自分も彼女に軽くもたれる。


「ん……」


 エルレアが身じろぎをすると、わずかに乱れた髪から甘い匂いが弾けた。


(あの時と同じ匂いだ。)


 よろめいたエルレアを受け止めた時、ふわりとあたりに広がった匂い。

 扇のような睫が縁取る、閉じられた瞳。その下には、一度見た者は二度と忘れられないくらい深い、深い緑の瞳がある。

 そこから少し下に、薄紅色の唇が覗いていた。

 触れたら、柔らかいのだろうか。


(って……僕は一体、何を考えているんだ。)


 徐々に、無防備なその寝顔を愛でるだけでは物足りなくなってきている自分に気付いてスウィングは焦った。

 そして必死に雑念を振り払う。

 彼女の髪の香りが、自分を欲張りにさせる気がした。

 落ち着かない。


(……頭、冷やそう。)


 スウィングはエルレアを起こさないように、ゆっくり身体をずらして抜け出した。











 不安な夜。

 こんな時はいつも、自分の部屋を抜け出して廊下にある窓から皇宮を見ていた。

 皇宮は、夜でもほのかに輝いている。

 あの城には、彼が居る。

 その事を思い出すだけで、不思議と安心できた。








 セレンから離れた位置に横になっていたシャルローナは、旅の疲れと不安からか、何度も夢と現を行き来していた。







(苦しい。)




 身体の熱さと気だるさが蘇る。

 自分の身体なのに。

 何故、自由にコントロールできないのか。

 それがひどく腹立たしく思えて、シャルローナは唇をギュッと噛んだ。


「タオルをお取替えいたします。」


 若い女の使用人が、自分の額に乗っていたタオルを取る。

 置かれた時に冷たかったタオルが、そんなに長くは無い時間の間に生ぬるくなっていた。


「要らないわ。」

「え?」


 新しいタオルを置こうとしていた使用人の手が止まる。


「出て行って。」

「ですが、お嬢様……。」

「用ができたら呼ぶわ。だからしばらく一人にして……誰も部屋に入れないで!」

「は、はい……かしこまりました。」


 使用人が出て行ってしまったのを見届けて、シャルローナは大きなため息をついた。

 まるで、火山がマグマを大地に広げているかのように、体内の熱は次から次へと生み出され、シャルローナの全身を巡った。


(情けない。)


 熱にうなされている姿など、できれば誰にも見られたくなかった。


(お父様……お母様……。)


 父も母も、皇族の仕事でオルヴェル大陸のあちこちを飛びまわっていた。

 今朝も、どこかの街へ仕事で出かけていった。

 出発前、両親はシャルローナの部屋に訪れ、出発を延期しようという話をしていた。


「大丈夫ですわ。午後には熱も治まると思いますから。私の事など心配せずに、民のためにお仕事をなさってください。」


 シャルローナは、両親の申し出を断ったのだ。

 実の所、午後にはよくなるとは考えていなかった。

 だから、日が暮れても熱が下がらない状況は想定内だった。

 この状況も、覚悟の上だった。

 だが自分はどこかで……予想外の事態に期待していた。

 もしかすれば、父か母が、自分の身を案じて戻ってきてくれるのでは、と。

 ありえない事だと分かっていたつもりなのに。

 視界が揺らいで、涙がこめかみを伝った。

 甘えている自分が恥ずかしかったのか、熱のせいなのか、もうシャルローナには分からなかった。




 ぼやけた視界に、両親の顔が現れる。



(まさか、本当に。)



 帰ってきてくれたのだろうか。

 震える指を伸ばしてみると、両親の姿はぐにゃりと曲がって、消えた。

 そしてそれが、熱が作り出した幻だったことに気付く。




「……っ。」




 堰(せき)をきったような勢いで、涙が次々に溢れだす。

 諦めたように瞳を閉じ、力なく下ろした手を。




 受け止めた手があった。

 額にも手が置かれる。


 ひんやりとした手がもたらす安心感が、不思議なほど自分を癒していくのが分かった。


「シャルル。」


 自分を安心させるように呼んで、彼は大人びた表情でシャルローナを見た。











 うすぐらい洞窟の中で、エルレアは目覚めた。

 そして、自分の肩にかけられている上着に気付く。


(これはスウィングの……?)


 しかし、近くにスウィングの姿が見当たらない。

 暗すぎて見えないだけかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。

 エルレアは、入り口の方へ向かった。


「あ……起こしちゃった?」


 入り口のすぐ傍にスウィングは居た。


「いや……。」


 そしてエルレアは、スウィングをまじまじと見つめる。

 薄暗いからこそ、いつになく遠慮なく見つめてしまった。

 彼はこんな場所に居ても、優美な雰囲気を崩さない。

 何を言う必要も何をする必要もなく、醸し出す空気だけで高貴な存在なのだと分かる。


「上着ありがとう、ございます。」

「どうしたの急に? 普通に話していいよ。」

「無礼な話しかただったのではと……思ったんだ。」


 今まで、色々ありすぎて自分の話しかたを気にかける暇が無かった。

 しかし、こうして二人っきりで時間をもてあましていると、自分の態度が場に合わないことに気付く。

 スウィングはこの帝国の皇子で、自分はグリーシュで育てられた庶民(しょみん)の娘に過ぎない。


「今更構わないよ。変にかしこまられると逆に話しにくいしね。」


 苦笑してスウィングは言った。


「スウィングは眠らないのか?」

「ん? 僕はここでいい。こんな霧の中を歩く人間はそういないだろうけど、動物は違うからね。」

「じゃあ、この上着を。ここは奥より冷えるだろう。」

「ありがとう。でも心配しないで休んでいて。僕は平気だから。」


 エルレアは、何かを考えるように緑の瞳を細めた後、手に持っていた上着をスウィングにかけた。


「エルレア?」

「女は男より脂肪が多い。寒さにも飢えにも、女は強くできているから私こそ平気だ。疲れたら呼んでくれ。いつでも代わろう。」


 それだけを言い残し、エルレアは踵(きびす)を返して奥に戻っていった。

 しばしあっけにとられたスウィングだったが、その内笑いがこみ上げてくる。


「脂肪の話を持ち出してくる娘(こ)は初めて。」


 奥の方に響いて本人に聞こえないように、スウィングはその呟きを外の霧に散らす。







 ほのかに温かいのは、きっと上着のせいじゃない。

 彼女の声や仕草を思い出すたび、離れたはずのぬくもりが蘇ってくるような気がして、スウィングは彼女に触れていた方の肩をそっと抱いた。












「ったくニリの奴、一体どこまで水探しに行ったんだよ……。」


 参った、という表情でクィーゼルは一度立ち止まり、辺りを見回した。

 霧がひどすぎる。

 ただでさえ、四方は全て木々が視界を覆っているのだ。


(やばいな。このままじゃ、あたしまで帰れなくなる。いちかばちか……やってみるか。)


 それはクィーゼル自身や周辺の人間に危険が及ぶ可能性もある手だったので、封じてきたものだった。

 クィーゼルは二回ほど深呼吸をした。

 そして、再度すぅっと空気を肺にとりこみ、瞳を閉じる。




 何とかの前の静けさ、3秒。




 クィーゼルは、漆黒の瞳をカッと最大限まで見開いた。


「ニリウス・ジャグラムー!!!居るなら返事しやがれーーーーー!!!」


 その常人離れした大きさの声を吸い取りきれなかった霧は、声の圧力かクィーゼルの半径数メートルに渡って薄れる。

 周囲の木々からはボタボタと、完全に耳をやられた動物や虫が落ちてきたが、クィーゼルは構いもしない。

 耳を澄ませたクィーゼルは、霧の闇からわずかに漏れ聞こえた彼女に応える音を聞き逃さなかった。


 それは、ニリウスが時々使う指笛。

 使用人とは言え、一貴族の屋敷で育った人間とはにわかに信じられないほどの野生の勘で、クィーゼルはニリウスが居る方向を特定した。




第四章へ戻る 資料館に戻る 第六章へ進む


Copyright©2009-2012 藤咲紫亜 All rights Reserved.