ノスタルジア〜宴の夜〜



第四章 皇都からの旅立ち




 夏の夜明けは早い。

 午前三時だというのに、皇宮ヴェン・フェルージュ宮殿を囲む街はうっすらと明るかった。周辺を高い城壁に囲まれた皇都ヴィオラ。城壁の外には見渡す限り深い森が広がっており、その森の中に、ヴィオラと森の外にある街ファゴットを繋ぐ巨大交通路クインテット通りがあった。

 今はまだちらほらとしか人の影は見えないが、もう一時間もすれば通りに人が溢れて来るだろう。

 皇宮の大きな門の傍に、三つの人影があった。


「なあ、城壁越えて逃げたって事はないのかよ。」


 ひじくらいまでの長さの黒髪を持った少女が、横に居るもう一人の少女に尋ねた。

 美しい金の髪を持ったその少女は、ゆっくりと閉じていた瞳を開く。

 長いまつげの下から濃い緑の瞳が現れた。


「城壁には兵士がいた。それに城壁を無事に越えられたとしても、都を囲む広大な樹海を無事に越えられるとは思えない。あの樹海には危険も多いと聞くからな。クインテット通りを通っていったか、まだこの街にいる可能性が高いだろう。」


 グリーシュが治める領地は、比較的皇宮に近い位置にあった。だが近いとは言っても、馬車で五時間以上かかる距離である。

 皇宮に、もしくは皇宮ヴィオラの街に向かう際、貴族達が必ず通るクインテット通り。

 人目を忍んで移動するには長すぎる道だった。


「なるほどね…ってか、やっぱし無理なんじゃねえの?この無駄に広い国で一人の人間を探すってのは。」


 落ちかけたカバンを背負い直して、クィーゼルはぼやく。

「まだ望みはある。樹海に入っていないのなら、隠れているのはこの皇都か、グリーシュ領の隣の街、ファゴットだろう。」

「…なあ、嬢さん。嬢さんは第一皇子さんが見つかってほしいって思ってんのか?」


 ふいに茶髪の少年が口にした質問に、エルレアはわずかに首を傾げる。


「グリーシュの地位を上げる事ができるなら、それ以上の孝行があるだろうか。」


 グリーシュの地位を上げる、と言うのは、第一皇子を見つけ、第二皇子の妃になること。

 ニリウスは困ったように頭をかいた。


「いや…そうじゃなくてさ。嬢さん自身はどうなんだ?」

「…私は…正直に言えば、どうでもいいことだな。」


 どうしても妃になりたいとは思わない。それは自分自身が、妃という地位を欲していないから。

 エルレアはただグリーシュへの貢献のためだけに、ここにいるのだ。


「お、あれじゃねえか?皇子と姫。」と、黒髪の少女。


 皇子とはスウィング皇子、姫とはシャルローナの事である。

 正式に言えば、シャルローナは皇族であっても“姫”ではない。だがクィーゼルにとって、皇族の娘は全て“姫”らしい。

 皇宮から歩いてくる二人を見て、クィーゼルが眉をひそめた。


「あれ…本当に姫か?」


 噂とかなり違うような。

 赤い髪の少女は、真っ黒な服を着ていた。帽子も黒。靴も黒。手袋も黒。眼鏡も黒。ついでに口紅と日傘も黒かった。

 黒には人を遠ざける効果があるという。しかしここまで黒ばかり揃えると、危ないオカルトにはまってしまった少女にも見える。


「待たせた?」


 いつかの夜の低く凄みのある口調が嘘のように、やんわりと第二皇子はエルレアに問いかけた。


「いいえ。シャルローナ様は…」


 言いよどんだエルレアの言葉の先を察して、スウィングは苦笑した。

 そして、エルレアにそっと耳打ちする。


「本当はね、顔にも黒い絵の具を塗ろうとしてたんだよ、シャルル。」

「…。」

「シャルルの母上が、泣いてやめてくれって頼んで、諦めたらしいけどね」

「そうなんですか…、でも」


と言って、しばらく皇子を見つめた後、


「貴方は、本当に染めてしまったんですね。」


 とエルレアは言った。

 皇子の髪は、シャルローナの指示通り黒く染められている。


「ああ、これ?」


 皇子は自分の髪をグイ、と掴みとった。

 サラサラ、と濃い金の髪が、端正な顔にかかる。


「ウィッグなんだ。母親が染めるのは駄目って言うからさ。」


 皇子の髪を黒く染めてしまうのはもったいない、と思った自分を不思議に思うエルレア。


「召し使い二人は、その者たちね。」

「ああ、よろしくな姫。あたしはクィーゼルで、こっちはニリウスだ。」


 臆することなく素で行くクィーゼルに、シャルローナの美しい眉がピクッ、と震えた。


「随分と礼儀正しい人ね。」

「そっか?初めてだな、そう言われるのは。」


 シャルローナが得意とする嫌味攻撃も、クィーゼルには通用しない。

 シャルローナは拳を握りしめ、怒りを必死で抑えた。


「まぁ…いいでしょう…。その方が都合が良いわ。いいこと?私達に対して、シンフォニー様捜索中は敬語を一切使わないように。名前も呼び捨てで構わないわ。いつ、どこから誰が私達を見ているか分からないのだから、十分注意を払って行動すること。」


 シャルローナはどうやら、第一皇子捜索の間、身分を隠し通すつもりらしい。

 しかし、恐れおおくも相手は皇族である。呼び捨てにするなど、常識的に考えてどうだろうか。


「今日の正午にファゴットに向かうから、この街の門に集合よ。それまでは、この街で捜索。二人の人間を見かけなかったか調査してちょうだい。」

「「二人?」」


 エルレアとクィーゼルが、異口同音にそう言った。


「ええ。」


シャルローナの美しい顔(黒メガネ付き)が、微かに曇る。


「皇宮の召し使いの娘が一人、シンフォニー様と同じ時間帯に居なくなってるの。一緒に居ると見て間違いないわ。」

「何だ、それってムッッ。」


 禁句を言い出しそうになったクィーゼルの口を、エルレアとニリウスがすばやく塞いだ。

 婚約者であるシャルローナを残して、第一皇子は皇宮から消えた。

 しかも、他の女性を連れて。

 シャルローナは選ばれなかったのだ。皇帝の姪であり、誰より美しい容貌と気高い心を兼ね備えた、完璧な人間であるにも関わらず。

 それはシャルローナにとって、どれほど屈辱的な事なのだろう。


「時間厳守よ。三人と二人に別れて、速やかに調査を始めましょう。」


 シャルローナは自分を奮い立たせるように強く言った。

 エルレアは遠くの空を見つめる。

 海の潮が引いていくように、この皇都ヴィオラを包んでいた闇が少しずつ、少しずつ薄れてゆくのが分かる。ゆっくりと、時をかけて目覚め始める街で、五人の少年少女達は二つの方向に走り出した。




☆約束☆




 皇都ヴィオラからファゴットへ続く一本の広く長い道を、何十台もの馬車が走っている。そのほとんどが貨物を積んでいて、中には動物を運んでいる馬車もあった。

 貨物の馬車の一台を、老人が走らせていた。

 ゴトゴト、という揺れと共に、ファゴットの街の門が次第に大きくなってくる。


 もう数分くらいで、ファゴットの街へ到着するだろう。


「さて、もうすぐ着くから、降りる準備をした方が良いじゃろうのう。」


 老人は、白いヒゲを撫でながら荷台へ声をかけた。


「すいません、ご迷惑をお掛けします。」


 青年の声が応じる。


「しかしまあ、馬車も無しでお前さん達は何をしとるんじゃ?」

「妻と二人で、大陸一周の旅をしているんです。馬車は途中で盗まれてしまって…。」

「ああ、そういえば奥さんの具合はどうなんじゃ?熱は下がったかの?」


 言われて青年は、自分の肩に頭を預けて眠っている女の額に手を当てた。柔らかなウェーブを描いた金の髪が、汗で濡れている。

 昨夜の高熱は、大分引いているようだ。


「ええ、もう大丈夫です。長旅で疲れていたんでしょう。ファゴットで休みます。」

 老人は笑いながら馬に鞭を入れた。


「それもそうじゃろうて。この道を歩いていくのは、女子供には重労働じゃよ。一日中歩き続けて着ける距離じゃからの。」


 若い夫婦は、今朝道の中ほどで老人に拾われた。

 熱を出してぐったりとしていた娘に解熱の薬を飲ませてから、二時間ほど経つ。


「宿屋に着いてまだ少し熱があったら、また薬を飲んだ方がいいじゃろうな。そこの薬を持っていくといい。」

「ですが、あなたの分が無くなってしまいませんか?」

「なあに、構わんよ。家に帰れば買い置きがある。」


 老人はもう一度馬に鞭を入れ、馬車をファゴットの宿屋へ急がせた。








 軽い振動が、心地よい揺りかごを思い出させる。

 微熱と睡魔が創り出す優しい空間に、彼女は身を任せた。


 フワフワと、まるで宙に浮かんでいるような感覚。


(温かい…。)


 寄せては返す穏やかな波にたゆたって、遠くへ行ってしまっても構わないと思った。

 どこからともなく聞こえてきたのは、澄んだ歌声。

 若い女の声である。

 不安定だった世界が、次第に整っていく。

 幾つもの色が入り混じって濁っていた空は、明るい水色へ。


(これは…子守唄?)


 強さを増していく光のまぶしさに目を細めた時。

 ゆっくりとした調べが全てを包むように大きく響き、そして突然止まった。


「…あら。」


 自分の前に現れた美しい婦人は、おっとりとこちらに微笑んだ。


「どうしたんです?そんな所に立っていないで、こちらにいらっしゃい。」


 木陰から、婦人が手招きする。

 いつも綺麗な髪飾りでまとめられていた黒髪。少しほころびがあるが、上品そうなドレス。


(そういえば、あの人はこんな人だった…。)


 呼ばれるままに側へ行くと、婦人の手元にある鈴と糸のようなものに気付く。


「あの子は眠りましたか?」

 と、懐かしい声が問いかける。

 無言で頷くと、婦人はまた優艶な笑みを浮かべた。


 よく微笑む人だった。

 小さな事でも、幸せそうに笑う人だった。

 陽だまりのような暖かさが、彼女の周りにはいつもあった。


「それ、なあに?」


 作りかけと見られる物を指差して尋ねると、


「以前貴方に差し上げたものとお揃いのものですよ。」


と、婦人は答えた。


「これ?」腕のブレスレットを見る。

「そう、それは、貴方達の身を護るためのものです。困った時には、それに祈りなさい。そうすれば、その腕輪は必ず貴方に力を与えてくれるでしょう。ただし…その力を無闇に使ってはなりません。」


「どうして?」首を傾げる。

「腕輪が貴方に与える力は諸刃の剣。ともすれば、貴方の大切なものが無くなってしまうでしょう。だから、貴方の全てを犠牲にしてでも護りたいものができるまで、絶対に使ってはいけませんよ。」


 婦人は少女の手を取り、花のように笑う。


「大事にしてくださいね…マリア。いつか貴方に、そんな人が現れるまで。」

 はい。と、彼女はかすれた声で返事をして、俯いた。



 はい…お母さん



 伏せた瞳から涙がこぼれて頬を伝い、地面へ落ちた。


 光が再び強さを増す。

 気付くと、もう木も風景も光に包まれ、ただ白い空間に二人は居た。

 伸ばした手は母をすり抜け、虚空を掻く。
 

 やがて、遠い思い出の中の母も、その微笑みを最後に光に溶けていった。





☆一つの手がかり☆






 予定より早く目的地に着いてしまったスウィングとシャルローナの元へ、黒髪をはためかせた少女が息を切らして走ってきた。


「いたよ…見た人…フードを被った二人が、夜遅くに…馬無しで街を出たって…。」


 少し遅れてエルレアとニリウスも到着する。


「やっぱり、もうファゴットに向かったって訳ね。」

「違ってたらどうすんだ?姫さん。」


 ニリウスの『姫』という言葉に、シャルローナは微かに眉をひそめたが、実際の所この国に皇女殿下はいないので、差しさわりはない。


「ざるで水をすくうような状況では、それが事実かそうでないかは問題ではないわ。少しでも可能性があるなら、行き着く所まで追求するのみよ。」


 しかし、それが間違いであった時、事態はそれこそ最悪な状況になる。

 もしも第一皇子達がまだヴィオラにいたとしたら。シャルローナが囮(おとり)を追いかける間に、その痕跡は消えてしまうだろう。

 少しの可能性に付随している膨大なリスクもシャルローナは承知の上だが、今はリスクの大きさより時を優先せざるをえないのだ。


「急ぐわよ。昨日の夜にこの街を出たのなら、まだファゴットの街には着いていないはずだわ。夜を迎えさせちゃ駄目。」


 恐らく、夜の闇に乗じて、目的の人物達はまたどこかへ逃げおおせる。


「次の調査のグループは変更よ。エルレアとスウィング、ニリウスとクィーゼルと私。ファゴットに着き次第、開始するわ。」


 シャルローナは一回だけ皇宮を振り向き、用意してあった馬車に乗り込んだ。


「あれ、お嬢、どうしたんだそのボタン。」


 クィーゼルがエルレアの袖のボタンを指して言った。

 見ると、茶色のボタンに通された糸が緩み、今にも取れそうになっている。


「ああ、多分どこかで引っ掛けたんだろう。」

「仕方ねぇな、夜にでも付け直してやるよ。」

「できるのか。」

「何のための使用人だよ、あたし達は。」


 シャルローナに続いて、エルレアたちも馬車に乗り込む。


 ヴィオラの街の鐘が、正午の時を告げていた。






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