ノスタルジア〜その名を継ぐ者〜
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第三章 ここに居ない彼女 |
どこに居るんだ? お前。
教えてくれたなら、あたしはどこへだって行くから。
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☆ハーモニア・ド・グリーシュ☆ |
グリーシュ家の書物を保管する部屋は、複数の部屋に分かれていた。旧リグネイ帝国時代からの書物も、丁重に特別な一室に保管されている。
膨大な資料の量だが、少女にとってはこの場所こそ自分の庭のような場所だった。
知識を求める人間にとっては、まさに楽園。
普段はあまり近寄らない棚から、少女はその本を取り出した。
分厚いその本を抱え、日の当たる窓辺へ移動する。
窓から入る風に、カーテンと少女の淡い色の髪が揺れる。
しばらく書物に集中していた少女は、突然近くに聞こえた足音に素早く書物を閉じて椅子から立ち上がった。
「あら、邪魔をしちゃったかしら。ごめんなさいね、エルレア。」
棚の影から現れたのは、光沢のあるベージュの絹のショールを部屋着のドレスの上から羽織った女性だった。
緩く巻いた段のある金の髪は、背中に下ろされている。
「いえ。起きられてもよろしいのですか?お養母(かあ)様。」
ハーモニア・ド・グリーシュ。
衰えを知らぬ美しさと気品を備えた、オルヴェル帝国皇室の血をその身の半分に持つ者。
整った顔立ちと時折見せる神々しさは、確かにスウィングやシャルローナに通じる部分がある。
「ええ、貴方が帰ってきたと聞いたら、急に元気が出てきたの。またあのかたを探しに行くのでしょう?その前に、一度会っておきたくて。」
あのかた、とはシンフォニーの事である。
内密にと言われた皇太子シンフォニーの失踪も、養父母とセレンにだけは伝えていた。
「申し訳ありません。最初にお養母様の部屋に向かうべきでした。」
「いいのよ。何を調べていたの? 手伝いましょうか? それは……。」
ハーモニアは、少女の手元にある本を見て驚いたように口をつぐんだ。
少女が読んでいた、否、調べていたのはグリーシュ家の家計図だった。
「人を……探していました。けれどどんなに探しても見つかりません……。誰かが、その人に関する全ての資料を消してしまったか、或いは、元々存在しなかったのか。」
少女は、貴婦人の水色の瞳を見て訪ねる。
「お養母様。私に“エルレア”という名前を下さったのは、何故ですか?」
その質問をされる事を覚悟していたのか、ハーモニアは落ち着いた様子だった。
少女の裁量を推し量るように、じっと緑の瞳を見返し、やがて少女の手元にある書物へと視線を戻す。
「……かつて、私には兄が一人居た……。」
ハーモニアは家計図の描かれた書物を開く。
カトレア・ド・グリーシュとソリスト皇子の子供は、ハーモニアと……。
「夭折された、フーガ皇子ですか。」
「そう、兄が亡くなったのは私が7歳の時。…父はその翌日に姿を消したわ。帝国内には、父が兄を殺しのではないかという噂が広まった。皇族達はその噂を消そうと、すぐに新たな皇太子を立ててそれを祝った。その皇太子殿下が、今の皇帝陛下よ。……皇族の目論見通り、臣民は父の事など忘れ、その忌まわしい噂も立ち消えた。」
ハーモニアは声のトーンを落として小さな声で言った。
「ここからは、グリーシュ家を継ぐ者にしか話してはいけない事。……この家系図を見て、おかしな所に気付いた?」
「……いいえ。」
「そう。……貴方は、恐らく将来この家を出て行くでしょうから、私からは教えてあげられないわ。……でも、一つだけ言えることがあるの。兄は、確かに殺された。そして兄を殺したのは……父では無い。」
少女には、養母が何故こんな話をするのか真意が掴めなかった。
「全ては、天が私達一族に下された罰……許してなんて言わないわ、貴方を巻き込んでしまったこと……けれど、それは私自身の勝手な望みでもあった……。」
窓の外を眺める養母の顔は、太陽の光を受けていつもより更に儚く見えた。
| ☆ |
「嬢さん!」
グリーシュ別邸・オパールの玄関の扉を開ける直前に誰かに呼び止められ、金色の髪の少女は振り返った。
「お帰り! 何調べてきたんだ?」
茶色の髪の少年は、腕に色美しい小鳥達をとまらせたまま少女に笑いかけた。
「いや、私事(わたくしごと)だ。」
少女は小鳥達を驚かせないようにゆっくりと歩み寄る。
「嬢さんも餌やるか? 大丈夫だって、痛くはねぇよ。手ェ出せ。」
少女が白い手のひらを開くと、その上に何かの植物の小さな種が零れ落ちた。
小鳥達は、ニリウスの腕から少女の手のひらへ羽ばたいていく。
「この黄色の鳥の名前は何だ? ニリ。」
「ん〜? ああ、マリィだ。」
「では、こっちの赤い鳥は?」
「シャルル。」
「シャルローナが聞いたら憤慨しそうだな。」
ニリウスは「内緒ッ。」と言うように笑う。
「しかし……ニリは本当に動物から好かれている。私の腕では落ち着かないらしい。」
自分の腕の上をせわしなく跳ぶ“シャルル”を見て、少女は少し残念そうに言う。
小鳥達がニリウスの方へ戻ってしまうと、少女はその小鳥達を見ながら独り言のように何事かを呟いた。
「ん、何か言ったか? 嬢さん。」
ニリウスが不思議そうな顔をする。
「いや。夕食に遅れるぞ、ニリ。」
「あっ、やべぇ〜っ。」
聞き返しては見たものの、ニリウスには少女の呟きが聞こえてしまっていた。
“お前達はいいな、自分の名前があって……。”
少女の声は、ニリウスが食事を済ませて眠りに就くまで、ずっと耳から離れなかった。
| ☆約束☆ |
その夜も、少女は夢を見た。
―――なぁっ、オパールの屋敷の裏に、大きな山があるんだ。この季節には、あの山のてっぺんにすっげぇ沢山の花が咲くんだって母さんが言ってたんだ。あたしら三人で、近いうちに行ってみないか?
そう訪ねると。
―――本当?うわあ行きたいな。
あいつは、顔を輝かせて答えた。
―――どんな花があるの?
―――うーん、ヒミツだ!
―――それってずるいよー。
グリーシュ別邸の一つであるオパール邸の裏にある山には、あいつが見てみたいと言っていた花があると聞いた。黄色の花びらが何枚も重なった、可愛らしい高山植物。しかも、頂上はその花で金色に染められるとも聞いていた。
―――楽しみにしときなよ。
―――うん!
少女は、迎えの召し使いに気付く。
―――あれ、僕もう帰らなきゃいけないみたいだ。
―――何だよ。今日はやけに早いな。
まだ、昼にもなっていなかった。
―――なんでだろ? あ、でも大丈夫、父様と母様には本邸から出してもらえるように頼んでおくから。
―――ああ、しっかりやれよ?
召し使いと共に屋敷に向かう後姿が、一度だけ振り向いてこちらに手を振る。
気付いた二人も、笑って手を振り返す。
驚かせてやりたかった。
喜ばせてやりたかった。
それなのに。
翌日、朝早くクィーゼルの元へ来たニリウスは、暗い表情をしていた。
―――どうしたんだよ?
顔を覗き込むと、茶色の瞳から大粒の涙がこぼれていた。
初めて見た、ニリウスの涙。
そしてその後すぐに、クィーゼルは知ったのだ。
| ☆ |
コンコン。
ノックの音で目が覚めたニリウスは、扉を開けてごしごしと目をこすった。
うつむいて長い髪が顔を隠しているが間違いなく。
「クィーゼル……?」
呼びかけた声に反応して自分を見上げた幼なじみの顔には、いつもの様な気丈な表情は無かった。
(……泣きそうだ。)
ニリウスは、とっさにクィーゼルの方に手を伸ばした。
しかしその指はクィーゼルに触れる直前で止まる。
それはニリウスの躊躇いだった。
クィーゼルは、何も言わずにニリウスの服を掴む。
そして、その胸に顔をうずめると静かに泣き出した。
ニリウスは、やり場のない手をクィーゼルの頭に添えた。
「何か……思い出したのか?」
ニリウスの問いに、クィーゼルは何も返さない。
ニリウスはため息をついて、クィーゼルの髪を撫でながら「見なかった事にしてやるよ。」と穏やかに言った。
クィーゼルが泣き止むまで待って、ニリウスは口を開いた。
「散歩なら付き合うぞ。寝るのが怖ぇなら、落ち着くまで傍にいるから。」
そんな資格、ありはしないけれど。
きっと自分には、誰の傍にもいる資格は無い。
二人はそのまま、邸内のある場所へと向かった。
朝居た場所へと。
クィーゼルは肖像画の下に座り込んで、雨をじっと見ていた。
「会いたいんだ、あたし……あいつに。」
泣きつかれたのか、クィーゼルの声には力が無かった。
「もしも……まだあいつがここに居たら……あたしはやっぱり、あいつの笑った顔を見ては怒鳴ってたのかな。」
“あいつ”はいつも笑っていた。
それを見てクィーゼルが『へらへら笑うな』と呆れ顔で言う。
それはかつての“いつもの事”だった。
「剣も……もっと強くなってただろうな。」
「力勝負では絶対お前が勝つのに、剣ではてんで敵わなかったからな。」
ニリウスは、肖像画の横の壁にもたれて、どこを見るでもなく俯いていた。
「それはニリも一緒だろ。」
――――ケガしてない? クィーゼル。
剣の稽古の最中、後ろに飛ばされて植え込みに突っ込んだクィーゼルに駆け寄って、心配そうに尋ねたあいつ。
汗一つかいていない様子から、本気で相手をしていなかった事が分かった。
それを見て、クィーゼルが更に吠える。
「あたしまだ……許せないんだ。あいつがいなくなったの……。」
“もしも”
それはありえないこと。
こうなればよかった、ああなればよかった。それとも自分が、そうすればよかったのか。
考えるだけ無駄な、愚かな事。現実が変わるわけでもないのに、人は仮説を立てたがる。
一瞬の幻を求めてしまうほどに、人は弱い。
―――二人とも! こっちにおいでよ、風が気持ちいいよ!
朝も昼も夜も。
春も夏も秋も冬も。
三人で緩やかな時を今までも、これからも。
彼女が夢を語るひと時も。
彼女が誰かと永遠を誓う瞬間も。
彼女が幸せを手に入れる光景さえ、自分と幼なじみは見ることができたはず。
言って欲しかった言葉。言ってやりたかった言葉。行き場をなくした気持ち。
大昔に封印したはずのそういったものが一気に蘇って、ニリウスは溢れそうになる涙を唇を引き結んで必死にこらえた。
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