ノスタルジア〜紫の刻印〜



第七章 貴女を想っていた




「で。こいつどこに居たと思うよ? 森の入り口だぜ! 呆れるわムカツクわで。」


 マリアに入れてもらったハーブティーを、それでも最低限の作法でもって飲み干すと、クィーゼルはこれまでの経緯をその場に居た人間に話した。

 ニリウスがフォローのつもりで言葉を挟む。


「いや、別に来た道を戻ったつもりはなかったんだけどよ。気付いたら森の外に出ちまったんだ。姫さん達の所に戻ろうと思って何度も奥の方に進んでみたんだが、決まって外に出ちまうから、どうしようか考え込んでるときだったんだ。何かの雄たけびみたいな声が聞こえたのは。」

「雄たけび?」


 エルレアが記憶をたどるように、指をあごの下に当てる。


「俺はてっきり、この森にはまだ未開の類人猿とかが暮らしてんのかと思ったぞ。」

「誰が未開の類人猿だって?」


 ジロ、とクィーゼルに睨まれ、ニリウスは一瞬おびえる。


「とにかく、あとは姫とセレン坊だな。迎えにいくか? お嬢。」

「いや、その必要はないだろう。」


 ここでエルレアは、扉の方を見る。

 スウィングはエルレアより早く、外の変化に気付いていた。


「もう来ている。」


 エルレアの言葉が合図のように、ハキハキとして美しい声が響いた。


「誰か、いらっしゃいませんか?」


 マリアが恐る恐る扉を開くと、そこに佇んでいたのは大輪の薔薇のように艶(あで)やかな美貌。

 何人も侵すことを許されぬ気高さを纏(まと)った少女だった。









(重いっっ。重いです、この雰囲気……っ。)


 セレンがそう感じるのも当然である。

 つい先ほど、シャルローナと共に訪れたこの小屋の中に、無事を心配していた他の面々、エルレアとスウィング、ニリウスとクィーゼルがいた。

 そして、失踪中の第一皇子シンフォニーと、シンフォニーが連れていた娘マリアも居たのである。


 因みにマリアの弟、ユリアスも居たのだが、セレンはとりあえず、この豪華絢爛ともいえるメンバーを把握するのに必死で、気付くまでに時間がかかった。

 皇位継承権第一位のシンフォニーを前にして、シャルローナの傍で薄れ始めていた皇族への畏怖(いふ)にも似た緊張感が、セレンの中で再び首をもたげる。


 それに更に拍車をかけていたのが、張り詰めた静けさだった。


 シャルローナは椅子に腰掛け、お茶を運んできたマリアに「ありがとう」と言葉だけの礼を言った後、カップに手をつける事もせずに黙り込んだ。

 その場に居る誰もが、声を出すことを一切禁止にされたかのように押し黙り、息をする事すらはばかられるような沈黙の時が舞い降りたのだ。


(修羅場って、こういう時に使う言葉なのかな……)


 こっそりそう思ったセレンの隣で、スウィングが口を開いた。


「僕達は席を外そうか? シャルル。」


 シャルローナは一瞬だけ思案するように視線をおろしたが、再び視線を上げた。


「いいえ。私達が出ましょう。その方が早いわ。よろしくて? シンフォニー様。」

「ええ、そうしましょう。スウィング。」

「何?」

「野暮(やぼ)な真似をしてはいけませんよ。」


 暗に「盗み聞きをするな」と言っているのだ。


「しないよ。心配しなくても。」


 少し憮然として言葉を返すスウィング。


「約束です。」


 スウィングに小さく笑顔を向けた後、シンフォニーは小屋の扉を開け、シャルローナを先に行かせて、自分も出て行った。

 小屋の中に残された面々は、一気に張り詰めた雰囲気から解放されてため息をつく。


「スウィングは、シンフォニー殿下のことが好きなんだな。」


 エルレアの思いがけない言葉にスウィングは驚く。


「どうして?」

「シンフォニー殿下と会話をする時のスウィングは、普段より幼い印象を受けた。それは懐(なつ)いている証拠ではないか?」


 スウィングは虚をつかれたような表情を浮かべたが、やがて微笑を浮かべる。


「そうかな。……そうかもしれない。小さい頃、兄さんには滅多に会えなかったから。その分、会えた時は凄く甘えてた。」


 ここでセレンはエルレアと目が合う。

 ふわり、とエルレアの纏う雰囲気が柔らかいものに変わった。


(あ……姉様、笑った?)


 きっと今姉が自分に微笑みかけたことに気付いたのは自分だけだ、と、セレンは照れ隠しをするようにうつむいた。


「兄弟仲が良いのはいいことだ。」


 エルレアの言葉に、スウィングもまた少し照れたような笑みを浮かべた。









 シャルローナは、笑顔を浮かべたままのシンフォニーを見据えた。


「まず、お聞きしたいわ。」


 スッ、と息を吸うシャルローナ。


「どうしてなの。お兄様。」

「懐かしい呼び方ですね、シャルル。」

「よろしいでしょう? どうせここに居るのは私達だけよ。」


“お兄様”


 それは、シャルローナがシンフォニーと婚約する前、彼を呼ぶ際に使っていた呼び名である。


「お兄様。どうして?」


 シャルローナは繰り返した。


「どうしてだと思いますか?」


 シンフォニーは問い返す。


「私との婚約がそんなに嫌なら、嫌だとはっきり仰(おっしゃ)ればよかったでしょう。皇宮から逃げ出したりしなくても、私は婚約を解消して差し上げました。」


 シャルローナは、低い声音で答える。

 まるで、湧き上がる怒りを理性で必死に押さえ込んでいるような声だった。


「そうですね。きっと貴女は、たやすく私との婚約など解消するでしょう。」

「どういう意味ですか。」


 シンフォニーの表情から笑みが消える。

 月夜の海のような紺色の瞳が、シャルローナを捉(とら)えた。


「貴女の“そういう”人は、他にいますから。」


 シャルローナは瞳を見開いて口をつぐんだ。


「私の元では、貴女は幸せになれない。」


 シンフォニーは続ける。

 その言葉を聞いて、シャルローナは歪んだ笑みを浮かべた。

 整いすぎた顔立ちでは、そんな表情さえも美しい。


「“幸せ”? 幸せになるための婚姻など、そもそも私達にはありえませんわ。お兄様だってご存知でしょう? 皇族として生まれてきた以上、仕方のない事です。」


 たとえ他に想い人が居ようとも、自分を殺し、心を殺し、国に尽くし皇帝に従うのが皇族の人間の宿命。


「これを覚えていらっしゃいますか?」


 シャルローナが取り出したのは一通の手紙。

 封の切られていないそれは、シンフォニーが姿を消す前にシャルローナに残した手紙だった。


「書いてある内容など、読まなくても分かります。これが私の望みだとお考えなら。」


 シャルローナは、シンフォニーの目の前で手紙を破り捨てる。


「お兄様は大変な勘違いをなさってますわ。」


 風がさらっていく紙片を目で追った後、シンフォニーはため息をついた。


「勘違いは貴女の方ですよ、シャルル。」

「私が……? 教えていただきたいですわ。私が何を勘違いしていると?」

「何もかもですよ。皇宮を出て、ここに辿り着くまでに様々な事があったでしょう。皇帝の庇護の中では体験できない事もあったはずです。それでも貴女は気付かなかったんですか?」


 心の底から哀れむようなシンフォニーの表情に、シャルローナの自尊心は傷つけられた。


「何に気付かなかったと? 私欲のために人を売り買いする人間の汚さにですか? それとも、己の責務を放り出して行方をくらます人間の迷惑さにですか?」

「これは耳が痛いですね。残念ながら違いますよ。貴女の生き方です。」

「私の……生き方?」


 理解しかねる、と言いたげなシャルローナの表情に、シンフォニーは苦笑した。


「どうして、一つの生き方しかないと決めてしまうんですか? シャルル。どうして他の道を見ようとしないんです。」

「それが正しいからですわ。」

「正しい。何をもって正しいと判断するんです?」

「誰もが納得しますわ。正しさとは、そういう物ではなくて? お兄様。」

「その言い方は、まるで他人に認められない生き方は間違っていると言っているようですね。」

「その通りですわ。」

「では、私を追ってきた理由もそれですね。」

「ええ。お兄様を在るべき場所に連れ戻すため。」


 正しい生き方に戻すため。


「お兄様。皇宮にお戻りになって。」


 ふ、と短く息を吐いて、シンフォニーはシャルローナから視線を逸らした。

 その瞳が、わずかに切なげに揺れる。


「やはり貴女は、私を連れ戻すことはできませんでした。」


 口調こそ優しかったが、それは既に出てしまって動かせない結果の通告だった。

 唇を強く噛んで、シャルローナは動揺を隠そうとした。


「……何故ですの?」


 その声が震える。


「可能性はあったんですよ。他の誰でもない貴女にだけ、私を皇宮に連れ戻す可能性が、ついさっきまで。貴女はそれにも気付いていませんでしたが。」

「気付かなかった気付かなかったと、お兄様は過ぎてしまった事ばかりを理由になさいますわ! そうやって、上手く諦めさせようとなさっておいでですか!」


 口調を激しくしたシャルローナに、シンフォニーはゆっくり歩み寄った。

 その鮮やかな赤い髪についた葉を取り去ると、真剣な表情でシャルローナを見下ろした。


「では、今お気付きなさい。」


 それは、小さい子供に物事を教えるような声音だった。


「ヒントをあげましょうか。私が皇宮を出た理由は、貴女が嫌いだった訳でも、貴女の他に思い入れのある女性が居たからでもありませんよ。」


 シャルローナは疑うような視線を返す。


「公務がお嫌でしたか?」


 シンフォニーは珍しく、声を出して笑った。


「違いますよ。やらなければいけない事があったからです。」

「皇太子としての責務を投げ出しても、ですか?」

「ええ。」


 シンフォニーは即答する。

 何が彼をそうさせるのか、シャルローナには分からなかった。


「分かりましたか? 私を連れ戻せるただ一つの方法。」

「……いいえ。」


 力なくシャルローナは答える。


「仕方がありませんねぇ。」


 シンフォニーはシャルローナの頬に手を触れ、その耳元に唇を寄せた。

 そして何事かを囁く。

 その瞬間、シャルローナは雷に打たれたかのように身体をこわばらせ、シンフォニーを見上げた。


「だからこそ、私は皇宮を離れた。離れなければいけなかったんです。どうか覚えておいてくださいね、シャルル。」


 立ち去るシンフォニーの後姿を、シャルローナは覚めぬ驚きと困惑の表情で見送った。





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